山登り・里歩きの記

主に関西地方を中心とした山登り、史跡巡りの紹介。要は”おっさんの暇つぶしの記”でんナァ!。

三輪山と「山の辺の道」(その4)

2014年03月18日 | 寺院・旧跡を訪ねて

 大和神社(おおやまとじんじゃ)  

JR長柄駅近くに大和神社(おおやまとじんじゃ)がある。「山の辺の道」からはかなり離れるが、これも由緒ある神社なので訪れてみた。大和の地主神・倭大国魂神(やまとのおおくにたまのかみ)を主神として祀り、伊勢神宮と並ぶ最古の神社である、とされる。
「檜原神社」とところで書いたように、崇神天皇の代に、天照大神は豊鍬入姫命によって笠縫邑で祭祀させ、一方倭大国魂神は市磯邑に遷し皇女・渟名城入姫(ぬなきのいりひめのみこと)を斎主として祀らせることになり、神地を穴師邑にさだめた。ところが淳名城入姫は髪が落ち体は痩せて祭祀を続けることができなくなった。そこで大倭直の祖、市磯長尾市(いちしながおち)を祭主として神地が定められ鎮座するようになたのが大和神社だそうです。
社殿手前に、日本海軍が世界最強を誇った戦艦大和の石碑が建てられている。ここが名付けに由来するからでしょう。

 内山永久寺跡  


「山の辺の道」をさらに北上すると、石上神宮の手前に「内山永久寺跡」という案内板が建っている。この周辺には内山永久寺というかなり大きなお寺があったそうです。
平安時代末の永久年間(1113~7)年、鳥羽上皇の勅願により創建された寺で、境内は五町四方の広大な地域を占め、坊舎五十、堂宇二十余りを数えた巨大寺院だったようです。石上神宮の神宮寺でもあり、寺領と多くの寺坊を有し、かって「西の日光」とさえ称賛されたほどだったようです。
しかし明治の廃仏毀釈で廃寺となり、伽藍はことごとく破壊・消滅され、現在では寺の敷地の大半は農地となり本堂池だけが残るのみになっている。寺名の由来は「 永久年間に造立された」からだそうですが、明治の廃仏毀釈で潰され”永久”寺とはならなかった。神様、ムゴい!
池の傍らに芭蕉句碑「うち山や とざましらずの 花ざかり」が、悲しそうに建てられている。

 石上神宮(いそのかみじんぐう)  


石上神宮は、古代の山辺郡石上郷に属する布留山の西北麓の鬱蒼とした常緑樹に囲まれた高台に位置する。神社でなく「神宮」と呼ばれ、最高の格式をもつ。古来、神宮と呼ばれるのは石上神宮と伊勢神宮の二つだけ。
主祭神は「布都御魂大神(ふつのみたまのおおかみ) 」で、「布都御魂剣(ふつのみたまのつるぎ)に宿る神霊」だそうです。それでは「布都御魂剣」とはどんな剣だろうか。
社伝によれば、布都御魂剣は神代の時代に武甕雷神(たけみかずちのかみ)が葦原中国平定の際に使った神剣(平国之剣、ひらくにゆきけん)で、初代神武天皇の東征時に天皇を助けた剣だとされる。
この神剣を、第10代崇神天皇の勅命により物部連の祖・伊香色男命(いかがしこおのみこと)が、現在の地である「石上布留(ふる)の高庭(たかにわ)」に「石上大神(いそのかみのおおかみ)」として祀ったのが石上神宮の創建だとされる。
物部氏は神剣を預かり祭祀する任務を与えられる同時に、朝廷の多くの武器を管理する任務をも得る。
物部氏の氏神だった石上神宮は神剣を祭祀する神社であるとともに、刀剣などの武器が納められ、膨大な武器を保管する朝廷の武器庫の役割も果たすようになった。そして物部氏は大和朝廷内で武門の棟梁となり、強力な軍事氏族として重きをなしていく。
写真は国宝の拝殿です。石上神宮にはもともと本殿は無く、霊剣が埋められているという禁足地と、その傍らに建てられた「神庫(ほくら)」と呼ばれる武器庫があるだけだった。現在の拝殿の奥にあたる。この瑞垣に囲まれた禁足地は「石上布留高庭(いそのかみふるのたかにわ)」「御本地(ごほんち)」などと称され、祭祀の対象とされてきた。ちょうど、大神神社が三輪山を祭祀の対象としたように。
明治7年(1874)、当時大宮司だった管政友(かんまさとも)がこの禁足地を発掘してみると、地表から1尺余り下に瓦が敷き詰められており、さらに1尺下には一間四方に礫が敷かれその下から伝承どおり神剣、武具や玉類などが沢山見つかった、という。拝殿奥の禁足地は今もなお、「布留社」と刻まれた剣先状の石瑞垣で囲まれて、最も神聖な霊域として非公開・立入り禁止となっている。

また石上神宮には、祭神ではないが貴重な剣が見つかっている。国宝「七支刀(しちしとう・ななつさやのたち)」です。明治7年(1874)の禁足地発掘時に、菅政友は宝物の確認/点検のために禁足地の南西の隅に建っていた神庫に足を踏み入れ、厳重に封印された木箱を開き、そこに刀身から両側3箇所で鹿の角状に枝分かれした珍しい形をした剣を見つけた。そして黒く錆びた刀身に金色に見えるものがあるのに気づき、小刀の先で錆びを静かに落としたところ、文字があるのを発見したという。もともと学者でもあった菅政友は興味を覚えると,刀身に施された金色の文字を確認してみた。

全長74.8cm、刀身の左右に3つづつの枝が互い違いに出ている異様な形をしており、「六叉の鉾(ろくさのほこ)」と呼ばれて神庫の中に大切に伝えられてきた鉄剣。真ん中の1本とあわせて「七支刀」と呼ばれる。
形からして実用的な武器としてではなく祭祀的な象徴として用いられたと考えられている。

日本の古代史において、3世紀の邪馬台国の時期から5世紀の倭の五王の時代までの間は客観的史料が無く、”謎の4世紀”と呼ばれている。そんな中にあって七支刀に刻まれている銘文は、”謎の4世紀”の解明に貴重な資料として注目されている。
刀身の表面に34文字、裏面に27文字、合計61文字の金象嵌(きんぞうがん)の銘文が施されていた。銘文には、泰和4年(当時百済が朝貢していた東晋の年号であり、西暦369年にあたる)に、百済王が倭王・旨に贈った(献上か下賜か論争あり)、とある。この倭王・旨が誰であるか?。その銘文の解釈・判読が明治以降続けられている。この銘文の読み方について歴史家たちはさまざまな説を立ててきたが、現在まで定説とされるようなものはないようです。
七支刀は御神体と同様のものとして奉斎されているが、神体そのものではない。昭和28年(1953)に国宝の指定を受け、現在は他の神宝とともに、昭和55年(1980)に完成した宝物収蔵庫に奉安されている。非公開で、その姿を実際に見ることはできない。

 天理教  


石上神宮から左進しJR天理駅へ向かう。進むに従い、異様な(?)風景が広がってくる。幹線道路の真上に、温泉地の巨大な旅館のような建物が道を覆う。その下をくぐると、幅50mもあろうかと思われるような広い道が真っ直ぐ伸びている。両側には花壇が並び、路上にはゴミ一つ落ちていない。そして人影が全く無い。何か気持ち悪く、不思議な世界に入り込んだ感がします。ここは公道?、私道?。「ちょっと、そこのあなた!」と、どこからか声を掛けられないかと不安になってきた。急ぎ足で進み、鳥居風の黒い大門の下をくぐると、大広場が待っている。おお!、ここは天安門広場か!、と思いたくなるような天理教本部(本殿)前でした。まだ夕方5時過ぎなのに人影がなく静かな天理教施設周辺でした。
天理教は、天保9(1838)年に教祖・中山みきが神の啓示によってこの地で始めた宗教で、信徒は世界各国に300万人を数えるという。天理市に天理教が創られたのではない。昭和29(1954)年に周辺6町村の合併時に、天理教の発祥の地なので「天理市」と命名された宗教都市なのです。
こうした天理教の圧倒するような施設を見ていると、今まで見てきた古墳や神社などがかすんでしまう。宗教には、目に見える形で巨大なもの、圧倒するもの、威厳があるもの、神秘性があるもの、そうしたシンボルが必要なようです。そうした具象性が人々の心を揺さぶるのでしょうか?。だから巨大な建造物を造りたがるのだろうか。信仰なんて心の中だけでよいはずなのに・・・。

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