現代今昔物語―自分流儀。伝承。贈ることば、子供たちへ。不変のストーリー

我が息子と娘へ伝承したいメッセージをというのがきっかけで、時代が違っても考えかたは不滅といった内容を新世代達へ残したい。

人とのかかわりの度合い

2014-07-10 | Weblog

米国人のシンプルさについて思いを書いていたが、米国人や欧州人に学んだほうがよいと思うのが、ちょっとした軽い挨拶を気軽にすることだ。少し触れただけでも、excuse me と声掛けするし、全く見知らぬ人でも、天気や軽い話題で、その場たまたま一緒するというフレンドリー空気を作る。それに対して、日本人は満員電車や歩行中、はたまた同じマンション住人であっても、ろくに声掛け、挨拶しない。最近は、特にそういった風潮が強いと思う。大人がしっかり見本を見せていれば、自然と若者にも伝染するはずだ。エレベーターの乗り降りでも、スマートに誘導するし、なんとなくだが、せこせこしている所を感じさせない。オーストラリアやニュージーランドでは、そんなに高額所得者と思えぬ人でも、気軽にクルージングできる環境にあるようだ。狭い日本、そんなに急いでどこへ行く、ではないが、もう少し、ゆったりとした生活リズムを刻めないものか?

30歳を過ぎるころから、人を面接する機会が来た。面と向かって話をするとともに、たまたまその時は、ちょっとしたテストというか、適性をみるような検査的なものを試していただいていた。何に強く関心を持つかということなのだが、当時も、今も、自分では、その意味が理解できていない。最近になって、ようやくこういうことをチェックしたかったのかなと自分で勝手に解釈するところは出てきたが、果たして、自分なりのその解釈が正しいのやら、そもそも、そんな意味合いの適性検査だったのだろうかもよくわからない。

その適性検査結果上、あまり強く人に関心がありすぎるのも決してよいことでないという判断となっていたのだが、仕事をするうえで、仕事をおざなりにするぐらいに人への関心が強いとい意味なのかどうか、よくわからないが、そういうことを一応、客観的にみられるよ、というアドバイスをもらった上で、最終的に採用する・しないの判断は小生に委ねられるという状況だ。だから、その適性の結果はあくまでも参考として、実際に目の前で面談したことによる判断が優先されるのだが、ひとつの考え方、そういう見方があるのだ程度で自分の中では収めておいた。人とのかかわりは、物ごころついたときから始まり、死ぬまでエンドレスだが、それこそ十人十色となるので、正解はないのだろうが、なんでもそうだが、いわゆる成功者と呼ばれる人たちの言葉が重んじられるのだろうが。

個人情報流出事件が発生の模様だ。どんなデータであれ、他人様の所有権や管理義務があるものを無断で外へ持ち出すことは悪いことだと思うが、個人情報に関しては、個人情報として世間で騒がれるずっと以前から、DMや勧誘電話が個人の住所だけでなく、勤務先にも来たりして、誰もが、その時から、なんでここにいることを知っているの? と素直に疑問に思ったものだ。この疑問は、おそらく大抵の人が抱いたのではなかろうか。だから今回の騒動も流出それ自体は、由々しき問題なのだろうが、必要悪とは言わないが、いつの時代もなくならない課題と思うし、何十年前から出てしまっている情報に関して、なんか防御ネットや削除アクションなど、いまさら対策打てないだろうし、問題意識が薄れることもよくないが、個々人、個々組織の対応レベルぐらいが、せいぜい、関の山じゃないのかと思ったりする。

コメント
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