(神奈川県鎌倉市御成町)
明治22年(1889)軍事輸送を目的として敷設された横須賀線の駅として開設された。現在の駅舎は昭和59年(1984)に築造された三代目である。大正5年(1916)に築造された二代目駅舎の時計台が西口広場に置かれている。






(愛知県東海市荒尾町 2008年9月6日)
聚楽園大仏の裏手にあるこの池は、寛保元年(1741)浅井七左衛門と山口弥七郎によって浅山新田が干拓され、その際に灌漑溜池が築造された。ヤカン池の名は浅井家の屋号によるという。
(愛知県東海市 2008年9月6日)
享保十三年(1728)この地で生まれた儒学者細井平洲は、主に折衷学派と呼ばれる古学、朱子学、陽明学等先行学の諸説を折衷して穏当な説を唱える儒学者であった。江戸で私塾嚶鳴館を開き、諸藩で講義を行っている。米沢藩主上杉鷹山が師と仰ぎ、尾張藩藩校明倫堂の督学となった。
(神奈川県横須賀市田浦港町)




























横須賀線田浦駅から分岐する引込線がある。大正6年(1917)海軍軍需部の倉庫並びに引込線の築造が始まり、昭和2年(1927)に完成したこれら施設。引込線は、田浦駅から戦争末期に新たに築造された七釜トンネルを潜り、総延長5,880mを有した。横須賀側から田浦地区、比与宇地区、行基地区、港のある長浦地区に分かれ、それぞれ支線を配している。終戦と同時に米軍に接収されたが、間もなく返還され、兵器修理場、電機庫、通信兼電機兵器庫、光学兵器庫、水雷庫の施設は民間会社の倉庫等に、計器庫、航海兵器庫、砲銃庫は自衛隊施設に使用された。引込線は昭和59年(1984)廃止されたが、平成8年(1996)厚木基地の航空燃料輸送のため復活し、平成10年(1998)休止、平成18年(2006)廃止された。現在は道路となっている比与宇トンネルも引込線のために掘削されたものであり、内部には倉庫跡の横穴を塞いだ跡が残る。




























(愛知県豊川市赤坂町西縄手 2008年8月10日)
私が幼い頃からよく立ち寄った杉森八幡社は、大宝二年(702)持統上皇が三河を訪れた際に天照大神を勧請したことに始まる。残存する最古の棟札は寛和二年(986)である。境内には天然記念物の夫婦楠があり、かつては社名の由来である杉の大木があった。また、明治5年(1872)に築造された舞台がある。




(さいたま市南区・浦和区)
昭和38年(1963)に計画されたこの道路は、桜区田島から緑区大牧に至る延長8460mの都市計画道路である。その内、中山道から国道17号線の680mが2工区であるが、一軒の用地取得か難航し、全線の中で唯一用地取得が完了していない工区である。
(鹿児島市 重要港湾 特定港 2008年7月18日)
平安時代末期に開港したという鹿児島港は、南北朝時代に島津氏が統治し始めてからは港町として発展していった。近代に入ると東京、大阪、神戸からの航路が開設され、桜島、屋久島、種子島、奄美、沖縄諸島、台湾への航路も含め、日本一の自動車航送台数を誇る。
(こぶし沼 さいたま市南区白幡)


大宮台地麓にある池沼である。江戸時代初期に荒川が改修されるまで、支流である入間川がこの地を流れていた。湧水のあるこの地は白幡沼として残り、昭和10年(1935)に開削された灌漑排水路である笹目川の源流となった。



(さいたま市南区別所)
かつて浦和市南部の田畑が広がる地であったこの辺りは、東北線支線である埼京線系統開業時に、武蔵野線交点に設置された駅である。駅ができたことにより人口が増え、開発によりタワーマンションも増加した。さいたま市発足後は副都心に指定されている。