山登り・里歩きの記

主に関西地方を中心とした山登り、史跡巡りの紹介。要は”おっさんの暇つぶしの記”でんナァ!。

聖護院から真如堂へ 2(金戒光明寺)

2021年12月22日 | 寺院・旧跡を訪ねて

★2021年11月24日(水曜日)
聖護院の次は法然ゆかりの寺・金戒光明寺(こんかいこうみょうじ)です。

 金戒光明寺(歴史、山門)  



聖護院の前の道を東へ10分ほど歩けば、道を塞ぐように正面に頑丈な門が見えてくる。これが金戒光明寺(こんかいこうみょうじ)の入口にあたる高麗門(こうらいもん)だ。江戸時代末の1860年の建立だが、2015年に修復再建された。お寺の山門とは思えない頑丈そうな構えの門です。市中の治安維持、警護のために京都守護職の本陣が置かれたからでしょうか。
地元では「黒谷(くろだに)さん」の愛称で親しまれている浄土宗の七大本山の一つです。正式名称は「紫雲山金戒光明寺」、承安5年(1175)「円光大師」こと法然による創建。

■★~~ 歴史 ~~★■
美作国(岡山県)に生まれた法然(幼名・勢至丸、1133-1212)は9歳の時、夜討ちで父を亡くし、15歳で比叡山に登り天台宗を学ぶ。18歳(1150年)で遁世し、西塔黒谷別所の慈眼坊叡空の庵室に入り、「法然房源空」と名乗った。
承安5年(1175)43歳の時、唐の浄土宗の祖・善導の「観無量寿経疏」の称名念仏を知り回心する。称名念仏とは、ひたすら念仏を唱えれば、善人悪人を問わず、阿弥陀仏の力により必ず阿弥陀仏の浄土である極楽に生まれ変わることができる、と教える。法然はこの念仏の教えを広めるため比叡山を下りた。「承安5年(1175年)春、浄土宗の開宗を決めた法然が比叡山の黒谷を下った。岡を歩くと、大きな石があり、法然はそこに腰掛けた。すると、その石から紫の雲が立ち上り、大空を覆い、西の空には、金色の光が放たれた。そこで法然はうたたねをすると夢の中で紫雲がたなびき、下半身がまるで仏のように金色に輝く善導が表れ、対面を果たした(二祖対面)。これにより、法然はますます浄土宗開宗の意思を強固にした。こうして法然はこの地に草庵を結んだ。これがこの寺の始まりであるとされる。」(Wikipediaより)
法然が初めて開いた浄土宗の寺で、阿弥陀仏を崇拝し、ひたすら南無阿弥陀仏を口で唱える専修念仏の道場となった。ここは法然が、師匠の叡空から譲り受けた「白河禅房」の地で、「新黒谷」と呼び、比叡山の黒谷を「元黒谷」と呼んだ。

その後、仏殿、御影堂などの堂宇が整えられ、法然が山上で見た紫雲光明の縁起にちなみ「紫雲山光明寺」と称したが、単に「黒谷(くろだに)」とも呼ばれるようになる。南北朝時代、北朝第4代・後光厳天皇がここで戒(金剛宝戒、仏教の誓いの儀式)を授かった。この時、天皇より「金戒」の二字を賜り、「金戒光明寺(こんかいこうみょうじ)」と呼ぶようになる。また法然が最初に浄土宗の布教を行った地であることから、後小松天皇により「浄土真宗最初門」の勅願を賜った(1428年)。

応仁・文明の乱(1467-1477)の兵火により、ほとんどの堂舎を焼失し衰微していく。天正13年(1585)、豊臣秀吉による寺領130万石の朱印状を得て寺運を開き、文禄2年(1593)淀君により御影堂が、慶長10年(1612)には豊臣秀頼によって阿弥陀堂が再建されるなど再興されていく。
江戸時代初期、江戸幕府によって知恩院と共に城郭風構造に改修され、浄土宗四箇本山(他に知恩院、百万遍知恩寺、清浄華院)の一つとして知恩院に次いで栄える。江戸時代末期の文久2年(1862)には、京都守護職となった会津藩の本陣となっている。
明治4年(1871)、上知令により寺領2994坪が没収された。昭和に入り御影堂、勅使門、大方丈などを焼失するが、その後再建されている。

高麗門を入ると、左手に山門が見えてくる。城壁の上に建つお城のように見えます。幕府が京の都を守る拠点にしたのもうなずける。
「徳川家康は幕府を盤石なものにする為に特に京都には力を注いだ、直轄地として二条城を作り所司代を置き、何かある時には軍隊が配置できるように黒谷と知恩院をそれとわからないように城構えとしているのである。黒谷に大軍が一度に入ってこられないように南には小門しかなく、西側には立派な高麗門が城門のように建てられた。小高い岡になっている黒谷は自然の要塞になっており、特に西からやってくる敵に対しては大山崎(天王山)、淀川のあたりまで見渡せる」(公式サイトより)。

”山門”といえば、もう少し華奢で簡素なイメージがあるのだが、これは堂々たる楼門です。15世紀初頭に建立されたが、応仁の乱の兵火により焼失。幕末の万延元年(1860)に再建され、幕府が京都ににらみをきかせるため城郭構造にした、というのがみてとれる。
間口は約15m、高さは約23m、重層の豪華な門です。禅宗寺院にみられる三門(三解脱門)の様式であり、禅宗以外で用いられているのは、浄土宗の当寺と知恩院にしかないという。京都府指定有形文化財

楼上正面に後小松天皇宸筆の扁額「浄土真宗最初門」が掛けられている。

山門内部は通常非公開だが、秋の特別期間だけ公開される(春も?)。今年は(2021年)11月12日(金)~12月5日(日)、拝観時間 10:00~16:30(最終入場 16:00)、山門の拝観料は1000円(御影堂などとのセット券1600円もあり)
山門の両サイドには階上に登る階段が付属している。正面から見て、右階段から登って左階段を降りる。履物は脱がなければならないので、手で持つか袋に入れて持ち歩く。この階段が急勾で、45度以上ありそう。高齢者や気の弱い人は登れないのでは。階段両側には、安全用にロープが備えられていた。

すこぶる絶景というわけではないが、京都市内を一望できるので写真をパチリ、パチリしていると、女性係員がやってきて「写真は撮らないでください」とおっしゃる。「風景なのに何故ですか?」と聞くと、「プライバシーの・・・・」なんとかかんとか、とおっしゃる。風景撮ってプライバシー侵害なら、カメラは全て御法度になってしまう。こんな経験は初めてだ。撮った写真を超厳密に精査した結果、プライバシーを侵害していないと判定したので、ここに公開しました。
天気の良い日は大阪の『あべのハルカス』まで見渡せるそうだが、今日はやや曇りか・・・

今度は反対側に回り、御影堂や三重塔など境内を撮っていると、また係員が制止しにやってきた。境内写真もダメだそうだ。理由を尋ねると、「そのように指導されていますので・・・」と。若い女性係員を問い詰めても始まらないので、階段を降りました。
山門上での風景写真撮影禁止について、事前の説明も、ポスターや公式サイトにも載っていなかった。これで1000円の拝観料です。なにか、サギにあったような後味悪さが残る。納得できないので、ここに公開しました。

廊下から楼内をパチリ。正面中央に釈迦三尊像が、その両側に十六羅漢像が並んでいる。
これは心痛むが(((+_+))!!)・・・公開します。

山門を入って、すぐ左に「勢至丸像」がある。傍の説明版をそのまま紹介すると
「勢至丸(せいしまる)さま
勢至丸は、法然上人の幼名です。法然上人は、父は押領使(武士)の漆間時国、母は秦氏(はたうじ)で美作国(岡山県)久米南条稲岡の庄で長承2年(1133)4月7日に生まれました。幼名は、阿弥陀仏の右脇侍で、仏の智門をつかさどり衆生に菩提心を起こさせ、智慧の光を持って一切を照らし衆生が地獄・餓鬼界へ落ちないように救う勢至菩薩にあやかって名付けられました。勢至丸は幼い頃から、よく西の壁に向かって端座合掌していたといわれています」


 金戒光明寺(納骨堂、阿弥陀堂、御影堂、大方丈)  



吉田山の丘陵地帯なので起伏があるため階段がある。といってもそれほどきつい起伏ではないので階段も緩やか。お寺の階段はどこも格式を感じさせてくれるが、ここもその例にもれない。山門、広い階段、御影堂へと真っすぐ連なり、ここが金戒光明寺のメインストリート。よくあるパターンは階段の両側をカエデの樹で囲い、紅葉のトンネルに演出するのだが、ここはそんな細工をしていない。それがシンプルで良い。
階段を登りきると、左に鐘楼が建つ。大晦日の除夜の鐘も有名だそうです。高台に位置するので、京都中に鐘の音が鳴り響くことでしょう。

階段上から振り返ると、山門の威容が際立って見える。

階段を挟み鐘楼の反対側に建つのが宝形造りの納骨堂(旧経蔵)。元は黄檗版一切経を納めた経蔵として元禄2年(1689)に建立されたお堂だが、平成23年(2011)法然上人八百年遠忌の記念事業で大修理され納骨堂となった。
「堂内には法然上人二十五霊場のお砂を集めた霊場めぐり「お砂踏み」を安置し、堂内を右回りに一巡すると二十五霊場を巡拝したのと同じ功徳を得ることができる」(説明版より)

広場の東側に阿弥陀堂(京都府指定有形文化財)が建つ。豊臣秀頼が、父・秀吉が手がけた方広寺大仏殿が焼失しその再建時の余材をもって建てたという。「慶長十年(一六〇五年)豊臣秀頼により再建。当山諸堂宇中最も古い建物である。 恵心僧都最終の作、本尊阿弥陀如来が納められている。如来の腹中に恵心僧都が彫刻でお使いになられたノミが納められていることから「お止めの如来」「ノミおさめ如来」と称されている。」(公式サイトより)
この阿弥陀如来像が金戒光明寺のご本尊です。平安時代の恵心僧都源信(942-1017)の最後の作で、像内にはゆかりとされる道具が納められている。

本堂にあたる御影堂です。お寺は「大殿(だいでん)」とも呼んでいる。御影堂の前にテントが張られ、特別拝観<2021年11月12日(金)~12月5日(日)>の拝観受付所が設けられている。
  拝観時間 10:00~16:30(最終入場 16:00)
  拝観料:大人1000円(御影堂・大方丈・庭園)、大人1000円(山門)、両方のセット券1600円
公式サイトに「靴袋もご持参ください(当日販売もあり)」とあったので、ビニール袋を持ってきた。ちなみに値段を聞いたら「寸志です」と、これが一番困るんです。
御影堂右前が「直実鎧掛けの松」。寿永3年(1184)源平合戦・一の谷の戦いで、源氏の武将・熊谷次郎直実は我が子と同じような年端(16歳)の敵将平敦盛(平清盛の甥)の首を討ち取った。このことで世の無常を感じ黒谷の法然上人を尋ね、仏門に入ることを決心した。鎧を脱ぎ捨てこの地の松に打ち掛け、出家し法名を「蓮生(れんしょう)」とした、と伝わる。先代は枯れたので、現在の松は平成26年(2014)に植えられた三代目。法然上人御廟所 の前には、直実と敦盛の供養塔が向かい合っている。

(仏像写真は受付で頂いたパンフより)
以前の御影堂は昭和9年(1934)に全焼、昭和19年(1944)に現在の本堂が再建された。室町時代の様式で設計されているが、鉄筋コンクリート壁、鉄製ボルト、鉄製扉などの防火対策が採られている。入母屋造り・本瓦葺き、正面に三間向拝が張り出している。
内部は、横長の外陣と縦長の内陣及び両脇陣からなり、内陣中央に須弥壇がある。須弥壇中央に宗祖法然上人75歳の御影(座像)を安置し、左脇壇には運慶作と伝わる渡海形式の文珠菩薩像が祀られています。公式サイトには「往古、当山北西の中山宝幢寺の本尊でしたが、応仁の乱の兵火により廃寺となり近くに小堂を造って祀られていました。その後、当山の方丈に遷座され寛永十年(一六三三)豊永堅齋が二代将軍徳川秀忠公菩提のために三重塔を建立した時に本尊として奉遷されました。貞享三年(一六八六)刊の『雍州府誌』には「本朝三文殊の一つなり」とあり、古来より奈良の「安倍の文殊」天橋立の「切戸の文殊」と共に信仰を集めていました」とある。平成20年(2008)、法然上人八百年遠忌を記念して御影堂に遷座された。中山宝幢寺由来から「中山文殊」とも呼ばれる。

右脇壇には、奈良時代の学者吉備真備(695-775)ゆかりの千手観音(重要文化財)が祀られている。公式サイトに「当寺の千手観音は、奈良時代の学者吉備真備が遣唐使として帰国の際、船が遭難しそうになり「南無観世音菩薩」と唱えたところ、たちまちその難を免れることができました。真備はその時、唐より持ち帰った栴檀香木で行基菩薩に頼み観音さまを刻んでもらいました。この縁起によりこの観音さまを吉備真備に因み『吉備観音』と呼んでいます。元は吉田中山の吉田寺に奉安されましたが、江戸時代の寛文八年(一六六八)に吉田寺が廃寺となったため徳川幕府の命により、金戒光明寺へ移されました」とあります。
洛陽三十三所観音霊場の第六番札所で、道中守護・交通安全・諸願成就の御利益があると信仰を集めている。

御影堂の東側から短い廊下で大方丈(おおほうじょう、国登録有形文化財)につながる。大方丈は昭和9年(1934)の火災で焼失したが、昭和19年(1944)に御影堂とともに再建された。4つの部屋に区切られ、赤じゅうたんの廊下から内部を見学できます。部屋内に入ったり、撮影は禁止です。
一番手前の部屋が「謁見の間」で、奥が一段高くなって金屏風が置かれていた。近藤勇や芹沢鴨など多くの歴史的人物がこの部屋で松平容保に謁見したという。部屋に置かれた説明文は「歴史的にいえば、この部屋が新選組発祥の部屋と言っても過言ではない」と結んでいました。次が「中の間」で、今回特別展示の伊藤若冲筆「群鶏図押絵貼屏風」が見られます。右端の部屋は二つに区切られ、前が「虎の間」、奥が今尾景祥(1903-1993)筆の襖絵「松の図」がある「松の間」。「虎の間」の久保田金僊(1875-1954)筆の「虎の襖絵」が有名で、襖の開け閉めで4匹が2匹に早変わりする仕掛けがあるそうだが、実演してもらはなければよく分からない。

枯山水の方丈前庭(南庭)です。昭和19年の大方丈再建時に、「昭和の小堀遠州」と称えられた作庭家・中根金作によるもの。中央に唐門(国登録有形文化財)を配置し、5筋入りの築地塀で囲っている。

 金戒光明寺(紫雲の庭、ご縁の庭)  




大方丈の廊下を奥へ進み、東側へ周ると「紫雲の庭(しうんのにわ)」が広がる。こちらも枯山水式だが、緑と紅葉が美しい。平成18年(2006)法然上人800年大御遠忌記念として作庭された。法然上人の生涯が、白砂を敷き詰めた上に杉苔と大小の庭石で表現されているという。右側が美作(岡山県)での幼少時代、左側が比叡山延暦寺での修業時代を、真ん中が浄土宗開宗・金戒光明寺の興隆を表している。作庭には何か意味付けが必要なんですね。

散策路が設けられた回遊式庭園になっている。持ってきた履物を履き庭に降ります。後で気づいたが、左側の階段の下にスリッパが置かれていました。見えている大方丈の部屋は「松の間」です。

紫雲の庭から池に架かる石橋を渡って奥へ行けば「ご縁の庭」へつながる。

紫雲の庭からご縁の庭へと、南北に細長い池は「鎧池」と呼ばれる。出家を決意した熊谷次郎直実は、鎧を脱ぎこの池で洗い清め、御影堂前の松に打ち掛けたという。池はその後「鎧池」と呼ばれるようになった。

御詠歌「池の水ひとの心に似たりけり 濁り澄むこと定めなければ」。鯉が気持ちよさそうに泳いでいました。今日は澄んでいるのだ。

奥から見た鎧池で、建物は大方丈。ここ鎧池周辺が金戒光明寺で一番の紅葉スポットです。血染めの鎧ではないが、池にかぶさる紅葉がなんともいえない情景をつくりだす。

散策路は池の北端で二手に分かれ、奥の休憩所の前で一つにつながっている。これが、二つの道がご縁の出会いによって一つに結びついていくという深い意味をもった「ご縁の道」なのか?。と思ったらら間違いでした。

休憩所の前から、小石を敷き詰めた道が鎧池に向かって設けられている。説明版を読むと、これが「ご縁の道」のようです。
右の道が「青の道」、左の道が「赤の道」、二つの道が丸い「出会いの石」で結ばれ一本の道「紫雲 共に歩む道」となり、法然上人のいる御影堂へ向かって歩む、というストーリーのようです。「出会いの石」の左右に小岩が置かれている。それぞれの道、石、岩には深~い意味付けがなされている。詳しく知りたい人は、現地へ来て説明版を読んでください。NHKも作庭に関わっているようです。だから意味が深~い・・・(^^♪
ご縁よりは休憩所が有難い。ここに座って、紅葉で飾られた池を眺めるのがなによりだ。


出会いもご縁も、エンが無いので紅葉を楽しもう。鎧池を一周するように散策路が設けられ、この辺りは「ご縁の庭」(平成24年(2012)作庭)と呼ばれています。
突然一匹の鳩が目の前に現れた。あったぞご縁が・・・。

大方丈に戻り、「玄関」(国登録有形文化財)の唐破風造り銅板葺の車寄から出る。
円く剪定されている樹木は「区民の誇りの木 シマモクセイ」とあり、左端の石柱には「山崎闇斎先生菩提所」と刻まれています。

 金戒光明寺(極楽橋から三重搭、会津墓地へ)  



玄関から、右手に阿弥陀堂を見ながら真っすぐ坂道を下る。こちらは階段ではなく普通のスロープです。

坂道を下ると、左手に池に架かる極楽橋(太鼓橋)がある。この池は蓮の名所だったことから「蓮池」と名付けられたが、別名「兜之池」とも呼ばれる。その由来は「平安末期の源平の戦いで有名な武将熊谷直実が、この地に庵を結んでいた法然上人を尋ね、出家を決意し兜を置き、弓の弦を切り弓を池に架けた形が起源といわれる」(現地説明版より)。そして熊谷直実はすぐ傍に庵(塔頭・蓮池院)を結んで住んだという。

寛永5年(1628)、三代将軍家光の乳母・春日局は二代秀忠正妻で家光の母だった崇源院(お江与)の墓を建立し、参詣するために蓮池に木造の橋を寄進した。その後、秀忠供養のため山上に三重塔を建立する際、寛永18年(1641)により参詣しやすくするため石橋に造り替えられた。平成16年(2004)に改修され、擬宝珠、欄干が付けられた。

極楽橋の近くに「堀川」「四条橋」と刻まれた石柱が置かれている。これは四条堀川に架けられていた橋の親柱。
明治35年に開通したチンチン電車が、その後市電に統合され、昭和36年に廃止された。その時、軌道敷石と橋の親柱が寺に払い下げられという。さっき降りてきた坂道の石畳はその敷石のようです。

階段登り口の左手に、本尊の阿弥陀如来より有名になったアフロヘア姿の石仏「アフロ仏像」が鎮座されています。正しくは「五劫思唯阿弥陀仏(ごこうしゆいあみだぶつ)」。ここは公式サイトに説明してもらおう。
「五劫思惟の阿弥陀仏は、通常の阿弥陀仏と違い頭髪(螺髪らほつ)がかぶさるような非常に大きな髪型が特徴です。「無量寿経」によりますと、阿弥陀仏が法蔵菩薩の時、もろもろの衆生を救わんと五劫の間ただひたすら思惟をこらし四十八願をたて、修行をされ阿弥陀仏となられたとあり、五劫思惟された時のお姿をあらわしたものです。五劫とは時の長さで一劫が五つということです。一劫とは「四十里立方(約160km)の大岩に天女が三年(百年という説もある)に一度舞い降りて羽衣で撫で、その岩が無くなるまでの長い時間」のことで、五劫はさらにその5倍ということになります。そのような気の遠くなるような長い時間、思惟をこらし修行をされた結果、髪の毛が伸びて渦高く螺髪を積み重ねた頭となられた様子を表したのが五劫思惟阿弥陀仏で、全国でも16体ほどしかみられないという珍しいお姿です。落語の「寿限無寿限無、五劫のすり切れ」はここからきています。金戒光明寺の五劫思惟阿弥陀仏は、特にめずらしく石で彫刻された石仏で、江戸時代中頃の制作と思われます」

アフロ仏像のさらに左手の小高くなった場所に小さな墓地がある。この墓地の中に、徳川秀忠夫人崇源院(お江)と春日局の供養塔があります。
数奇な運命を重ねた二代将軍徳川秀忠正妻で三代将軍家光の母・お江は寛永3年(1626)、54歳で没し法名「崇源院(すうげんいん)」となる。江戸城で亡くなり、墓は芝増上寺にあります。寛永5年(1628)、三代将軍家光の乳母・春日局は崇源院の遺髪を納め追善菩提の供養塔をここに建てたのです。


崇源院供養塔の左前方に、その供養塔を見つめるように春日局の供養塔が建つ。生前は将軍跡取りをめぐって争った仲だが、こうして仲良く供養塔が並んでいます。

階段の右側にあるお堂が法然の分骨が祀られている「法然上人御廟所」。
説明版(?は判読不明)
「この廟には法然上人(円光大師)の遺骨が祀られています。法然上人(1133-1212)は、建暦2年(1212)正月25日、東山大谷禅房にて遷化され大谷の地に埋葬されました。御年80歳でした。しかし15年後の嘉禄3年(1227)6月に山徒により大谷廟堂破却の迫害が起き、難を免れた法然上人の遺骸は翌年に西山の粟生野で当山二世信空上人等によって荼毘に付されました。信空上人は法然上人の遺骨(分骨)を生涯身につけて離されなかったが、信空上人の没後に弟子たちによってこの地に葬られました。応仁の乱で廟は荒廃しましたが、天正元年(1573)に当山二十一世法山上人と??法師により五輪の塔が建立されその後、延宝4年(1676)に金屋??等によって堂宇が再建されました。内部は中央厨子の下層が五輪塔を包み、上層には勢至菩薩を安置しています」

御廟前には、熊谷直実の供養塔(中央)と平敦盛の供養塔(左手前)が対面して建てられている。説明版は無く、搭前に置かれた小さな札を見なければ確認できない。高野山の奥の院でも二人の墓が並んでいるそうです。

これから三重塔へ登り、会津藩士の墓所へ向かいます。かなりの階段が待ち構えている。時々一服し、後ろを振り返るとまた元気が出てきます。周りはお墓だらけですが、明るいので不気味さはない。お墓はみな西(西方浄土)を向いているそうです。

上は階段中ほどからの眺め。下は階段を登り切った三重塔前からの眺め。この写真もプライバシーに引っかかるのかな?・・・。千円だして山門に登る必要はありません。

階段を登りきると三重塔(国の重要文化財)が迎えてくれる。三重塔のために設けられた階段のようです。

2代将軍徳川秀忠の菩提を弔うため元家臣・伊丹重好(豊永宗如堅斉)が寛永10年(1633)に建てたもの。高さ22メートル。
現在御影堂に安置されている文殊菩薩(中山文殊)を祀っていたが、平成20年(2008)、法然上人八百年遠忌を記念して御影堂に遷座された。「現在は本尊として文殊菩薩のご分身(浄鏡)をお祀りし左右の脇壇には、重好公とその両親、当山二十八世潮呑上人の木像が安置されている」(説明版)

三重塔の右側から裏に回ると清和天皇火葬塚が現れる。第56代清和天皇(850-880)は崩御後はここで火葬され、遺言により洛西の嵯峨野の奥にある水尾の山中に埋葬されました。金戒光明寺の創建より300年ほど前の出来事です。

火葬塚からさらに奥へ行くと八橋検校(やつはしけんぎょう、1614-1685)の墓がある。江戸時代初期、琴の名曲を多く残した近世筝曲の祖。彼の死後の元禄年間、墓参に来る弟子のために、沿道にあった茶店が琴を形どった堅焼きせんべいを売り出したところ大流行したという。これが京の名菓「八ツ橋」の語源とか。
傍に大日本筝曲会連盟による顕彰碑があるが文字が擦れて読めない。




三重塔からお墓に囲まれた細路を北へ歩くと塔頭:西雲院、会津藩士墓所があり、さらに行くと紅葉のの名所・真如堂です。



道の正面に塔頭:西雲院が見えてくる。江戸時代初期の創建で、法然が座って紫色の雲を見たという紫雲石(しうんせき)が祀られているそうです。幕末の戦乱で亡くなった会津藩士の菩提寺です。



門を潜ると、庭の片隅に侠客・会津小鉄の墓が。会津小鉄(1844?-1885)は幕末・維新期の侠客で、本名は上坂仙吉。京都守護職として会津藩主の松平容保がやって来た時、その中間部屋に出入りし口入れ稼業を行い会津藩と関係をもつ。また幼名が鉄五郎で小柄な体形だった。そこから「会津小鉄」と呼ばれ、維新後も子分数千人を抱き活動した。侠客といえば聞こえがよいが、要はヤクザの親分。現在まで会津小鉄会という組織は京都に残っている。
ところで墓石をよく見ると「二代目会津小鉄 上坂卯之松」となっている。上坂卯之松は仙吉の実子で、二代目を継いだ。すると初代の墓は・・・?。

西雲院の東隣が「会津藩殉難者墓地」。ここに会津藩士352名が静かに眠っています。
会津小鉄は、鳥羽・伏見の戦いで負け賊軍の汚名を着せられ路上に放置されていた会津藩士の遺体を、子分二百余名を動員しこの墓地に手厚く葬り、供養したという。そんな縁で西雲院と関係するのでしょう。

「会津墓地の由来」という顕彰碑があるが、長いので要約します。
幕末の京都は暗殺や強奪が日常化し治安が乱れていた。治安維持のため幕府は京都守護職を設け、会津藩主・松平容保(まつだいらかたもり)を任命。松平容保は文久2年(1862)、家臣一千名を率いて京都に到着し、黒谷の金戒光明寺に入陣した。金戒光明寺は自然の要塞になっており、御所や粟田口にも近く軍事的要衝の地です。また大きな寺域により一千名の軍隊が駐屯することができた。
会津藩士の活躍で治安は回復されてきたが、犠牲も大きく、藩士や仲間小者などで戦死、戦病死する者が続出した。そこで金戒光明寺の山上に三百坪の墓地が整備され葬られた。その数は文化2年から慶応3年までの6ヵ年に237霊を、後に鳥羽伏見の戦いの115霊を合祀した。

金戒光明寺が新選組発祥の地、といわれている。文久2年将軍上洛警備のため江戸で浪士組が結成され京都に来る。近藤勇や芹沢鴨らはそのまま京都に残り、松平容保に拝謁し「新選組」を結成し、京都の治安維持の一翼を担ったのです。

墓地の片隅に令和元年(2019)、松平容保公の石像が建てられ、静かに眠る殉死者たちを見守っている。
鳥羽・伏見の戦い(1868年)で新政府軍に敗けると、会津藩は朝敵の汚名を着せられることになる。同年京都守護職は廃止となり、松平容保は会津に帰国し、明治新政府によって蟄居を命じられた。後に許され、日光東照宮や上野東照宮の宮司となって明治26年(1893)東京小石川の自宅で亡くなった。

西雲院から200mほど行けば錦秋の真如堂だ。



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