現代今昔物語―自分流儀。伝承。贈ることば、子供たちへ。不変のストーリー

我が息子と娘へ伝承したいメッセージをというのがきっかけで、時代が違っても考えかたは不滅といった内容を新世代達へ残したい。

自分探し 19/100

2014-07-29 | Weblog

小学校は、2年毎にクラス替えと、担任が変わった。基本的には今も同じように思うが、少し違う状況もあって、画一的でなく、各々の学校によって少しずつ異なるみたいだ。小学1年生の時は、学級委員などの選出はなかった。2年生のときには、3学期の学級委員に選ばれた。1,2年の担任は、K野先生。(女性) 厳しさと優しさが半々ぐらいの先生だった。3年になって、クラスも変わり、担任もY本先生(女性)に変わった。子供の心にもわかるぐらい、この担任の先生には嫌われていた。当然、こちらも常に警戒心をもったり、引き気味に接するようになるので、ますます嫌われていく。通知表にも、その影響が出る。3,4年いずれかはクラスのなんの委員にもなれなかった。4年からの鼓笛隊に関しても、何故か、この先生が指導役の一人となって、目を付けられていた。5,6年は、H部先生。(男性) 初めて男の担任となった。音楽を専門としていて、鼓笛隊、器楽部の顧問、クラスでもよく音楽の授業時間が多くなった。5,6年時は、やはりどちらも3学期だけの学級委員。3学期専門だ。

1年生からの同じクラスに、M田君という、いわゆる天才と呼ばれる友達がいた。結果として高校まで同じ学校に行くことになったが、中学からは、ほとんど一緒することがなくなった。小学校時代は、特に低学年の頃は、大の仲良しといえる間柄だった。彼は、勉強がよくできた。スポーツもそこそこなんでもこなしていた。なんにでも好奇心が強いと思った。持っている玩具も、なんとなく違った。少し、科学実験めいたような器具的な要素をもつようなものもあったにと記憶している。もちろん昆虫などのことにも詳しかったし、解剖などにもそんなに怖がらずに淡々と処理できる面があったと思う。お互いの家を行き来したが、家庭内の雰囲気は少し違っていた。結構、なんでも子供にやらせてみる、放任というか、しっかりとした方針のようなものがあって育てられているのだという風に感じた。別に実際そうだったのか、具体的にこのようなことに出くわしたとか、はっきりとこれだという根拠がないのだが、なんだか知らないが、冷たい空気感というものを感じてはいた。そのため、彼は、いわゆる、おませな子供。ませていたと思う。なんでも知っているように相手に思わせるし、持っている知識の領域が広いし、違っていた。頭の形もよかったし(絶壁でなかったし)、大きさも人より大きく映った。彼が家でも、学校でも、叱られるというのをあまり見たことがないと思っている。どうして小生のような者と気が合ったのか、その理由はわからない。1クラス36人だったが、彼はほとんど勉強は1番。小生は、13,14番目ぐらい。彼はいつも毎年、1学期の学級委員。小生は、3学期といえど、なぜ選ばれていたのか不明。おそらく 「なりたい」 オーラを出し続けていたに違いない。本当のところの彼の家庭環境のことを今でも知らないので、なんとも言いようがないが、何かが違ったことは間違いないと思っている、感じている。普通の友達づきあいだったが、彼には、なんか一人でいることは淋しくはないが、つまらないことも事実だし、小生と2人ならば、もちろん一人よりはいろいろ面白、おかしくできる、過ごせるという部分があったように思う。小生も同じように楽しいし、またいろいろと新しいことや、少し無茶なことへ挑戦できる部分もあったので。

そのように普段、一緒に遊んでいると、一体いつ勉強しているのだろうと思うぐらい。それでもテストになると、おおかた満点をとるから、天才と称された所以だ。こちらは、彼と一緒の同じ時間を過ごしたというだけで、その分、勉強していないので、それなりの結果となるのは、ごくごく自然現象だし、親からガミガミ言われる口実を作っているようなものだ。小さな頃に天才とか秀才とか言われる子供たちには、どこか違ったところを感じるし、人一倍好奇心が旺盛ということも言えるのではないかと思っている。そのため、たくさんの知識が増えるから、当然の帰結として大人びてくる、いるように見える。(実際、心のどれぐらい深いところまで、大人としての精神状態を作り出しているのかはわからないが、一見すると、そういう風に見えるということだ。) この当時は、子供がそれなりのお金を所持していることも尋常でないし、いろいろな物を売っているスーパーやDIY、店などもないし、誰彼となくお金を出したからといって、全くいぶかしがらずに何でも右から左へ物を売ってしまう時代でもないし、人間への興味自体が薄れてしまっているのかなあ。

かと思えば、現代は何かにつけてお互いに疑り深くなっているような側面もあり、その典型が、なんか非日常的なことには、こっそりと盗み見しておくが、それを己の中だけに留め、外へは出さない。何かが起こる前に、それらを開示すれば未然に防げるところを、他人様のことにへたに口出しすると自分が馬鹿を見るという風に、一見慎重とも言えるが、根本は臆病的に、遠まわしにしか人間関係を作れない。最たるものが、ネット社会だ。人間は、己を隠す事さえすれば、ここまで露出できる、露見できる、暴露できる、傍観者として。世界各地での紛争にまつわることも忌まわしいことだが、日常のネットの中でも人間の奥底に潜む酷さが、普通ぽく出現しているように思えてしかたない。