山登り・里歩きの記

主に関西地方を中心とした山登り、史跡巡りの紹介。要は”おっさんの暇つぶしの記”でんナァ!。

聖護院から真如堂へ 1(聖護院)

2021年12月11日 | 寺院・旧跡を訪ねて

★2021年11月24日(水曜日)
メディアによれば京都も少しは人出が戻ってきているようです。紅葉シーズンになったので、私も京都へ行きたくなった。そこで今回は、京都で未踏の地((^^♪)、平安神宮の裏を歩くことにしました。ここには山伏の元締め・聖護院、新選組発祥の地・金戒光明寺、そして紅葉の美しさで知られる真如堂が並びます。一日のんびり歩くのに丁度良い範囲だが、それでも時間が余ったので、近くの天皇陵と吉田神社まで足をのばしました。

 聖護院(しょうごいん)  



京阪丸太町駅から地上に出ると、鴨川に架かる丸太町橋がある。この橋の上から東方向を眺めた写真。現在は京都大学医学部となっているが、かっては紅葉が錦の織物のように美しいとして有名だった「聖護院の森」でした。森の中にあった聖護院は「森御殿」と呼ばれていたという。大阪の天神の森が「曽根崎心中」の舞台だったように、この聖護院の森は人形浄瑠璃「近頃河原達引」のお俊・伝兵衛の心中事件の舞台です。

橋から東へ丸太町通りを500mほど歩き、熊野神社のある角を北へ折れる。最初の筋を東へ進むとすぐ聖護院が見えてくる。

聖護院の手前に、京都を代表する銘菓「八ツ橋」の老舗店舗が道を挟んで両側にある。
左が「本家 八ツ橋 西尾老舗」、右が「創業元禄二年 聖護院八ツ橋 総本店」
この「「創業元禄二年(1689年)」について、ライバルの老舗「井筒八ッ橋本舗」が根拠のない創業年だと訴えた。一審京都地裁は「聖護院の唱える説が全て誤りだという確実な証拠はない」と井筒屋の訴えを退けた。争いは高裁、最高裁とすすんだが、2021年9月に井筒側の上告を受理しない決定を下し、聖護院八ツ橋の勝訴が確定したのです。ちなみに井筒屋は文化二年(1805年)年創業だという。
銘菓八ツ橋だけでなく、京野菜の代表格で千枚漬けに使われることで有名な聖護院かぶらや聖護院大根もこの辺りが発祥の地と言われています。

■★~・~ 聖護院の歴史 ~・~★■
「当寺の開山は園城寺の僧・増誉である。増誉は師である円珍(814~91)の後を継いで、師が行っていた熊野での大峰修行を行うなど修験僧として名をはせ、寛治4年(1090年)、白河上皇の熊野詣の先達(案内役)を務めた。この功により増誉は初代の熊野三山検校(熊野三山霊場の統括責任者)に任じられた他、更に都の熊野神社の近くにあり、役行者(修験道の開祖とされる伝説的人物)が創建したとされる常光寺を上皇より下賜された。
増誉は、熊野三山検校として、また、本山派修験道の管領として、全国の修験者を統括した。増誉の後も、聖護院の歴代門跡が上皇の熊野御幸の先達を務めた。この間、熊野詣は徐々に隆盛となり、「伊勢へ七たび 熊野へ三たび 愛宕まいりは月まいり」といわれ、愛宕山も修験道の修行場として活況を呈した。」(Wikipediaより)
当初は「白河房」と呼ばれたが、後に天皇を護るという意味の「聖体護持」から2文字を採って「聖護院」と改名され、熊野神社を鎮守社とした。聖護院は熊野の修験組織を束ねて、最盛期に修験道の山は120余り。全国に2万5千ヵ寺の末寺を持ったという。

建仁2年(1202)、後白河上皇の第8皇子・静恵法親王が宮門跡として聖護院に入寺、第4代門主となった。これが聖護院門跡の始まりで、聖護院は明治維新までの37代門主のうち、25代は皇室より、そして12代は摂関家より門跡となられるという皇室と関係の深い門跡寺院となっていった。

聖護院は室町時代から江戸時代にかけてたびたび火災にあっている。応仁の乱(1467-1477)の兵火で焼失後、洛北・岩倉の長谷(現・京都市左京区岩倉長谷町)に移転して再興を図った。しかし、文明19年(1487年)に盗賊の放火によって焼失した。豊臣秀吉の命により洛中の烏丸今出川に移転再建するが、ここも延宝3年(1675)の大火で延焼してしまう。そして延宝4年(1676)に聖護院村に替地が与えられ旧地の現在地に戻り再興された。現在の建物はこの時のもの。

江戸時代後期の天明8年(1788)、「天明の大火」が発生し御所も延焼した。この時、光格天皇は御所再建までの約3年間聖護院を仮御所とされ、宸殿・上段の間で公務をなされた。安政元年(1854)4月の内裏炎上の時には、孝明天皇と皇子祐宮(明治天皇)が聖護院に逃れられ、一時期仮御所として使用された。国の史跡指定をうけ入口正面に「史蹟聖護院旧仮皇居」の石標が建てられています。
明治元年(1868)の神仏分離令、明治4年(1871)門跡号の廃止、明治5年(1872)修験道廃止令と続き、聖護院は天台宗寺門派へ所属させられ、多くの末寺が廃寺となった。しかし第二次世界大戦後に信教の自由が認められ、昭和21年(1946)、独立し修験宗を起こし、さらに昭和36年(1961)に本山修験宗と改め総本山となり、現在に至る。役行者1300年御遠忌を記念し、 数年かけて行われていた寺院の修理が平成12年(2000)に完成し、新しい聖護院に蘇った。

現在特別公開期間(10/1~12/5)で、宸殿と本堂が公開されています。書院は修理中のため公開されていない。

入口の山門は延宝の大火(1675)で焼失後、延宝4年(1676)に再建された。平成12年に修理を受け、しっかりした堂々たる門に新装されている。門の中央と軒瓦に菊の御紋が使われ、門跡寺院だということを印象付けています。

山門をくぐると、左にしだれ桜、正面に松があり、松の後ろに寝殿の入口となる大玄関が見える。白壁の建物が長屋門で、その先に庫裏や、宿泊・お食事ができる御殿荘があります。

山門を入ったすぐ右側に塀重門があり、9時半になると開けられ、中の庭園を無料で見学できます。特別公開の宸殿は10時受付開始なので、それまでの時間、庭園内を見学することに。
すぐ近くの金戒光明寺に、江戸末期に会津藩の京都守護職が駐屯していたので、ここ聖護院はその練兵場として使われていたのでしょうか。

塀重門を入った右脇に「日吉桜」が、左脇に「令和の梅(鹿児島紅梅)」が植えられている。日吉桜は日吉大社(滋賀県)より平成28年に寄贈された固有種だそうです。令和の梅の横には「拝観者の皆様へ」として「どうか境内では堂塔、伽藍、庭苑、環境全てが宗教的空間であることを認識頂き、清心にて御参拝頂き、よい仏縁を結んで頂くことを心から願っております」と結ばれている。不届き者でもいたのでしょうか。

左が寝殿、正面が本堂(護摩堂)です。庭園は寝殿の南庭で、白砂が敷き詰められている。庭の中央に、シートが敷かれベニヤ板が二列に敷かれています。現在、奥の書院が修理中なので、そのための通路のようです。参拝の方は左側を歩いてください、とありました。

広い白砂の庭には、奥に十三重搭、塀際に数本の松と小岩しかありません。というのも、ここは庭園ではなく護摩行などを行う修行の場とされているからです。2月3日節分会と、役行者が昇天された6月7日に、ここで採燈大護摩が行われる。庭の中央に小石を固めた一辺二尺位の方形の基壇が見えます。「この石組みは護摩壇を作る大切な場所です。上に乗らないようにお気をつけてください」と注意書きされていた。
護摩修行とは「仏の智慧を火とし、私達の中にある悪業煩悩を薪と考え、その煩悩を焼き尽くす」ことだそうです(聖護院発行小冊子より)。

よく観察すると、白砂の上に、幾つかの小動物の置物が置かれている。護摩厳修に参加するんでしょうか?。私と違い、この子たちには悪業煩悩があるようにはみえないのですが・・・。

10時になりました。宸殿入口となる大玄関での受付が始まった。といっても私一人だけなんですが。
秋の特別公開(2021年10月1日~12月5日)で、宸殿(狩野派による金碧障壁画100余面)、本堂(本尊不動明王像)が拝観できる。
公開時間:10時~16時受付終了(休止日:10月7~10日、11月29日)
拝観料は大人:800円 、中高大学生:600円、小学生以下:無料

履物を脱ぎ、下駄箱に納めて上がります。

大玄関から上がると、いきなり等身大の山伏が「ようお参り!」と迎えてくれます。門跡寺院と山伏、なんとも不思議な組み合わせだ。

聖護院は修験道(しゅげんどう))の寺として始まった。開祖・増誉やその師・円珍は熊野での大峰修行を行う修験僧だった。天皇の熊野詣を先導し認められ聖護院を賜り、日本最初の修験の本山となった。その後聖護院は熊野の修験組織を束ねて、最盛期に修験道の山は120余り。全国に2万5千ヵ寺の末寺を持ったという。現在、本山修験宗の総本山、即ち山伏の総元締めなのです。役行者(役小角)を開祖とする修験道は、「山岳崇拝の精神を基とし、厳しい山々で修行し、困苦を忍び、心身を修練し、悟りを開いて仏果を得る、という出家・在家を問わない菩薩道、即身即仏を実修する日本古来の宗教です。」(公式サイトより)
修験とは「修行得験」または「実修実験」の略語で、「修行して迷妄を払い験徳を得る 修行して その徳を驗(あら)わす」こと、これを実践する人を修験者、または山に伏して修行する姿から「山伏」と呼ばれる。鈴懸といわれる法衣をまとった山伏姿はこの時のユニフォームです。「この鈴掛は、カッパの無い時代に、少々の雨では体まで濡れない、乾くときの気化熱で体が冷えない等結構山歩きに適した服装なんですよ」(公式サイト)

これから宸殿内部に入ります。宸殿は法親王が居住する門跡寺院の正殿で、現在の建物は延宝4年(1676)に再建されたもの。京都御所の紫宸殿を模した造りなので「宸殿」と呼ばれるようです。

宸殿は五つの間からなっている。大玄関側から「孔雀の間」「太公望の間」「波の間」で廊下はなく、上の写真では左側の建物内部になります。「波の間」を出ると板廊下となり、「鶴の間」(写真中央の板戸の開いている部屋)「謁見の間」(写真右側の板戸の開いている部屋)と続く。各部屋には、狩野山雪の子・狩野永納(1631-1697)と、狩野探幽の養子・狩野益信(1625-1694)による絢爛豪華たる金碧障壁画100余面が描かれている。残念ながら、「謁見の間」以外は写真撮影禁止です。


(襖絵は聖護院発行の小冊子より)
「孔雀の間」は控えの間の一つで、狩野永納により孔雀、牡丹、松、蘇鉄が描かれている。部屋の南側には、皇族や門主が使用した輿(こし)が展示されていた。



(襖絵は聖護院発行の小冊子より)
「太公望(たいこうぼう)の間」も控えの間の一つで、狩野永納により西、北、東の襖三面に別々の中国の物語が描かれています。東面に描かれた「太公望」が部屋名になっている。写真は北面の襖で、陶淵明(東晋・宋の詩人)と彼の好む柳、菊を門前に描き、家人が出迎えている場面。

「波の間」は細長い通路のようになっている。長谷川等伯の「波濤図」を模した波の絵が狩野永納によって描かれている。

(写真は聖護院発行の小冊子より)「鶴の間」は、かって聖護院の宮様が祭礼用に使った広間だったが、明治以降に改造され板張りの仏間とされている。廊下側より外陣、内陣、須弥壇からなり、役行者像、蔵王権現像、不動明王像など多くの仏像が安置されています。

一番奥は「謁見の間」で、聖護院の宮が正式な対面所として使った部屋。この「謁見の間」は、さらに手前から三の間、二の間、一段高くなった上段の間に区切られ、狩野益信の筆による華麗な襖絵が描かれている。ここだけはカメラ撮影が許されています。

一番手前の「三の間」は、九人の仙人が描かれていることから「九老の間」とも呼ばれる。対面者はこの部屋の下手に座し、許されれば二の間手前まで進めたそうです。二の間との間の欄間中央に二か所の穴が開けられている。これは「ネズミ通し」の穴だそうです。襖をかじられたら大変だ。

次が「二の間」です。畳の目が、中央は通路として南北に、左右は侍者の席として東西に向いている。

奥の一段高くなっているのが「上段の間」。天明8年(1788)の天明大火で京都御所も延焼の被害を受けた。御所再建までの3年間、光格天皇が聖護院を仮御所として住まわれ、この上段の間で公務にあたられたという。
床の間には雄大な滝と松が、上段の間から二の間にかけて狩野益信による四季花鳥図が描かれている。正面に後水尾天皇(1596-1680)の筆による「研覃(けんたん)」の額が掲げられている。「覃」とは、鋤や鍬などの農耕機具のこと。人においては己自身のことで、自己をよく磨く(研磨)ことで豊かな人間になれ、ということです。また四隅が丸くなった額装は、他者を傷つける「角」を持たない、ということを表しているそうです。

宸殿から眺めた庭。市松模様の砂紋が美しい。山伏姿の僧侶が竹串で砂紋を描く、宸殿の廊下で皇室ゆかりの宮さまが微笑みながら眺めている・・・絵になるシーンだな。

(不動明王像は受付で頂いたパンフより)宸殿の奥から短い渡り廊下で本堂へ。江戸時代中期に建てられた本堂だが、昭和43年(1968)に、位置、規模、外観を同じままに建替えられた。
本尊の不動明王像(重要文化財)が祀られており、「不動堂」とも呼ばれる。不動明王像は、平安時代後期の作で、智証大師円珍御作と伝わる。檜の寄木造りで、聖護院創建当初から数度の火災を免れ本尊として守られてきた。役行者像、智証大師円珍像(重要文化財)も安置されています。

中庭を挟んで本堂の北側に書院がある。後水尾天皇が側室・逢春門院隆子のために御所に建てた「女院御殿」を、延宝4(1676)年に聖護院が現在地に移転した際に拝領して移築したもの。建築当初の女院御殿の有様をよく伝える事から、昭和31年に建物全体が重要文化財に指定された。

写真のとおり、書院全体が工事用シートに覆われ見学できません。平成30年(2018)9月4日に近畿地方を直撃した台風21号で大被害にあったようです。




ホームページもどうぞ

コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 二つの継体天皇陵 2 | トップ | 聖護院から真如堂へ 2(金... »
最新の画像もっと見る

コメントを投稿

寺院・旧跡を訪ねて」カテゴリの最新記事