じとうてんのう
645~70在位…皇后称制686~687…持統687~697…太上天皇697~702
鵜野讃良皇女・持統天皇・高天原広野姫天皇
天智天皇の第二皇女として生まれました。母は蘇我倉山田石川麻呂の娘、遠智娘(おちのいらつめ)で、母を同じくする姉に大田皇女、弟に建皇子がいます。天皇になるまでは鵜野讃良皇女(うののさららひめみこ)と呼ばれていました。後には持統天皇となるのですが、それまでは親しみを込めて〔讃良〕と書いていきます。
父の天智には皇后のほかに八名の妃がいて、わかっているだけでも十四名の子供がいました。讃良はその中で二番目に誕生しています。
この時代では結婚がことのほか重要な政略だったようです。といいますのも遠智娘は蘇我入鹿のいとこの蘇我倉山田石川麻呂の娘だからです。つまり、入鹿を殺害するに当たって蘇我内部の重臣を味方に引き入れるため天智は遠智娘と姪娘の姉妹を妃に迎えたのです。嫁がせてしまえば人質も同様で、父としては本家の若様の殺害に参加せざるを得ません。あのクーデターの折、勅を読み上げるだけの役目だったに過ぎなかった石川麻呂ですが、声も体も震えていて、これでは入鹿に怪しまれると天智を焦らせたそうですから、実直で小心な人だったのでしょう。
このクーデター、大化改新の年に讃良は誕生しました。しかも、五歳の時には祖父である石川麻呂が謀反を疑われて身の証を立てる為に一家心中をしてしまいました。直接、手を下さないまでもこれは、三児までもうけた夫に父を殺されたようなもので遠智娘の嘆きはどんなにか深く、ついに悲しみのあまり亡くなってしまいまったわけです。建皇子出産の直後のことでした。
讃良にとってもやさしいおじいさまとおかあさまでした。この頃から父への不信感が芽生えはじめていたのかもしれません。
讃良には父親の強い権力志向の血に加えてこの二つの大事件からどんな悲しみにも負けない強さが与えられたのだろうと思われます。
六歳で母を失った讃良きょうだい三人は父方の祖母の皇極天皇(=斉明天皇)の元で育てられました。建皇子は生まれながらの聾唖者でした。皇極はこの子が不憫でならず溺愛しました。また、たおやかで気性の優しい大田皇女もとても可愛がったのですが、何事をも見通してしまう感受性の強い讃良は苦手のようであまり可愛がってはもらえませんでした。讃良は今でいう可愛いげのない子供だったのでしょうね。孤独な少女時代を送ったに違いありません。
建皇子が八歳で亡くなりますと、讃良は一つ年上の大田と叔父の天武の元に預けられました。大人になれば妃とならなければなりません。建皇子がみまかったことで斉明は悲しみのあまり姉二人を手元に置いておくのが辛かったのでしょうか。
しかし、これも政略、天智と天武の結束を図るためという思惑がありました。天智は大江皇女と新田部皇女も天武に与えています。ですが、時期的に見れば額田王が天武から天智の方へ移った頃と一致するということからこの二皇女と額田王を交換したという見方をする人も少なくありません。全く、女をなんと考えているのかと腹立たしいことですね。
時は流れ、大田が大海人の后となり続いて讃良も妃となりました。讃良は姉の下の立場であることにかなり悔しい思いをしていたようですが、大田の方は妹として常に讃良を庇っていたようです。これは性格的なこともあるにしても、幼児期に愛されたか否かということが大きく影響しているのでしょうね。
父も夫も対外政策のことで紛争していました。何度も筑紫の国へ船を出し、その都度、皇女たちも同行します。大田はその船中で大伯皇女を、翌々年には娜大津で大津皇子を、天智元年には讃良が十八歳で草壁皇子をそれぞれ出産しました。
皇子を生んだことで精神的には少し落ち着く讃良でしたが、夫の天武の愛情は姉の方に向いていましたし、その上、父の天智の元に去って行った額田王への未練もたっぷりと残っている様子に苛立ちを覚える日々が続いているのです。しかし、それを決して人前では見せない強さがあり、それが讃良を大きな人間として成長させていたようです。
中皇命を勤めていた間人皇女が亡くなって、大田皇女が遠征軍の船の中で亡くなりました。どうやら、船中に蔓延していた流行り病に倒れたようです。遺されたのは三歳の大伯皇女と生まれたばかりの大津皇子です。草壁は二歳でしたから、讃良がまとめて育てることになったのかもしれませんが、一説では大田を可愛がっていた天智が引き取ったとも伝えられています。
讃良とてやさしかった姉の大田の死を悲しんだことでしょうが、それよりも、ライバルが消えたことの喜びが勝っていたらしい一面も否定できません。常に比較され、決まって自分よりも愛されてきた姉の存在は目の上の瘤だったのでしょう。事実、亡くなったことで讃良は妃から后へと格上げされました。
しかし、このライバル関係は息子たちに引き継がれ新たな悲劇の芽がすでに用意されていたのです。ですが、それはもっと先のことでこの頃の讃良は額田王の存在以外には苛立つこともなく平和な日々を過ごしていたものと思われます。
ほかの女たちはともかくも、夫の子供を産んだ身で父の後宮に入りしゃあしゃあとどこへでも自由に出入りが許されているあの女だけは我慢ができないのです。お父様もお父様よ!しかも、その子供の十市皇女を夫が掌中の玉のように慈しんでいるのです。やっぱり、我が背の君はあの歌うたいを今も愛しておられるのだろうか…それを思うと夜叉の顔になる讃良でした。
やがて、中皇命こと間人皇女が亡くなって長い喪があけて、いよいよ、父の天智が天皇につくことになりました。讃良は叔母である間人が嫌いでした。自分と性格が似ていることもありますが巷で言われている父との愛人関係だという噂が許せないのです。父への憎しみは世の中のことがわかってくるに連れて増大してゆきます。裏を返せば激しい父恋の思いがあったのかもしれません。
なぜ、私は誰からも愛されないのだろう…つい、そんな言葉を呟いてしまう孤独な讃良。
662年の二月、近江の新宮殿への引っ越しも終わり天智天皇が即位されました。
遷都の前には斉明(母)間人(娘)が同じ陵に葬られ、その横に大田(孫)が葬られました。百済救済戦争の敗退に加えて陵作りや遷都の為の莫大な費用を課せられて庶民の不満が充満していました。放火がふえていました。讃良はそんな世情をじっと眺めていました。時には、自分ならどうするだろうと考えることもありました。
遷都の年の五月五日に宮廷をあげての狩猟が蒲生野で開催されました。讃良は草薙、大伯、大津の母として振る舞います。皇太弟となった天武の正后として毅然とした態度を崩せません。十市は慎ましく大友皇子の后として各位から挨拶を受けています。結婚してまだ日が浅く初々しさが匂い立つようです。その十市を遠巻きに額田王と高市皇子が見守っています。高市は天武が采女に生ませた皇子で、大友は天智天皇の長男ですから讃良には異母弟になります。男たちは鹿を追うために馬に乗って走り去り、女たちは草摘みを始めます。五月の空はどこまでも青く、讃良の心も晴れ渡っていました。
しかし!宴が始まる頃には日も落ちて讃良に深い悲しみが訪れます。座興として歌の披露が始まって、夫と額田王の相聞歌が朗々と歌い上げられたからです。讃良は盗み見るように父の顔を見ました。天智も讃良を見やって二人の視線が一瞬絡みました。父の目は笑っていました。王者たるものの笑いでした。讃良はこの一件については無視することにしました。座興に過ぎないのです。 でも、深く傷ついていたのでしょうね。
この日を境に天智と天武の政策に対する意見の違いが顕著に見られるようになっていきました。夫が時期天皇だとの思いも揺らぎはじめ、讃良は情報収集を怠らなかったのでしょう。父がやってきた数々の失敗、それにもまして邪魔者は殺してきたことが今更ながら人々の心に作用していました。民衆は暖かいくておおらかな雰囲気を持つ天武の出番を待っていました。父が理の人であるとするならば夫は情の人です。それゆえに、一度情を結んだ女たちをも抱え込んでいます。
もし、この二人が激突したら…戦うことになったら勝つのは夫だと讃良は確信していました。もしかしたら、けしかけていたのかもしれません。鎌足が亡くなると兄弟の間に入る人が居なくなり不穏な雰囲気に包まれてていきます。天智は鎌足の「何事も天武さまとお謀りになって」という遺言を守らずに、新しく太政大臣というポジションを作って大友を任命しました。まだ、天武は耐えていました。だが、そこで天智は癌で倒れます。余命いくばくもないとなれば次期天皇を決めておかなければなりません。天智は天武を呼んで後を頼むと言いますが、天武はイエスと答えれば帰り道で殺されることがわかっていますので自分は坊主になるのでと断って病室を退出しました。そして、そのまま吉野の仮宮に向かいました。これから冬に向かう十月十七日のことでした。
天智から餞に贈られた法衣を纏って吉野に去った天武のことを「虎に翼をつけてを野に放すようなものだ」と人々は噂したといいます。天武と生死を共にすることを決意して吉野に同行したのは草壁を連れた讃良と舎人を合わせて十名足らずでした。行き先は斉明天皇が民の反感をかいながら建てた吉野の鳴滝にある離宮です。寝ずに馬を走らせて着いてみれば、かっては美しかった紅葉もただの枯れ葉にしか見えないあまりにも淋しい変わり様でした。
しかし、讃良の目はこの時からいきいきと輝き始めたのです。薪を燃やしたり食事を整えるなどは生まれて初めての経験だったでしょう。でも、讃良はとても幸せでした。愛する夫と息子との水入らずの生活を味わうことができたからです。ここには額田も五百重娘も尼子娘もいません。夫を独り占めでき、しかも、それが今後の血なまぐさくなるであろう計画が話題であっても、甘美で濃密な「時」の共有だったのです。
焚きつけにする柴だけはふんだんにある山中で草薙を叱咤しながら逞しく小枝を折り集める讃良の姿に天武は目を見張ったことでしょう。二人並んで今宵の食事のための魚を釣ったこともあるかもしれませんねえ。
舎人たちは各地に飛んで情報を集め、天武の伝言を伝えいざという時のための戦力集めをしています。近江からも腹心や残してきた皇子たちからの伝令が次々とやってきます。二人はこの寒い鳴滝でマイホームごっこをしていたのではないのです。天智天皇打倒という共通の大きな目的に向かって真の夫婦になることができたのでした。
十二月に入ると吉野山は雪に埋まります。その雪道を掻き分けるように柿本人麻呂、村井国男依ら数人の舎人がやってきました。十二月の三日に天智帝が身罷ったとの報告に駆けつけてきたのでした。讃良は「その時」が突然やってきたように思いました。
近江では大友皇子を総大将として軍備が着々と進められているといいます。大友は天武には可愛い娘の十市の夫です。夫の眉間に一瞬寄せられた皺を讃良は見逃しません。「さ、こちらもかねての手配通り駅鈴を…」背中を押すように言いました。「うむ…討たれるのを待っているわけにはゆかぬのう…」ゆっくりと天武は立ち上がりました。
これが、あの壬申の乱の幕開きでした。
大海人VS大友の戦いはほぼ一ヶ月間で終わりました。当然、天武側の圧倒的な勝利です。讃良も夫を助け、馬を乗り回しての大活躍でした。大友皇子は山崎のはずれで自害しました。后の十市皇女と息子の葛野皇子の後事のことは敵であり、舅でもある天武が悪いようにはしないと信じていました。ある意味で信頼しあっていたのでしょうね。
天武は都を飛鳥浄御原と定め、天皇として即位しました。讃良も晴れて皇后となったのです。昨日までは朝敵だったのが勝ってしまえば正義となります。戦いとは不思議なものです。天武は近江方への懲罰を最低限にとどめました。死刑になったのは右大臣ただ一人で多くの貴族たちはその寛大な処置に感謝して、以後の忠誠を誓ったそうです。
天武は天智の路線を踏襲して、官僚制度を強化するために飛鳥浄御原律令を制定したり下層役人の国司任官の道を開いたり、斉宮制度を制定したりしました。大伯皇女がその最初の任についたのです。
天智は大臣や鎌足、大海人などと協議して政治を行いましたが、天武は本当の意味での独裁を敢行したということですが、何事も皇后と相談して決めたのではないかととの見方もあります。やはり、冬の吉野での暮らしが二人を堅く結びつけていたのでしょう。また、天智の血を一番色濃く受け継いだ讃良には聞くべき意見がたくさんあったということでもありましょう。
壬申の乱が思い出話になる頃になりますと讃良に気になることが出てきました。後継者のことです。やはり、自分の生んだ草壁を次期天皇にしたいのです。でも、姉の忘れ形見の大津皇子の出来が良すぎます。おまけに生きていれば皇后になった人の息子なので誰もが適任だと口をそろえて言います。一方、天武はあの戦いにおいて勇敢な右腕として活躍してくれた高市を高く評価し頼りにしていました。ですが、母親が采女ということで反対する理由もあって、そうは讃良を脅かしはしません。問題は、当の草壁の凡庸さにありました。過保護に育てたことを今更悔やんでみても間に合わないのです。大津も高市も讃良によって鍛えられてきてるのです。丁度、讃良自身が辛く悔しい少女時代の記憶をバネにして強くなってきたように。
讃良は夫に確約を迫ります。独裁者の天武のアキレス腱は讃良でしたから不本意ながら息子たち全員を吉野に連れて行って「異腹から出た者同士ですが天皇の仰せに従って助け合い、逆らうようなことはしません」と誓わせたのです。これを「吉野の盟い」といいます。この時、既に草壁が皇位を継ぐ者として暗黙の了解を得たのでした。
その二年後に草壁は皇太子になり、四年後に天武天皇が崩御しました。
北山にたなびく雲の青雲の 星離る行き月も離りて
讃良皇后の夫への挽歌の一首です。
天武の死によって元号が「朱鳥」と改元されました。何故か、草壁が即位せずに皇后讃良の称制の道が選ばれました。もう、草壁は二十四歳で立派な若者です。一説には、大津と比較されては困るだからではないかと言われています。大津は二年前から草壁を補佐するために朝見に参加し始めていました。
それは、丁度、天智が天武を後継者としながら大友を太政大臣につけたようなものだと讃良には思えたのかもしれません。ひ弱で凡庸な草壁と頭脳明晰、人望厚く凛々しい大津とが並ぶ姿を見るのは…それは、生母としてはいたたまれない屈辱感を味わうことになります。
讃良は実行力のある人です。我が子の行く手を阻むものは除去しなければなりません。かって、父がしてきたように。讃良は天武が死んで一ヶ月も経たない内に大津を謀反が発覚したとして逮捕し、翌日には死刑を命じました。なんという素早さでしょうか。裁判も何もあったもではありません。
もし、草壁と大津のキャラクターが入れ替わっていたらこんな悲劇は起こらなかったのでしょうね。大津はその他の皇子たちのように系図に名前が残るだけの人となって、草壁は名君としてここからの歴史も変わってきたのかもしれません。なんて、妄想を膨らませることもできて、歴史は本当に楽しいですね。
そんなわけで晴れて目の上の瘤を切り取ったのに草壁はまだ天皇になりません。体が弱かったのでしょうか。それとも、帝王学を学ばせていたのかもしれません。いや、次なる瘤の退治方を考えていたとも考えられますね。そうです。天武が一番買っていた高市皇子の殺害です。母親の出が低いという以外は 大きな宰相としての器を持っていました。遺伝子というのもなかなか殺生なことをするものです。
しかし、讃良に良い案が思い浮かばない内に草薙が二十八歳で病死してしまいました。讃良の嘆きはさぞや深かったことでしょう。しかし、これでよかったのだと讃良は草薙の遺児である七歳の軽皇子を抱き上げました。大津を殺しておいたからこの子を天皇にできる!草壁が死ねば、当然、大津を天皇にしなければならなかったことでしょう。 讃良は立ち上がります。
……軽皇子が成長するまで私が天皇になろう!!!おばあさまは二回も天皇におなりになったではないか。なんの不思議があろうぞ。そうだ!高市を太政大臣にしてやろう。あれは使える。わらわは名君と呼ばれるやもしれぬ……
と言ったかどうかは勝手な想像ですが、大方、そういうことではなかったのでしょうか。
いよいよ、持統天皇の誕生となりました。
春過ぎて夏来たるらし白妙の 衣ほしたり天の香具山
冬も春も過ぎてやっと夏がくるらしい…ほら、香具山にも白い衣を干してあるでしょう…。とてもわかりやすい歌ですね。この歌にはすべての枷を外されたようなのびやかさがあります。やっと、長いトンネルを抜け出て大きな伸びをするような開放感が感じられます。深読みすれば、湿った衣を干しましょう、新しい衣に着替えましょうという意味に聞こえてきます。きっと、讃良は最高権力者である天皇になりたかったのでしょう。一人息子は亡くなってしまいましたが、生きていたとしても背後で操り続けたことでしょう。
なぜ、そこまでして権力を欲しがったのか。その答えは彼女の愛されることなく育った生育歴にあるように思います。イソップの「北風と太陽」の話でいうならば彼女は北風となってしか人々を動かすことができないと信じてしまったからではないでしょうか。お馬鹿な権力者をいただくほど人民にとって困ることはありませんが、持統天皇は怜悧な頭ときちんとした国造りのビジョンを持っていました。父と夫を観察しながら自然とそれらが身についています。
たくさんの古く湿った衣を干しあげることから彼女の治世が始まったのです。
持統天皇は官制の整備充実、食料政策、藤原京移転などなどに取り組みましたがどれも、優秀な高市太政大臣が居たからだとも言えました。しかし持統はその裏で壬申の乱で活躍した物部麻呂とようやく三十に手が届くところまで成長していた藤原不比等を影の部分で重用していたのです。
不比等はあの鎌足の一人息子です。父の「天智、天武のどちらにもつかずに時の来るのを待て」という言いつけを守って静かに暮らしていたのです。
軽皇子の乳母が犬養三千代。三千代は三児までもうけた美怒王という夫がありながら不比等とも関係がありました。やがて、不比等夫人となるのですが、この三千代が持統に不比等を引き合わせたようです。
持統にとって既に高市は目障りな存在になってきていました。軽皇子が父の草壁譲りの繊細な性格だったので、天皇の地位を危ぶむ声が多く高市に人望が集まるばかりでこのままでは…と不安でならなかったのです。
不比等の登用については鎌足の息子なのですから高市にもなんの異存もありませんでした。まさか、自分をけ落とすための登用だとは夢にも思っていなかったのではないでしょうか。持統は不比等を判事に任命しました。麻呂は天武以来の側近です。持統の布石は完璧でした。
天皇に即位すれば新しい宮殿を造らなければなりません。高市の尽力で藤原京の建設にかかりました。北に耳成、東に香具、西に畝傍の三山の間に位置する、風水的にも文句のない素晴らしい所です。宮殿ができるまでの間、持統は天武体制の強化を高市と共に謀ります。
藤原京の藤原宮が完成した時、持統は五十歳になっていました。長い道のりでした。 遷都した翌々年に右腕だった高市皇子が亡くなりました。四十二歳という若さで長屋王と鈴鹿王の二皇子を遺しての無念の死ではなかったのかと想像されます。
持統は高市の死をどう受け止めたのでしょうか。それはともかく、不比等によって次のプログラムが準備されていました。年が明けるのを待って軽皇子を立太子としました。同じ年の八月にははや、持統は軽皇子に譲位するのです。 文武天皇の誕生です。
日を置かず不比等の娘の宮子が夫人(ぶじん)、実質的な后として迎えました。それが不比等の条件だったのかもしれません。これで、頭の切れる不比等と強い武力を持つ麻呂が軟弱な文武を守ってくれます。
もしかしたら「春過ぎて…」の歌はこの頃に作られたものかもしれませんね。でも、このあたりから持統は体調を崩します。ここまでは長い長い道のりでしたからどっと疲れが吹き出したのでしょうか…。
持統の病平癒を祈願して薬師寺に聖観音がおさめられました。薬師寺はまだ讃良皇后だった時代に病んだ折に天武が回復を祈願して建立されたお寺です。床についた持統の胸の中を去来するものはなんだったのでしょうね。「あなたとわたしのたった一人の子供の血を守りましたよ。鎌足の息子が孫を守り抜いてくれるでしょう。わたしたちの血筋は永遠にこの国の長として君臨し続けることでしょう」 そんなことを呟いていたのかもしれません。
しかし、小康を得た持統は初の太上天皇 となり政治の表舞台に立ち続け、大宝律令を完成させたり各地への視察旅行を精力的に行いました。それは好きな紀伊の温泉から三河の国にまで及びました。また、夫と共に駆け抜けた壬申の乱の戦場跡も行幸されたということです。
文武天皇と宮子の間に皇子が誕生しました。首皇子、後の、聖武天皇です。
首皇子の誕生を確かめるかのように伊賀への旅を最後に持統太上天皇はついに薨じました。五十八年の波乱に富みすぎた人生でありました。
飛ぶ鳥の明日香の里を置きて去なば 君があたりは見えずかもあらむ
この歌は…飛鳥の里を後にして新しい藤原の都へ去って行ってしまうとあなたの眠っておられるあたりは見えなくなってしまうのかもしれませんねえ…といったような意味ですね。つまり、持統天皇は藤原宮に遷都することで父の天智と夫の天武からも解放されたということでしょう。生涯現役でありました。
645~70在位…皇后称制686~687…持統687~697…太上天皇697~702
鵜野讃良皇女・持統天皇・高天原広野姫天皇
天智天皇の第二皇女として生まれました。母は蘇我倉山田石川麻呂の娘、遠智娘(おちのいらつめ)で、母を同じくする姉に大田皇女、弟に建皇子がいます。天皇になるまでは鵜野讃良皇女(うののさららひめみこ)と呼ばれていました。後には持統天皇となるのですが、それまでは親しみを込めて〔讃良〕と書いていきます。
父の天智には皇后のほかに八名の妃がいて、わかっているだけでも十四名の子供がいました。讃良はその中で二番目に誕生しています。
この時代では結婚がことのほか重要な政略だったようです。といいますのも遠智娘は蘇我入鹿のいとこの蘇我倉山田石川麻呂の娘だからです。つまり、入鹿を殺害するに当たって蘇我内部の重臣を味方に引き入れるため天智は遠智娘と姪娘の姉妹を妃に迎えたのです。嫁がせてしまえば人質も同様で、父としては本家の若様の殺害に参加せざるを得ません。あのクーデターの折、勅を読み上げるだけの役目だったに過ぎなかった石川麻呂ですが、声も体も震えていて、これでは入鹿に怪しまれると天智を焦らせたそうですから、実直で小心な人だったのでしょう。
このクーデター、大化改新の年に讃良は誕生しました。しかも、五歳の時には祖父である石川麻呂が謀反を疑われて身の証を立てる為に一家心中をしてしまいました。直接、手を下さないまでもこれは、三児までもうけた夫に父を殺されたようなもので遠智娘の嘆きはどんなにか深く、ついに悲しみのあまり亡くなってしまいまったわけです。建皇子出産の直後のことでした。
讃良にとってもやさしいおじいさまとおかあさまでした。この頃から父への不信感が芽生えはじめていたのかもしれません。
讃良には父親の強い権力志向の血に加えてこの二つの大事件からどんな悲しみにも負けない強さが与えられたのだろうと思われます。
六歳で母を失った讃良きょうだい三人は父方の祖母の皇極天皇(=斉明天皇)の元で育てられました。建皇子は生まれながらの聾唖者でした。皇極はこの子が不憫でならず溺愛しました。また、たおやかで気性の優しい大田皇女もとても可愛がったのですが、何事をも見通してしまう感受性の強い讃良は苦手のようであまり可愛がってはもらえませんでした。讃良は今でいう可愛いげのない子供だったのでしょうね。孤独な少女時代を送ったに違いありません。
建皇子が八歳で亡くなりますと、讃良は一つ年上の大田と叔父の天武の元に預けられました。大人になれば妃とならなければなりません。建皇子がみまかったことで斉明は悲しみのあまり姉二人を手元に置いておくのが辛かったのでしょうか。
しかし、これも政略、天智と天武の結束を図るためという思惑がありました。天智は大江皇女と新田部皇女も天武に与えています。ですが、時期的に見れば額田王が天武から天智の方へ移った頃と一致するということからこの二皇女と額田王を交換したという見方をする人も少なくありません。全く、女をなんと考えているのかと腹立たしいことですね。
時は流れ、大田が大海人の后となり続いて讃良も妃となりました。讃良は姉の下の立場であることにかなり悔しい思いをしていたようですが、大田の方は妹として常に讃良を庇っていたようです。これは性格的なこともあるにしても、幼児期に愛されたか否かということが大きく影響しているのでしょうね。
父も夫も対外政策のことで紛争していました。何度も筑紫の国へ船を出し、その都度、皇女たちも同行します。大田はその船中で大伯皇女を、翌々年には娜大津で大津皇子を、天智元年には讃良が十八歳で草壁皇子をそれぞれ出産しました。
皇子を生んだことで精神的には少し落ち着く讃良でしたが、夫の天武の愛情は姉の方に向いていましたし、その上、父の天智の元に去って行った額田王への未練もたっぷりと残っている様子に苛立ちを覚える日々が続いているのです。しかし、それを決して人前では見せない強さがあり、それが讃良を大きな人間として成長させていたようです。
中皇命を勤めていた間人皇女が亡くなって、大田皇女が遠征軍の船の中で亡くなりました。どうやら、船中に蔓延していた流行り病に倒れたようです。遺されたのは三歳の大伯皇女と生まれたばかりの大津皇子です。草壁は二歳でしたから、讃良がまとめて育てることになったのかもしれませんが、一説では大田を可愛がっていた天智が引き取ったとも伝えられています。
讃良とてやさしかった姉の大田の死を悲しんだことでしょうが、それよりも、ライバルが消えたことの喜びが勝っていたらしい一面も否定できません。常に比較され、決まって自分よりも愛されてきた姉の存在は目の上の瘤だったのでしょう。事実、亡くなったことで讃良は妃から后へと格上げされました。
しかし、このライバル関係は息子たちに引き継がれ新たな悲劇の芽がすでに用意されていたのです。ですが、それはもっと先のことでこの頃の讃良は額田王の存在以外には苛立つこともなく平和な日々を過ごしていたものと思われます。
ほかの女たちはともかくも、夫の子供を産んだ身で父の後宮に入りしゃあしゃあとどこへでも自由に出入りが許されているあの女だけは我慢ができないのです。お父様もお父様よ!しかも、その子供の十市皇女を夫が掌中の玉のように慈しんでいるのです。やっぱり、我が背の君はあの歌うたいを今も愛しておられるのだろうか…それを思うと夜叉の顔になる讃良でした。
やがて、中皇命こと間人皇女が亡くなって長い喪があけて、いよいよ、父の天智が天皇につくことになりました。讃良は叔母である間人が嫌いでした。自分と性格が似ていることもありますが巷で言われている父との愛人関係だという噂が許せないのです。父への憎しみは世の中のことがわかってくるに連れて増大してゆきます。裏を返せば激しい父恋の思いがあったのかもしれません。
なぜ、私は誰からも愛されないのだろう…つい、そんな言葉を呟いてしまう孤独な讃良。
662年の二月、近江の新宮殿への引っ越しも終わり天智天皇が即位されました。
遷都の前には斉明(母)間人(娘)が同じ陵に葬られ、その横に大田(孫)が葬られました。百済救済戦争の敗退に加えて陵作りや遷都の為の莫大な費用を課せられて庶民の不満が充満していました。放火がふえていました。讃良はそんな世情をじっと眺めていました。時には、自分ならどうするだろうと考えることもありました。
遷都の年の五月五日に宮廷をあげての狩猟が蒲生野で開催されました。讃良は草薙、大伯、大津の母として振る舞います。皇太弟となった天武の正后として毅然とした態度を崩せません。十市は慎ましく大友皇子の后として各位から挨拶を受けています。結婚してまだ日が浅く初々しさが匂い立つようです。その十市を遠巻きに額田王と高市皇子が見守っています。高市は天武が采女に生ませた皇子で、大友は天智天皇の長男ですから讃良には異母弟になります。男たちは鹿を追うために馬に乗って走り去り、女たちは草摘みを始めます。五月の空はどこまでも青く、讃良の心も晴れ渡っていました。
しかし!宴が始まる頃には日も落ちて讃良に深い悲しみが訪れます。座興として歌の披露が始まって、夫と額田王の相聞歌が朗々と歌い上げられたからです。讃良は盗み見るように父の顔を見ました。天智も讃良を見やって二人の視線が一瞬絡みました。父の目は笑っていました。王者たるものの笑いでした。讃良はこの一件については無視することにしました。座興に過ぎないのです。 でも、深く傷ついていたのでしょうね。
この日を境に天智と天武の政策に対する意見の違いが顕著に見られるようになっていきました。夫が時期天皇だとの思いも揺らぎはじめ、讃良は情報収集を怠らなかったのでしょう。父がやってきた数々の失敗、それにもまして邪魔者は殺してきたことが今更ながら人々の心に作用していました。民衆は暖かいくておおらかな雰囲気を持つ天武の出番を待っていました。父が理の人であるとするならば夫は情の人です。それゆえに、一度情を結んだ女たちをも抱え込んでいます。
もし、この二人が激突したら…戦うことになったら勝つのは夫だと讃良は確信していました。もしかしたら、けしかけていたのかもしれません。鎌足が亡くなると兄弟の間に入る人が居なくなり不穏な雰囲気に包まれてていきます。天智は鎌足の「何事も天武さまとお謀りになって」という遺言を守らずに、新しく太政大臣というポジションを作って大友を任命しました。まだ、天武は耐えていました。だが、そこで天智は癌で倒れます。余命いくばくもないとなれば次期天皇を決めておかなければなりません。天智は天武を呼んで後を頼むと言いますが、天武はイエスと答えれば帰り道で殺されることがわかっていますので自分は坊主になるのでと断って病室を退出しました。そして、そのまま吉野の仮宮に向かいました。これから冬に向かう十月十七日のことでした。
天智から餞に贈られた法衣を纏って吉野に去った天武のことを「虎に翼をつけてを野に放すようなものだ」と人々は噂したといいます。天武と生死を共にすることを決意して吉野に同行したのは草壁を連れた讃良と舎人を合わせて十名足らずでした。行き先は斉明天皇が民の反感をかいながら建てた吉野の鳴滝にある離宮です。寝ずに馬を走らせて着いてみれば、かっては美しかった紅葉もただの枯れ葉にしか見えないあまりにも淋しい変わり様でした。
しかし、讃良の目はこの時からいきいきと輝き始めたのです。薪を燃やしたり食事を整えるなどは生まれて初めての経験だったでしょう。でも、讃良はとても幸せでした。愛する夫と息子との水入らずの生活を味わうことができたからです。ここには額田も五百重娘も尼子娘もいません。夫を独り占めでき、しかも、それが今後の血なまぐさくなるであろう計画が話題であっても、甘美で濃密な「時」の共有だったのです。
焚きつけにする柴だけはふんだんにある山中で草薙を叱咤しながら逞しく小枝を折り集める讃良の姿に天武は目を見張ったことでしょう。二人並んで今宵の食事のための魚を釣ったこともあるかもしれませんねえ。
舎人たちは各地に飛んで情報を集め、天武の伝言を伝えいざという時のための戦力集めをしています。近江からも腹心や残してきた皇子たちからの伝令が次々とやってきます。二人はこの寒い鳴滝でマイホームごっこをしていたのではないのです。天智天皇打倒という共通の大きな目的に向かって真の夫婦になることができたのでした。
十二月に入ると吉野山は雪に埋まります。その雪道を掻き分けるように柿本人麻呂、村井国男依ら数人の舎人がやってきました。十二月の三日に天智帝が身罷ったとの報告に駆けつけてきたのでした。讃良は「その時」が突然やってきたように思いました。
近江では大友皇子を総大将として軍備が着々と進められているといいます。大友は天武には可愛い娘の十市の夫です。夫の眉間に一瞬寄せられた皺を讃良は見逃しません。「さ、こちらもかねての手配通り駅鈴を…」背中を押すように言いました。「うむ…討たれるのを待っているわけにはゆかぬのう…」ゆっくりと天武は立ち上がりました。
これが、あの壬申の乱の幕開きでした。
大海人VS大友の戦いはほぼ一ヶ月間で終わりました。当然、天武側の圧倒的な勝利です。讃良も夫を助け、馬を乗り回しての大活躍でした。大友皇子は山崎のはずれで自害しました。后の十市皇女と息子の葛野皇子の後事のことは敵であり、舅でもある天武が悪いようにはしないと信じていました。ある意味で信頼しあっていたのでしょうね。
天武は都を飛鳥浄御原と定め、天皇として即位しました。讃良も晴れて皇后となったのです。昨日までは朝敵だったのが勝ってしまえば正義となります。戦いとは不思議なものです。天武は近江方への懲罰を最低限にとどめました。死刑になったのは右大臣ただ一人で多くの貴族たちはその寛大な処置に感謝して、以後の忠誠を誓ったそうです。
天武は天智の路線を踏襲して、官僚制度を強化するために飛鳥浄御原律令を制定したり下層役人の国司任官の道を開いたり、斉宮制度を制定したりしました。大伯皇女がその最初の任についたのです。
天智は大臣や鎌足、大海人などと協議して政治を行いましたが、天武は本当の意味での独裁を敢行したということですが、何事も皇后と相談して決めたのではないかととの見方もあります。やはり、冬の吉野での暮らしが二人を堅く結びつけていたのでしょう。また、天智の血を一番色濃く受け継いだ讃良には聞くべき意見がたくさんあったということでもありましょう。
壬申の乱が思い出話になる頃になりますと讃良に気になることが出てきました。後継者のことです。やはり、自分の生んだ草壁を次期天皇にしたいのです。でも、姉の忘れ形見の大津皇子の出来が良すぎます。おまけに生きていれば皇后になった人の息子なので誰もが適任だと口をそろえて言います。一方、天武はあの戦いにおいて勇敢な右腕として活躍してくれた高市を高く評価し頼りにしていました。ですが、母親が采女ということで反対する理由もあって、そうは讃良を脅かしはしません。問題は、当の草壁の凡庸さにありました。過保護に育てたことを今更悔やんでみても間に合わないのです。大津も高市も讃良によって鍛えられてきてるのです。丁度、讃良自身が辛く悔しい少女時代の記憶をバネにして強くなってきたように。
讃良は夫に確約を迫ります。独裁者の天武のアキレス腱は讃良でしたから不本意ながら息子たち全員を吉野に連れて行って「異腹から出た者同士ですが天皇の仰せに従って助け合い、逆らうようなことはしません」と誓わせたのです。これを「吉野の盟い」といいます。この時、既に草壁が皇位を継ぐ者として暗黙の了解を得たのでした。
その二年後に草壁は皇太子になり、四年後に天武天皇が崩御しました。
北山にたなびく雲の青雲の 星離る行き月も離りて
讃良皇后の夫への挽歌の一首です。
天武の死によって元号が「朱鳥」と改元されました。何故か、草壁が即位せずに皇后讃良の称制の道が選ばれました。もう、草壁は二十四歳で立派な若者です。一説には、大津と比較されては困るだからではないかと言われています。大津は二年前から草壁を補佐するために朝見に参加し始めていました。
それは、丁度、天智が天武を後継者としながら大友を太政大臣につけたようなものだと讃良には思えたのかもしれません。ひ弱で凡庸な草壁と頭脳明晰、人望厚く凛々しい大津とが並ぶ姿を見るのは…それは、生母としてはいたたまれない屈辱感を味わうことになります。
讃良は実行力のある人です。我が子の行く手を阻むものは除去しなければなりません。かって、父がしてきたように。讃良は天武が死んで一ヶ月も経たない内に大津を謀反が発覚したとして逮捕し、翌日には死刑を命じました。なんという素早さでしょうか。裁判も何もあったもではありません。
もし、草壁と大津のキャラクターが入れ替わっていたらこんな悲劇は起こらなかったのでしょうね。大津はその他の皇子たちのように系図に名前が残るだけの人となって、草壁は名君としてここからの歴史も変わってきたのかもしれません。なんて、妄想を膨らませることもできて、歴史は本当に楽しいですね。
そんなわけで晴れて目の上の瘤を切り取ったのに草壁はまだ天皇になりません。体が弱かったのでしょうか。それとも、帝王学を学ばせていたのかもしれません。いや、次なる瘤の退治方を考えていたとも考えられますね。そうです。天武が一番買っていた高市皇子の殺害です。母親の出が低いという以外は 大きな宰相としての器を持っていました。遺伝子というのもなかなか殺生なことをするものです。
しかし、讃良に良い案が思い浮かばない内に草薙が二十八歳で病死してしまいました。讃良の嘆きはさぞや深かったことでしょう。しかし、これでよかったのだと讃良は草薙の遺児である七歳の軽皇子を抱き上げました。大津を殺しておいたからこの子を天皇にできる!草壁が死ねば、当然、大津を天皇にしなければならなかったことでしょう。 讃良は立ち上がります。
……軽皇子が成長するまで私が天皇になろう!!!おばあさまは二回も天皇におなりになったではないか。なんの不思議があろうぞ。そうだ!高市を太政大臣にしてやろう。あれは使える。わらわは名君と呼ばれるやもしれぬ……
と言ったかどうかは勝手な想像ですが、大方、そういうことではなかったのでしょうか。
いよいよ、持統天皇の誕生となりました。
春過ぎて夏来たるらし白妙の 衣ほしたり天の香具山
冬も春も過ぎてやっと夏がくるらしい…ほら、香具山にも白い衣を干してあるでしょう…。とてもわかりやすい歌ですね。この歌にはすべての枷を外されたようなのびやかさがあります。やっと、長いトンネルを抜け出て大きな伸びをするような開放感が感じられます。深読みすれば、湿った衣を干しましょう、新しい衣に着替えましょうという意味に聞こえてきます。きっと、讃良は最高権力者である天皇になりたかったのでしょう。一人息子は亡くなってしまいましたが、生きていたとしても背後で操り続けたことでしょう。
なぜ、そこまでして権力を欲しがったのか。その答えは彼女の愛されることなく育った生育歴にあるように思います。イソップの「北風と太陽」の話でいうならば彼女は北風となってしか人々を動かすことができないと信じてしまったからではないでしょうか。お馬鹿な権力者をいただくほど人民にとって困ることはありませんが、持統天皇は怜悧な頭ときちんとした国造りのビジョンを持っていました。父と夫を観察しながら自然とそれらが身についています。
たくさんの古く湿った衣を干しあげることから彼女の治世が始まったのです。
持統天皇は官制の整備充実、食料政策、藤原京移転などなどに取り組みましたがどれも、優秀な高市太政大臣が居たからだとも言えました。しかし持統はその裏で壬申の乱で活躍した物部麻呂とようやく三十に手が届くところまで成長していた藤原不比等を影の部分で重用していたのです。
不比等はあの鎌足の一人息子です。父の「天智、天武のどちらにもつかずに時の来るのを待て」という言いつけを守って静かに暮らしていたのです。
軽皇子の乳母が犬養三千代。三千代は三児までもうけた美怒王という夫がありながら不比等とも関係がありました。やがて、不比等夫人となるのですが、この三千代が持統に不比等を引き合わせたようです。
持統にとって既に高市は目障りな存在になってきていました。軽皇子が父の草壁譲りの繊細な性格だったので、天皇の地位を危ぶむ声が多く高市に人望が集まるばかりでこのままでは…と不安でならなかったのです。
不比等の登用については鎌足の息子なのですから高市にもなんの異存もありませんでした。まさか、自分をけ落とすための登用だとは夢にも思っていなかったのではないでしょうか。持統は不比等を判事に任命しました。麻呂は天武以来の側近です。持統の布石は完璧でした。
天皇に即位すれば新しい宮殿を造らなければなりません。高市の尽力で藤原京の建設にかかりました。北に耳成、東に香具、西に畝傍の三山の間に位置する、風水的にも文句のない素晴らしい所です。宮殿ができるまでの間、持統は天武体制の強化を高市と共に謀ります。
藤原京の藤原宮が完成した時、持統は五十歳になっていました。長い道のりでした。 遷都した翌々年に右腕だった高市皇子が亡くなりました。四十二歳という若さで長屋王と鈴鹿王の二皇子を遺しての無念の死ではなかったのかと想像されます。
持統は高市の死をどう受け止めたのでしょうか。それはともかく、不比等によって次のプログラムが準備されていました。年が明けるのを待って軽皇子を立太子としました。同じ年の八月にははや、持統は軽皇子に譲位するのです。 文武天皇の誕生です。
日を置かず不比等の娘の宮子が夫人(ぶじん)、実質的な后として迎えました。それが不比等の条件だったのかもしれません。これで、頭の切れる不比等と強い武力を持つ麻呂が軟弱な文武を守ってくれます。
もしかしたら「春過ぎて…」の歌はこの頃に作られたものかもしれませんね。でも、このあたりから持統は体調を崩します。ここまでは長い長い道のりでしたからどっと疲れが吹き出したのでしょうか…。
持統の病平癒を祈願して薬師寺に聖観音がおさめられました。薬師寺はまだ讃良皇后だった時代に病んだ折に天武が回復を祈願して建立されたお寺です。床についた持統の胸の中を去来するものはなんだったのでしょうね。「あなたとわたしのたった一人の子供の血を守りましたよ。鎌足の息子が孫を守り抜いてくれるでしょう。わたしたちの血筋は永遠にこの国の長として君臨し続けることでしょう」 そんなことを呟いていたのかもしれません。
しかし、小康を得た持統は初の太上天皇 となり政治の表舞台に立ち続け、大宝律令を完成させたり各地への視察旅行を精力的に行いました。それは好きな紀伊の温泉から三河の国にまで及びました。また、夫と共に駆け抜けた壬申の乱の戦場跡も行幸されたということです。
文武天皇と宮子の間に皇子が誕生しました。首皇子、後の、聖武天皇です。
首皇子の誕生を確かめるかのように伊賀への旅を最後に持統太上天皇はついに薨じました。五十八年の波乱に富みすぎた人生でありました。
飛ぶ鳥の明日香の里を置きて去なば 君があたりは見えずかもあらむ
この歌は…飛鳥の里を後にして新しい藤原の都へ去って行ってしまうとあなたの眠っておられるあたりは見えなくなってしまうのかもしれませんねえ…といったような意味ですね。つまり、持統天皇は藤原宮に遷都することで父の天智と夫の天武からも解放されたということでしょう。生涯現役でありました。