文字通り岐阜市の南に位置し、木曽川を境に愛知県(飛地)と接する羽島郡岐南町。
平成の大合併により、岐阜市となると思われたが、当面は単独の道を選んだ。
現在のところ唯一の駅、名鉄線岐南駅を降りると、そこは旧下印食(しもいんじき)村。
古来、北を流れる境川が木曽川の流れであった頃、この辺りは尾張国葉栗郡であったという。天正時代の木曽川氾濫によって流路が変わり、美濃国に編入され羽栗郡となり、中島郡と併合し羽島郡となったといわれている。先回の合併解消には、様々な理由を耳にするが、過去の地縁による考えもあるのだろうか。
村鎮守は八剣神社である。参道は東海道線によって分断されている。
境内には「池田輝政鎧かけ松」の史跡があり、輝政勢はこの地で休息した後、岐阜城攻めをしたという。当時からの松は残っていない。
旧集落の東端には役場がある。
岐南への目的の一つに、羽島地域は我が祖先の足跡がある地ではないかという情報をいただいたことがあり、それにより訪れた。予め習知しているこの地での関連語句に、河野、三宅、村上、宮川、土岐がある。因みに我が家の旧姓は河野である。一つ目の関連史跡、河野専光寺内には元弘三年(1333)吉野攻めの際、村上彦四郎義光は妻の岩根女(いわねじょ)を義光の乳母が住んでいたこの印食の地に置いて出陣していった。そして義光は戦死し、それを知った乳母は身を投げ、妻もこの地で最期を迎えたという、その墓が存在する。また、専光寺付近には印食城という城があり、土岐氏族の仙石次郎左衛門が住していたと伝えられている。
村上氏は伊予においては河野配下の水軍である。それら事跡を尋ねることもあり、今回はあえて平日を選び教育委員会を訪ねた。
羽島郡は共同で教育委員会を運営する珍しい団体である。旧川島町が各務原市へ、旧柳津町が岐阜市へそれぞれ合併したため、笠松町とニ町となった。この地域の地名に関する歴史書を現在編集されている方が町図書館におられることを紹介していただいたが、休館日であったため後日訪ねることとした。
岐南町の資料をいただいて下印食の地を後にし、東隣三宅集落へ向かった。
(関連記事:御成道伏屋 竹鼻 黒田 円城寺 川手)
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私も関係ありそう?
みんなが何か秘めてそうなまちですよね。
岐南には、変な思い出が多々ある。
ここでは書けないようなことばかり・・・・