★2024年8月17日(土曜日)
私は智頭急行線(兵庫県の上郡駅と鳥取県の智頭駅間)のスーパーはくと号を利用して、大坂~鳥取間を時々往復します。その中ほどにある大原駅に停車した車内から外のホームを見れば「宮本武蔵の里へようこそ」の歓迎幕がかかげられている。青若き頃、武蔵の「我事において後悔をせず」に心惹かれ、また吉川英治の「宮本武蔵」を読んだこともあって、かねがね一度この里を訪れて見たいと思っていた。そのチャンスが今年やってきました。夏の真っ最中だが8月17日(土)に実行、午前9時半に大原駅に到着。
剣聖・宮本武蔵は映画・ドラマ・演劇などであまりにも有名で、その名を知らない人はいないくらい。小説や書籍も多数出版されている。それじゃ、実際の武蔵はどのような人物であったのかといわれると、「謎の人」と云われるくらいその実像は判っていない。宮本武蔵に関するまともな史料、遺物、遺跡が残っていないのです。幾つかの関連史料はあるが、言い伝え、伝説のたぐいだったり、後世に内容が書き換えられたりして信用できないものが多い。武蔵は江戸時代からヒーローで、歌舞伎・浄瑠璃などの主人公となり、そのフィックションされた虚構が人々の中に浸透し、史料もその影響をうけ歪曲されているのです。特に生い立ちから少年期は不明な点が多い。吉川英治の「宮本武蔵」も
生まれ、少年期をぶっ飛ばし、十代後期の関ヶ原の戦いに参加した所からスタートしている。
「謎の人」宮本武蔵だが、作州大原(現在、岡山県美作市)も生誕地として有力は候補地です。いろいろな疑念は抱くものの、ともかく「宮本武蔵の里・作州大原」を見てみよう。
作州大原
スーパーはくと号が停車する大原駅です。この辺り、江戸時代は美作国吉野郷で、因幡から美作、播磨を経て姫路に出る因幡街道の街道筋にあたる宿場町だった。大原駅の近くには、本陣、脇本陣と呼ばれる大原宿跡があり、大名や旗本、勅使など宿泊したという。昭和61年に岡山県の「町並み保存地区」に指定され、かっての町並みが整備され保存されている。武蔵もこの街道を経て京や西国に出かけたものと思われます。
「作州」とは美作(みまさか)の異称。明治時代中頃、町村制施行に伴い「吉野郡大原村」となり、明治の末に「英田郡大原町」となる。平成17年(2005)、周辺の町村が合併し「岡山県美作市」となりました。
大原駅から少し離れるとのどかな田園風景が広がる。その傍には、山すそまで竹林に覆われていたことから「竹山」と呼ばれた標高430メートルの山がせりだしている。この山上に、中世後期に「竹山城」という山城があった。明応2年(1493)新免伊賀守貞重が築城し三代百年間、関が原の敗戦(1600)まで居城していた。因幡街道を眼下に見下ろせる戦略上重要な場所であり、南北朝内乱の時代から戦国末期まで、攻防の歴史が繰り返されてきた。武蔵の祖父・平田将監、父・平田無二斎はこの城に仕え(家老?)、剣道師範役をしていたという。
宮本武蔵駅(みやもとむさしえき)
大原駅に着いたはいいけれど、隣りの宮本武蔵駅へ行く普通列車は1時間待ち。待ってられないので、タクシーを呼ぶ。15分位、2500円で宮本武蔵駅に着きました。駅舎は一段高い高架上にあり、無人駅です。帰りに分かったのだが、車内で車掌さんが「どちらからですか?」と切符を売りに回ってきます。
「武蔵の里」の玄関口だけあって、駅前はお花で飾られ綺麗に整備されている。トイレ付き休憩所も完備しています。暑く喉が乾いたので自動販売機を探したが、駅周辺にはありませんでした。
第三セクター鉄道智頭線の「宮本武蔵」駅。人の名前を駅名にした珍しい駅です。駅名は一級だが、他のローカル駅同様に列車は1時間に1本しかありません。乗り過ごすと悲惨な目にあうので、必ず時刻表は確認しておくことです。
この駅の目玉は、ホームの壁に描かれた約2メートルほどの宮本武蔵肖像画。無人駅なので自由に出入りし見ることができます。ただしホームの幅が狭いので、真正面から観察できず、斜め横でしか見れない。単線なので反対側ホームもありません。
熊本市の島田美術館所蔵の有名な宮本武蔵肖像画を模したもの。細川家に仕えた晩年の武蔵で、総髪を伸ばし、二刀を下段にだらりと下げている。決闘者のイメージはなく、何かを悟った穏やかな眼をしています。
駅前の広場には、竹をかかげ躍動する幼少期の武蔵を真ん中に、左に初恋の相手のお通、右手には幼馴染みの又八の像が置かれている。吉川英治ワールドそのものです。
宮川大助の武蔵、花子の扮するメガネのお通・・・イイネ
駅舎から眺めた「武蔵の里」風景。鎌坂峠を登って、奥に見える山を超えると、そこは播磨の国です。幼少期の武蔵も峠を越え播州・平福の母のもとへ何度も通ったと伝わる。
宮本武蔵顕彰武蔵武道館(みやもとむさしけんしょう むさしぶどうかん)
駅から南へ歩いていると、右方の田園のなかに異様な屋根をした建造物が現れる。これは武蔵の里のシンボルとして平成12年(2000)に完成した「宮本武蔵顕彰武蔵武道館(みやもとむさしけんしょう むさしぶどうかん)」です。大屋根はさむらいの兜のようにも見えるが、実は刀の鍔(つば)だそうです。武蔵が作った「海鼠透鍔(なまこすかしつば)」に元にデザインされたという。
こちがが正面で、終焉の地熊本に向いているそうです。名前のように剣道場、柔道場がメインだが、838席の観客席をもつアリーナとしても使用でき、バレーボールなどの屋内スポーツ競技やコンサートやコンベンションなど多目的に使用できる施設となっている。
傍を通ると、内からエイー、ヤーと掛け声が響く。剣道の練習をしているようだが、二刀流ではありませんでした。
武蔵の里
1:宮本武蔵顕彰武蔵武道館、2:解体中の五輪坊・武蔵資料館、3:宮本川、4:武蔵の里楽市楽座、
5:武蔵道場、6:青年期宮本武蔵像、7:讃甘神社、8:宮本武蔵生家跡、9:観光案内所、
10:たけぞう茶屋、11:平尾家住宅、12:鎌坂つつじ園、13:武蔵神社、14:武蔵の墓
(上が北。宮本武蔵駅は右上上方です)
武道館の南側には広い駐車場がある。かって観光客が押し寄せた時に造られたものだろうか?。タクシーの運転者さんは「賑やかだったのはNHKのドラマの時だけでした」とおっしゃる。NHK大河ドラマ42作目として『武蔵-MUSASHI』が放映されたのが平成15年(2003)1月5日から同年12月7日。NHKのテレビ放送開始50周年の作品で、原作は吉川英治の小説『宮本武蔵』、市川新之助(現在の13代目・市川團十郎)が演じました。この駐車場も車で混雑したことでしょう。
奥に見える集落の中に、宮本武蔵生家跡、讃甘神社などがあります。
防護幕に囲われ、足場の組まれた大きな建物が見えてきた。これは「武蔵の里」の中心的な施設だった「五輪坊(ごりんぼう)」と隣接する「武蔵資料館」です。「五輪坊」は合宿、宿泊、宴会、食事などに利用できる施設。「武蔵資料館」は宮本武蔵ゆかりの品を展示していたが、ほとんどが複製品だと、ネットでの評判は良くなかった。
ネットで令和3年(2021年)4月1日より休館中だというのは知っていたが、まさか解体中だとは思わなかった。新しく再建するのでしょうか?。観光案内所の人に聞けば「現在再建の話は聞いていない。多分ないでしょう」とおっしゃていた。これが日本各地にみられる町おこし、村おこしの現実でしょうか。
閑散とした宮本の農村、その真ん中を宮本川が流れる。武蔵も幼少の頃、この川ではしゃいだことでしょう。しかし、目をみはるほどよく整備された川を見ていると、武蔵のイメージは浮かんでこず、なにか寂しさを感じます。
橋を渡ると「武蔵の里・楽市楽座」です。月1回朝市を開催し、地元の生産者が持ち寄った新鮮な野菜や手作り惣菜、さらに民芸品などの特産品販売所が開かれる。
解体中の五輪坊の前は、池を中心とした回遊式庭園となっている。こんな寒村に置いておくのがもったいないくらいな綺麗な庭園。武蔵の里であることを忘れさせてくれる。休憩所も設置されているので一休み。
奥に見えるのが武蔵道場と青年期宮本武蔵像。
庭園の奥にかなり大きな武蔵道場が建つ。正面から見れば禅寺の庫裏のような構えをしている。ここでは兵法二天一流を教えているのだな。掛け声が響いてきます。
武蔵道場の横に青年期の宮本武蔵像が建つ。駅のホームにあった壮年期の像と違い、鉢巻を結び、二刀を上段に構えた凛々しい決闘者の姿をしている。
平成7年5月19日(1995)、大原町合併40周年を記念し、宮本武蔵没後350年の命日に建立された。制作は、文化勲章受賞者で彫刻界の巨匠、富永直樹氏(知りません)。
讃甘神社(さのもじんじゃ)
公園を出ると道を挟んだ正面が「讃甘神社(さのもじんじゃ)」。この神社は元々は「荒巻宮」と呼ばれ、背後の山上にあった。この宮の麓にあったことからこの地域が「宮本」と呼ばれるようになったと伝わる。天正年間(1573-1592年)に兵火に焼れ、そこで山下の現在の場所に移したようです。拝殿の正面上には「荒巻宮」と書かれた額が残されています。
小さな神社ですが、川を挟んですぐ隣が武蔵の生まれた家です。説明版に「代々十手の達人の家に生まれた武蔵が幼年の頃この境内に遊び、太鼓をうつありさまを見て二本の撥を以って左右の音が等しいに感得し十手を二刀に替えたと言われている」とある。後年の二天一流の剣法はここから発祥したのですね。しかし、武蔵は数々の決闘において二刀を用いていない。二刀流は実践向きではないのかもしれない。
この神社で目を引くのが鳥居です。「讃甘神社」の額に小さな唐破風の屋根がのっかっている。このような唐破風のつた鳥居は初めて見ます。
下に目をやると、二本の本柱の前後に別の四本足で支えられている。こうした鳥居を「両部鳥居(りょうぶとりい)」、又は「四脚鳥居、稚児柱鳥居」と呼び、厳島神社の大鳥居がその代表例。
正面は拝殿。ここでも向拝の唐破風が目を見張る。主祭神は大己貴命(おおなむちのみこと、大国主命)。明治6年(1873)に郷社に列格されたときに現在の「讃甘神社」に名前変更された。この辺りがかって「讃甘郷」と呼ばれていたからです。「讃甘(さのも)」は、この土地で造られた酒が甘かったことに由来するそうです。
宮本武蔵生家跡
讃甘神社の隣に宮本川を挟んで「宮本武蔵生家跡」がある。生家と言われる民家の前には碑が建ち、多くの説明版が設置されています。どこでも見られる普通の民家と、その前の仰々しく付設された施設案内がとても奇妙です。武蔵の生誕には謎が多いが、この宮本村こそがそうであると主張する人々と地元の熱意が伝わってくる。
戦前に火災で焼け、瓦葺に建て直されたためか、剣豪・武蔵のイメージは全くありません。「今この家には、無二斎の弟武輔正常の子孫の方が住んで居られ武輔より十六代目です。仏壇には武蔵の位牌をお祭りしてあります」(宮本武蔵顕彰会の冊子「宮本武蔵生誕地の確証」より。武蔵の里大原観光協会で購入)。現在でも平田氏の子孫が住家として使用されているので、当然のことだが中へは入れず、外観のみ見学可能。昭和34年には宅跡が「岡山県史跡」に指定されました。
武蔵の父・平田武二は十手術の達人で、竹山城主新免氏に仕え家老職を務めていた。信任厚く主君から「新免」の姓を名乗ることを許され、「新免無二、新免無二斎」とも名のった。そして家老職をなおざりにして諸国を遍歴し、立ち合いを繰り返したとの伝えも残る。謎多い父です。
武蔵の母親はどうか。平田武二の妻は竹山城主・新免宗貞の娘で「於(お)政」といった。お政は武蔵を産んで一ヶ月後に病死してしまう。武蔵は「生まれると母を亡し乳母や姉のおぎんや義母に育てられ、負けず嫌いで独立独歩、孤独の寂しさを剣によっていやしたのであろう」(「宮本武蔵生誕地記念碑」の碑文より)。ところが異説もある。於(お)政は武蔵の二人の姉を産み、天正十二年三月四日に亡くなった。その後、武仁は播州佐用郡平福村の利神城主・別所氏の娘・率子(よしこ)を妻に迎える。しかし率子は平田家に輿入れしてから、さしたる歳月を経ることことなく、平田家を去って実家に帰り、やがて遠縁の田住正久に再嫁した。田住家の記録には、武蔵が実母を慕って田住家にやってきていたとある。「於(お)政」と「率子(よしこ)」、どちらが武蔵の実母だろうか?。翳りを含んだ孤高の剣士・宮本武蔵を育んだのにはこうした幼少期の複雑な家庭環境があったといわれます。
周囲を玉垣で囲われて建っているのは宮本武蔵生誕地記念碑。石碑の「宮本武蔵生誕地」の文字は、熊本藩最後の藩主・細川護久の長男の護成(1868-1914)が揮毫したもの。碑文に「武蔵は終生娶らず実子は無かったが姉おぎん、叔父武助の子孫が生誕地に現住している。明治の末、熊本の宮本武蔵顕彰会の人々が来村、平田家の遺物等を調査して、生誕地はここであることを確認したので、町内の有志が資金をだし明治四十四年この地に碑を建てたのである。」と記されている。
こちらの石碑には「舟島のかえりは武蔵ひとりだけ」と刻まれ、吉川英治選とある。佐々木小次郎との巌流島の決闘を詠んだものです。
右の石柱には「郷土史宮本武蔵研究家 福原浄泉先生謝恩碑」とある。福原浄泉(1904-1996)は旧大原町下庄の生まれで著書「宮本武蔵の研究」がある。すぐ傍の武蔵の里大原観光協会に置いてある冊子「宮本武蔵生誕地の確証」(500円)の著者でもあります。左は「吉川英治先生文恩記念碑」で、ご当地は吉川英治に感謝しても、感謝しすぎることはない。
場違いなような地蔵様がおられる。よくみると、地蔵様が合掌してらっしゃるのは大小の二刀でした。この地蔵大菩薩像は、平成11年(1999)に京都洛西の竹の寺・地蔵院が平田家に贈ったものです。
観光案内所・たけぞう茶屋・平尾家住宅
宮本武蔵生家跡まえは広場になっている。鳥居には「鎌坂峠」の額がかかり、これを潜ると平尾家住宅、鎌坂つつじ園、武蔵神社、武蔵の墓、一貫清水へと続く旧因幡街道です。
右側の建物は武蔵の里大原観光協会の観光案内所(TEL(0868)78-3111、受付時間 9:00~17:00 (平日))武蔵関連の品や書籍を販売している。武蔵神社の絵馬やお守りも置いている。どんな質問にも丁寧に答えてくれます。
広場の手前には「たけぞう茶屋」がある。五輪坊が解体されてしまった現在、武蔵の里でお食事できるのはここしかない。ちょうど昼時なので暑さしのぎを兼ねて入りました。奥の書架には武蔵関連の本がびっしり並んでいる。
注文したのは名物「武蔵二刀流めん」(700円)。丼に、温かいうどんとそばが半々に分けられ入っている。大小の二組みの箸が置かれ、壁に貼られたメモのように二天一流の作法で食べる。他にお客さんがいてるので「エイ・ヤー」できなかったが、美味しかった。
「鎌坂峠」の鳥居を潜ると、すぐ平尾家住宅が見えてくる。武蔵の姉おぎんの嫁ぎ先と伝えられている旧家。かって立派な石垣があったが、寛永十五年(1638)天草一揆の時、公儀の命令で取り崩したと伝わる。
天然記念物の古木ウツギとはどれだろう?。写真左端の緑葉を茂らせた樹木かな。
この茅葺きの家は、おぎんの二男・九郎兵衛景貞が武蔵家を相続したときに建てられ、町内で最も大きな家であったという。
樹齢450年の天然記念物タラヨウの木は、古い写真を見ると家屋のすぐ右端に立っていた。上部は枯れはて白っぽくなり、無残な姿をしていました。取り除かれ、現在はありません。
現在も住居として使われているため、敷地の中に入ることはできません。平田家にしろこの平尾家にしろ、現在も居住され日常生活の場として使われていのに、案内板が建てられ見世物にされている。住んでおられる方はどのようなお気持ちでしょうか。迷惑している?、誇りに思っている?。市から観光資源として補助金でもでているのでしょうか。
武蔵神社・武蔵の墓
平尾家住宅の先に「鎌坂つつじ園」がある。平成19年(2007)に、平尾家の棚田約70アールを造園し、約2000本約20種のツツジ、20本のサツキが植えられました。4月中旬~5月中旬が見頃だそうです。つつじ園の向かいには「ふれあい休憩所」も設置されている。
鎌坂つつじ園から200mほど緩やかな坂道を登ると、右手に階段が現れ、二本の鳥居が建っている。階段上に簡素な小屋(神社ですヨ)が建ち、マンガチックな武蔵の似顔絵(肖像画ですヨ)が掲げられている。
宮本武蔵を祀る神社を建てようという武蔵奉賛会の呼び掛けで全国1300人以上から浄財530万円が寄せられ、それを元に昭和46年(1971)に平田家の墓地の近くに奉賛会が中心となり建立した。
必要なくなった竹刀が奉納されている。武蔵のハート(魂)石を見つけてくださいとある。石垣にすぐ見つかりました。武蔵のハートはこんなに弱々しいとは・・・笑ってしまいます。
神社の傍らには五輪塔も建つ。「佐々木小次郎 他六十余名」の供養塔です。武蔵は29歳で佐々木小次郎に勝つまで、六十余度の勝負をし一度も敗けていない。その六十余名への供養、いや勝利宣言です。
武蔵神社のすぐ右下に平田家の墓所がある。中央の一番高いのが武蔵の墓で、その右隣が父・武仁(無二)と母・お政の墓。祖父にあたる平田将監の墓は探したが見つけられなかった。
武蔵は正保2年(1645)62歳で亡くなり、熊本の弓削の里に埋葬された。説明版に「九年後に養子の伊織が武蔵の里に魂を帰すため、ここ平田家の墓地に分骨した」とある。ということは、伊織は作州宮本村で武蔵が生まれた、ということを自覚していたのだろうか?。
墓石には「賢正院玄信二天居士 宮本政名武蔵之碑」と刻まれ、裏面には「干時明治三十一 戊戌年二月/武蔵末裔平田藤蔵/妻きく建之」と刻まれている。明治三十一年に墓を造ったのか、あるいは元からあった墓を改装したのか、疑問が残る。
こちらは武蔵の両親、平田武仁(無二)とお政の墓。「真源院一如道仁居士 光徳院覚月樹心大姉 武蔵父母也」と刻まれており、その横に没年が「天正八年四月廿八日」となっている。武蔵は天正12年(10年説もあり)生まれなのだが・・・??。
雑木に囲われた薄暗い墓所だが、木立の隙間から武蔵の里が、そして武蔵の祖父、父が家老職を務めた竹山城のあった山が望めます。墓はその竹山を正面に見ながら建っている。
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