小梅日記

主として幕末紀州藩の学問所塾頭の妻、川合小梅が明治十八年まで綴った日記を紐解く
できれば旅日記も。

二日目2 55番~52番札所

2016-11-29 | 四国遍路 伊予(愛媛...
二日目2 55番~52番札所

55番 別宮山 南光坊(なんこうぼう)
ご詠歌 このところ三島に夢のさめぬれば 別宮とても同じ垂述
本尊 大通智勝如来
四国霊場のうち「坊」がつく寺院はこの南光坊だけで、正式には光明寺金剛院南光坊という。起源は古く、航海の神、総鎮守・伊予一の宮の大山祇神社と深くかかわる歴史を持つ。今治市の中心街にあるので昼食をとった「菊水」から5分で着いた。



古来から海賊の多かったこの地を文武天皇の勅を受けた伊予水軍の祖といわれた越智玉澄が大山積明神を大三島に勧請し、大山祇神社を建て 24坊の別当寺を建立したのが創始と伝わっている。その内の8坊を行基が奉納し、後に弘法大師がこの別当寺で法楽をあげて修法し霊場に定めた。
この寺の見所の一つに芸術院賞を受けた書家の川村驥山の菅笠や筆塚がある。
海賊は後に武士となり多くの武士の信仰を集めた。
きらびやかで強そうな仁王さまたちに心を奪われた。





54番 近見山 延命寺(えんめいじ)
ご詠歌 くもりなき鏡の縁とながむれば 残さず影をうつすものかな
本尊 不動明王
今治は宇和島から赴任した藤堂高虎によって築かれた城下町だ。
寺の縁起によると、聖武天皇の勅願を受けて行基が不動明王を刻みお堂を建立して開いたとある。後には荒廃した寺を大師が嵯峨天皇の勅命によって再興し、不動院圓明寺と名付けたという。明治になって53番の寺と同じなので延命寺に変更された。その際に山門は今治城を取り壊すにあたって寺が譲りうけたもの。
境内からは今治市街地や造船ドック、しまなみ海道が一望できた。








53番 須賀山 圓明寺(えんみょうじ)
ご詠歌 来迎の弥陀の光の圓明寺 照りそふ影は夜な夜なの月
本尊 阿弥陀如来
今治街道が通る要所の和氣町は「万葉集」に詠われた熟田津にも関連し、道後温泉に近く古代からの船着き場だった。その堀江港を臨んで寺は建つ。




比較的こじんまりとした寺院で境内にはマリア観音像とよばれるキリシタン遺物が残されている。ここは日本最古の納め札(銅板製)が保存されている。
また、本堂の「龍の彫物」と、大師堂の「格子絵天井」と「特徴的な飾り瓦」が見どころ。




52番 瀧雲山 太山寺(たいさんじ)
ご詠歌 太山へのぼれば汗のいでけれど 後の世思へば何の苦もなし
本尊 十一面観世音菩薩
その昔、用命天皇の二年、豊後の国の真野という長者が高浜沖で難破しかけて信仰していた十一面観世音に救われた。そのお礼に一夜にして寺を建立したのがこの寺と伝わっている。その後、聖武天皇の名を受けて行基が十一面観音像を彫り元からっ田あった像をその胎内に納めた。その後も歴代天皇が十一面観音像を奉納したので7体になった。7体とも国の重要文化財に指定されている。また、本堂は国宝、仁王門も国の重要文化財。
伊予を訪れた聖徳太子も訪れて縁深く法隆寺の夢殿と同じ太子像を祀っている。






伊予の札所では難所の横綱が岩屋寺、大関が横峰寺とこの太山寺といわれているらしいが、きつい山坂が終わってようやく一ノ門。そこから10分歩いてやっと山門に到着!さらに、本堂までまだ500mもあった。しんどさは大関級と言われるのも納得。
今にも降り出しそうな空。もう4時半になっていた。ツアーなので添乗員さんがみんなの納経帳を持って走ってくれるから焦らずに済んだが、個人での参拝だとお参りよりも納経所に駆け込まなければならなかっただろう。納経所は5時で閉まる。






今宵の宿は奥道後温泉とある。6時前に到着。太鼓を打って歓迎された。バブルの頃に増築を重ねたのか迷子になりそうな広いホテルのような旅館だ。フロントで部屋のキーを渡され館内の説明を聞く。
部屋は広々としたツインルーム。一人ではちょっと寂しい感じ。ここは温泉が有名らしいがあまりにも遠そうなのでパス(もったいなかった)部屋のバスで白衣などを洗濯しながら汗を流した。食事も有名らしい。大きな部屋に数十種類の料理が並んでいた。っそんなに食べられないよ。デザートも充実。ケーキおいしかった。






コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 二日目1 60番~56番札所 | トップ | 三日目1 51番~49番札所 »
最新の画像もっと見る

コメントを投稿

四国遍路 伊予(愛媛...」カテゴリの最新記事