クマは戦場に行った。ヴォイテク伍長について

2018-04-23 23:51:14 | 軍事ネタ

各国の軍隊で働くのは人間だけではない。
ときには動物も軍事行動に従事する。
馬やラクダ、犬などが軍隊で重用されることは珍しくないが、
今日はポーランド軍と行動を共にしたヒグマについて。




第二次世界大戦当時ドイツ軍によって国土を占領されたポーランド政府は、イギリスに亡命し連合軍に参加して抵抗を続けていた。
イギリスの支配地域であった中東に派遣されたポーランド軍部隊は、イランのハマダンにてあるシリアヒグマを拾う。

1歳にも満たないヒグマは猟師によって母親を亡くし行き場を失っていた。
祖国を追われた自分たちと通じるものを感じたのか、
兵士たちはヒグマにエサやミルクを与えてささやかな癒やしとした。
ヒグマはヴォイテク(Wojtek) と名付けられた。




それからヴォイテクはポーランド兵士と共に各地を行動した。
兵士たちとともに憩い、食事をし、同じテントで眠り、歩哨に立ち、敬礼も覚え、
ときには兵士たちとレスリングやボクシングに興じたりもしていた。
ヴォイテクが兵士たちに怪我を負わせたことはなく、
ときには負けてあげる素振りすらあったという。

酒や煙草が好きなところは軍人らしい一面に見えた。
周囲の兵士を見て覚えたせいか、火のついた煙草でないと欲しがらなかった。
幼いときを兵隊の中で過ごしたヴォイテクは、自らを人間だと思っているように感じられたという。
兵士たちもそんなヴォイテクを愛し、彼らの間には絆が芽生えていた。


 

連合軍によるイタリア上陸作戦が開始されると、ポーランド軍部隊もこれに参加することになった。
輸送船で動物を輸送することは禁じられていたため、
ポーランド軍司令部はヴォイテクを正式に伍長として任命し、
ポーランド人と同じ扱いの兵士としてイタリア戦線へと配属した。

有名なモンテ・カッシーノの戦いに於いて兵士たちが物資や弾薬の運搬をしていると、
ヴォイテクは「ぼくもそれ手伝うよ!」といわんばかりに作業をマネし始めた。
それから重い弾薬箱や砲弾などの運搬はヴォイテクの仕事となった。

大人の体格に育ったヴォイテクは人力では難しい重い荷物も軽々運ぶことができた。
45kg分もの弾薬箱や一発10kgの砲弾を何度も往復してトラックから運び出し、
イタリアの足場が不安定な山岳地帯においても落としたことはないという。

ヴォイテクは最前線の爆音や銃声にも怯まずに、
弾薬補給中隊の一員として立派に職務を遂行していた。
こうして彼らは名実ともに戦友となった。


 

ポーランド兵たちはヴォイテクの働きを誇りとし、弾薬を運ぶヴォイテクを紋章にデザインし、
兵士たちは連合軍兵士に自慢するようにあらゆるものにその紋章をつけるようになった。
イタリア戦線を共に戦ったイギリス軍ですら「クマの勇者がいる」とヴォイテクを認めていた。


 

ヴォイテクにとって軍隊と戦争は育った環境そのものだった。
やがて戦争が終結すると、ポーランドはソ連の傀儡である共産主義政権となり、
西側諸国に出兵したポーランド人は本土への帰還を認められず、
ヴォイテクもその対象とされた。

多くのポーランド兵とともにヴォイテクはその後をイギリスで過ごした。
動員解除の後、スコットランドのエディンバラ動物園に入ることになったが、
そこでは酒を飲んだり煙草を吸ったりする自由もなく、
ずっと兵士たちと共に生きてきたヴォイテクにとって馴染むことは難しかった。

動物園に入園してからもヴォイテクはポーランド語にしか反応せず、
たまに元ポーランド兵が訪れて呼びかけると手を振って応え、
元ポーランド兵たちもオリに入ってレスリングをしたり、
ドキュメンタリー番組に出演したりして過ごしたという。
1963年に21歳で死去した。


ヴォイテクはポーランドやスコットランド、モンテ・カッシーノに銅像を残し、
また第二次世界大戦RTSのHearts of Iron4 の実績となったりしてその逸話が今も語り継がれている。

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