小梅日記

主として幕末紀州藩の学問所塾頭の妻、川合小梅が明治十八年まで綴った日記を紐解く
できれば旅日記も。

九十二番…☆☆二条院讃岐☆☆…

2015-10-31 | 百人一首
二条院讃岐(1141?~-1217?)

わが袖は潮干に見えぬ沖の石の 人こそ知らね乾くまもなし

源頼政の娘で、母は源忠清女で仲綱の異母妹です。宜秋門院丹後は従姉にあたります。。
はじめ二条天皇に仕えましたが、永万元年(1165)の同天皇崩後、陸奥守などを勤めた藤原重頼(葉室流。顕能の孫)と結婚し、若狭に共に赴任して重光(遠江守)・有頼(宜秋門院判官代)らを出産しました。
治承四年(1180)、父頼政と兄仲綱は宇治川の合戦で平氏に敗れ、自害します。
その後、後鳥羽天皇の中宮任子(のちの宜秋門院)に再出仕しましたが、建久七年(1196)には宮仕えを退き、出家しました。

二条天皇に出仕した頃から歌詠みを始めたようです。
若くして二条天皇の内裏歌会に出詠し、父と親しかった俊恵法師の歌林苑での歌会にも参加しています。
建久六年(1195)には藤原経房主催の「民部卿家歌合」に出詠して多くの秀歌を残しました。
出家後も後鳥羽院歌壇で活躍して、正治二年(1200)の院初度百首、建仁元年(1201)の新宮撰歌合同二~三年頃の千五百番歌合などに出詠しています。
順徳天皇の建暦三年(1213)内裏歌合、建保四年(1216)百番歌合の作者にもなりました。

父の頼政は平氏全盛の世の中では官位が思うように上がらなくて不満の多い人生で、それが以仁王を焚きつけて蜂起して自刃という道を辿ったのですが、和歌の才能には大変にたけていて、それを道具に政界のトップにとりいったと言われています。
その娘の讃岐は歌才を受け継いだのでしょう。有名な歌人として名前を残しました。
式子内親王と同じように、保元・平治の乱や崇徳上皇の憤死、平家の栄華から衰退までをも身近に見ての人生でした。
讃岐は自分の夢を歌に賭けたのでしょうか。美しい歌を詠み続けました。

この九十二番の歌は「私の袖は引き潮の時でさえ海の中に隠れて見えない沖の石のようなものです。人は知らないでしょうが涙に濡れて乾く間もありません」
といった意味ですが、これは実らない恋を悲しんだ歌とされています。
「沖の石」の例えが斬新だと好評を博して「沖の石の讃岐」と呼ばれるようになったとか。
こうして考えますと、当時の宮廷に於ける和歌の重要性が改めて感じさせられますね。

なお、定家が頼政の歌を百人一首に入れなかったのは、編纂当時はまだ謀反人だったので名前を出すことが憚かられたという事情があったようです。

埋れ木の花さく事もなかりしに 身のなる果ぞ悲しかりける

『平家物語』に載っている頼政の辞世の歌です。

讃岐の作歌活動は鳥羽院の歌壇活動が開始されると同時に高齢になってからも盛んでしたが、斬新な歌風が評価されています。
家集『二条院讃岐集』があります。
この頃はすぐれた女流歌人がたくさん出現していますが、動乱時代には女性もまた逞しく時代を見据えているということでしょうか。


今回で「百人一首」に出てくる21人の女性たちはおしまいです。
ありがとうございました。

コメント
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