(神奈川県鎌倉市大町)
建久元年(1190)源頼朝が建立した医王山東光寺(二階堂:廃寺)の境内にあったものと伝わる。薬師如来像は鎌倉時代開眼とされ、延宝二年(1674)には、水戸光圀も訪れたという。宝永元年(1704)に至り、薬師堂と共に名越御嶽にあった医王山長善寺に移された。その後、長善寺と共に大町辻町に移り、江戸末期に焼失したが、薬師堂だけは残ったという。明治22年(1889)横須賀線敷設工事の際、路盤にかかったため現在地に移転している。
(浄土宗宝林山光忠寺 愛知県蒲郡市西浦町北馬場 2005年6月22日)
形原松平家の菩提寺として形原松平家初代與副(ともすけ)の弟光重(大草松平家祖)が文亀三年(1503)に創建したであり、初代與副、二代貞副、三代親忠、四代家廣、五代家忠の墓がある。寺号の「光忠」 は、與副の「玉峯院殿前佐州信譽雙元光忠大居士」からとられている。六代家信は摂津高槻、下総佐倉、丹波亀山と移封となり、以降は丹波亀山に新たな光忠寺を建立して六代以降の菩提寺とした。
(愛知県西尾市馬場町 2005年6月10日)
天正十八年(1590)大給(おぎゅう)松平家乗が祖父親乗と父真乗の菩提を弔うために、上野国那波郡(群馬県伊勢崎市)に創建したのが始まりという。その後、大給松平氏が移封と共にその城下町に随行し、明和元年(1764)大給松平乗祐が奥羽山形藩から三河西尾藩に移封になると現在地に移っている。
(愛知県新城市竹広字山形 2005年6月9日)
武田氏臣であり土岐氏族である原昌胤(はらまさたね)は、布陣の配置や戦略を立てる陣場奉行を務めていた。天正三年(1575)長篠設楽原の戦いでは、武田勝頼に撤退を進言したが受け入れられず、この地で討死している。
(相模国一宮 神奈川県高座郡寒川町宮山 旧名神大社 国幣中社)
雄略天皇年間(457-479)に奉幣(捧げ物)されたと伝わり、神亀四年(727)に社殿が建立されたと伝わる。祭神は寒川比古命(さむかわひこのみこと)と寒川比女命(さむかわひめのみこと)の二柱を祀る。中世には源頼朝や北条義時が崇敬し、武田信玄が小田原攻めの際に現存する兜を奉納している。
(静岡県浜北市貴布祢 2005年6月8日)
往古「伎部郷」と呼ばれていた付近は、その後、長上郡木舟村となり、高龗神(たかおかみのかみ)を祀る貴船大神を鎮守としていた。社伝によると神亀三年(726)鹿玉川(天竜川)の氾濫によって社殿を流出したという。
(愛知県瀬戸市巡間町 市指定文化財 2005年6月5日)
平安時代の記録「延喜式神名帳」に記載の天忍穗美美命(あめのおしほみみのみこと)を祀る神社である。参道の石鳥居は宝暦五年(1755)建立で、瀬戸市内では二番目の古さという。
(東京都台東区花川戸)
東武伊勢崎線の起点であるこの駅は、昭和6年(1931)浅草雷門駅として開業した。駅ビルは昭和6年(1931)に築造された、SRC造、地上7階地下1階、延床面積34613m2の商業併設駅舎である。この駅が完成するまで、伊勢崎線は業平橋駅を始発駅としていた。駅は2階部分に伊勢崎線が隅田川から急角度で乗り入れ、地下1階から地上7階までは「松屋浅草支店」として開業した。昭和20年(1945)空襲により内部を焼失したが、戦後に修復され浅草駅と改称された。近年、4階より上層を松屋の売上低迷を理由に閉鎖したが、東京スカイツリー完成を機に、外壁が旧態に復元された。
(愛知県幡豆郡吉良町饗庭 2005年6月3日)
矢崎川左岸の集落、饗庭(あいば)は、吉良氏と同族である足利尊氏の伝説が多く残る。饗庭は神を招きもてなす聖地(神社)を意味し、尊氏ら足利氏に仕えた土岐氏族の饗庭氏が存在する。暦応二年(1339)尊氏は饗庭神社を創建し、付近を開発したという。境内に残る「野外舞台」は、尊氏巡視の際に狂言を舞ってもてなしたとされる。その翌年に尊氏が建立したという曹洞宗青龍山金蓮寺には、それ以前の鎌倉時代に建立されたと推定される国宝の弥陀堂がある。境内には「お不動さんの名水」があり、饗庭城の茶の湯とし手使われ、飲むと金運に恵まれるとされる。また、金蓮寺の住職が田畑を荒らす大蛇を封じ込めたと伝わる蛇穴がある。
(埼玉県草加市神明 県指定文化財 日本の近代土木遺産)
綾瀬川と伝右川の合流点に、江戸時代に設けられた水門である。現存するのは明治27年(1894)に改築された煉瓦造で、増水時に綾瀬川の水が小河川である伝右川に逆流するのを防ぐものであり、神明排水機場が築造された昭和58年(1983)まで使用された。
伝右川排水機場
古綾瀬川・綾瀬川合流点
古綾瀬川排水機場