自衛隊の巡航ミサイル保有、JASSM-ERについて

2017-12-10 21:08:23 | 軍事ネタ

Twitterやコメント欄で話題があったので、本日は軍事記事を更新。
航空自衛隊が採用を検討している巡航ミサイル、JASSM-ERについて。

当ブログでは7年前にも自衛隊での巡航ミサイル保有の必要性を書いていたが、
年月を経ていよいよそれが実現しそうなところにきてるのは感慨深い。 → 自衛隊の敵地攻撃能力の保有について
現在の日本にとっては最も安価で確実な防衛手段のひとつである。




1, 巡航ミサイル保有について

まず巡航ミサイルとは、艦船や航空機に搭載して敵地を攻撃するタイプのミサイルである。
専守防衛を唱える自衛隊では創設以来から、このような敵地攻撃用の兵器というのは禁じられてきた。
なので今までは北朝鮮のミサイル脅威に対しては、ミサイル防衛(MDとも)を重点的に整備することで対処してきた。
有名なのはイージス艦とかパトリオットとかそういうの。

しかしここで問題が提起される。
北朝鮮のミサイルを迎撃する為の兵器ばかり揃えていても、迎撃率は100%なのか?
つまりいくらMDに力を入れても、例えば10発の核ミサイルを撃たれひとつでも迎撃仕損じれば甚大な被害を被る。
そして現状のMDの成功率は高いのか。
答えは否である。

これも弾道ミサイルとMDについての解説記事を過去に書いたので、 → 弾道ミサイルについてと、MDに関して
ここでは簡潔に説明すると、核兵器が搭載される弾道ミサイルは宇宙高度から落下してくるので、
その突入時の速度は最も高速なもので秒速8kmに達するものもある。
そのような超高速の物体を確実に迎撃する手段など、現代でもまだ存在しないのだ。


つまり北朝鮮のミサイル脅威に対して現状のまま、「撃たれてから対処する」のでは分の悪い賭けとなる。
それではどうするか。
「撃たれる前に排除する」のが一番だろう。

今までは例えば有事となっても、北朝鮮が撃ってくるまでこちらは対処手段がなく、
2発目3発目となっても撃たれるまで待たなければならないという武装状況だった。(アメリカ軍を除き)
それが巡航ミサイルを配備すれば、完全に撃つ態勢に入っていて位置も判明している敵ならば、
撃たれる前に潰すことが可能となるので、撃たれてから対処するよりもよほど安全な策となる。
これを軍事では敵策源地攻撃とも呼ぶ。

アメリカのように敵基地本格空爆の為に空母打撃艦隊を整備する必要もなく、
単に一発1億円ちょいの巡航ミサイルを保有するだけでリスクは大幅に低減される。
弾道ミサイル一発でも着弾した時の被害を考えると、巡航ミサイルは最も安価な防衛兵器のひとつなのである。


2, なぜJASSM-ERなのか

ここで疑問に思うのが、何故トマホークではなくJASSM-ERなのか?
JASSM-ERは艦載型のトマホークと違い、航空機搭載型巡航ミサイルなのである。
F-15EやB-1Bなどの爆撃機に搭載され運用される。
そして現状、航空自衛隊はJASSM-ERを搭載できる戦闘機を保有していない。

自衛隊はイージス艦も保有してることを考えれば、アメリカ軍のようにイージス艦へのトマホーク搭載が普通であり、
俺自身も過去記事において全て艦載前提に巡航ミサイル保有論を書いてきた。

なぜ航空機搭載型なのか、空自は現状の機体を改修するか、
調達が決定している新型戦闘機のF-35でしか運用できないのに。
理由をいくらか考えついたので考察してみる。


A, ステルス性と射程の問題

巡航ミサイルの弱点は、巡航速度が遅いことであり、基本的には亜音速域での飛行となる。
その為に巡航ミサイルは一度敵に捕捉されてしまえば、高射砲でも対空ミサイルでも簡単に撃墜されてしまう。
それへの対策として、トマホークなどは敵に捕捉されない飛行ルートを設定したりするわけだが、
最新型のJASSM-ERはステルス性能が従来のものよりも大幅に向上しており、捕捉されにくいとしている。
なので今後の現代戦にも対応できるだろうということ。

もうひとつは射程である。
従来では航空機搭載型の巡航ミサイルはそのサイズの制限から射程が短く、
艦載型のトマホークが半径2000km以上を射程に収めるのに対し、
従来のJASSMは半径400km程度の射程しか有していなかった。

それが最新型のJASSM-ERになると半径1000km程度にまで射程が延伸されたので、
日本の運用目的なら射程の問題はほぼ解決され、ステルス性も向上し撃墜されにくいという、
ミサイル自体の性能からトマホークよりもJASSM-ERを選択したという見方。


B, ペイロードと運用幅の問題

もうひとつ推測される理由は、おそらくペイロードである。
ペイロードとは武装搭載量のことで、艦載式トマホークの場合、イージス艦に搭載されることになるが、
日本は近い将来を入れても8隻のイージス艦しか保有しておらず、しかも1個護衛隊群につき2隻ずつの運用となるので、
敵の弾道ミサイルや航空機迎撃のための対空ミサイルを積んでいる上に、攻撃用トマホークも搭載となれば、
搭載量の問題から肝心の対空防御の持続力が低下する問題。
VLS(発射管)のセル数は限られているのだ。

なので数少ないイージス艦にMDも対空も敵地攻撃もとあらゆる負担を押し付けないように、
艦載型トマホークではなく航空機搭載型のJASSM-ERを採用したというのも理由として考えられる。
任務負担の分散だね。

もうひとつは運用幅、まあひいては機動性の問題。
最優先任務としてMDに最適な位置に配置されているべきイージス艦は、
攻撃任務時に最適な位置にいない可能性も高い。
なので航空機運用にした方が攻撃位置の選定や、またその配置につくまでの機動力もあるので運用幅も広がり、
上述した各利点も相まってトマホークではなくJASSM-ERの採用を検討していると言えるのではないか。


以上、今回の自衛隊の巡航ミサイル保有論の考察である。
いずれにしても専守防衛の自衛隊に初めて敵地攻撃能力を持たせることが現実的に捉えられていることは、
時代の変遷を感じる。
全通甲板式の空母型護衛艦の配備も今や普通となり、次に敵地攻撃ミサイルとなれば、
今後もあらゆる武装の解禁が検討されることになるかもしれない。

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戦車の歴史(4) ~ 電撃戦 ~

2016-03-25 19:59:51 | 軍事ネタ

前回記事 からの続き。
戦車の歴史について、第四弾。


・『黄の場合』

ポーランドを制圧したドイツ軍は西部戦線へ転戦し、
1940年5月10日にファール・ゲルプ(黄の場合)作戦を発動。
宿敵フランスとの戦いに臨んだ。

フランスはドイツとほぼ同等規模の軍隊を有する大国である上に、イギリスとの同盟があり、
またフランスへ攻撃をかける為にはベルギー・オランダとも戦わなければならなかった。
両軍ともに300万人以上の戦力を投入し合ったこの戦役は、ドイツ軍にとって大きな賭けであった。
戦車戦力の観点から見ると、ドイツ軍は2574輌の戦車を投入した。
ポーランド戦役の3466輌よりも少ないのは、ポーランド戦で消耗したのと、
故障したI号やII号の修理よりもIII号やIV号などの先進的な戦車の生産を優先したことに依る。

よってドイツ軍主要戦車の内訳は、

名称主武装配備数
I号戦車7.92mm機関銃523輌
II号戦車20mm機関砲955輌
III号戦車37mm砲345輌
IV号戦車75mm砲278輌

と、戦車総数自体は減らしつつも、III号とIV号戦車の比率はポーランド戦での僅か9%から、25%を占めるようになった。
軍事的先進国との戦いに備えた装備体系で臨んでいる。
また上記のドイツ製戦車以外にも、チェコから接収した35(t)戦車や38(t)戦車を合わせて300輌以上配備しており、
これらは37mm砲を搭載している為、チェコ戦車もドイツ軍にとって大きな戦力として配備された。




・英仏連合軍の方が装甲戦力に優れていた

対する英仏連合軍の配備戦車は、種類が多いので戦車区分ごとにまとめると、

名称戦車区分配備数
ルノーFT・AMR35戦車等軽戦車764輌
ルノーR35・ソミュア戦車等中戦車2215輌
ルノーB1・マチルダ戦車等重戦車400輌

などで3500輌近くを数えた。
ドイツ軍で言うとI号・II号戦車が軽戦車に相当し、III号・IV号戦車が中戦車に相当する。
さらに未だドイツ軍には配備されていない重戦車までもが英仏連合軍には存在した。
その上にベルギーやオランダ軍の戦車も存在するので、
つまるところ戦車戦力比だけで言えば、
連合軍はドイツ軍よりも質量ともに優っていたといえる。


・アラスの戦い

とりわけ5月21日に生起したアラスの戦いに於いてドイツ戦車部隊は苦しめられた。
フランス内陸部を進撃中のエルヴィン・ロンメル将軍の第7装甲師団が英戦車部隊から奇襲攻撃を受け、
攻撃をかける74輌の英戦車部隊の中にはマチルダII戦車の姿があった。

マチルダII戦車の正面装甲厚は75mmで、
当時の水準から言うと抜きん出た重装甲であり、
ドイツ第7装甲師団が準備していたあらゆる対戦車砲を物ともしなかった。
III号戦車の37mm砲では至近距離から背面を撃つことでしか貫徹できなかった。
IV号戦車の75mm砲も口径は大きいが榴弾用の大口径であり、
初速が遅い短砲身型の為に貫徹力はIII号戦車よりも低かった。
当時のドイツ軍内ではIII号が対戦車用の主力戦車、IV号が歩兵支援戦車だったのである。

この規格外の装甲に対してロンメル将軍は、急遽88mm高射砲を並べての火線を構築。
88mm高射砲は高々度の爆撃機に対抗するために高初速・大口径であり、
またスペイン内戦に於いてこの高射砲が敵戦車にも有効打となる戦訓を既に得ていたので、
それに倣い88mmでマチルダIIを撃退したのである。


しかし戦車同士で比べた場合の性能で劣っていることは
この事例を見ても確かだった。


・西部戦線の結果

連合軍の装甲戦力はドイツ軍よりも優越していた。
しかしこの戦いもポーランド戦役のようにわずか1ヶ月強で、
ドイツがパリを占領しフランスを降伏させイギリスをドーバー海峡へ追い落とすこととなった。
要因はいくつかあるが、その中でも戦車がこの勝利の主役となった。

フランスは今回の戦争も第一次世界大戦のように陣地を構築しての睨み合いになると踏んでいた。
ジリジリと陣地線を押したり引いたりして、砲撃や戦車で支援して歩兵を突撃させるような。
だからマジノ線という巨大な要塞線を築いたし、フランスの発想はあくまでも防衛的であった。

それ故に戦車運用も前大戦の延長線上にあった。
歩兵部隊の中に戦車を配備し、散りばめ、満遍なく配備した。
フランス軍人の中にはドイツのハインツ・グデーリアン将軍のように先鋭的な視点を持つ者もおり、
そういった者は戦車の集中運用を主張したが、それは機動戦の為であり攻勢的な姿勢と見られた。

国民も軍人も守勢的姿勢を持つ者にこそ賛同したのは、
前大戦で人口をすり減らした苦い思い出があったことと、
根強い厭戦感情が影響しているだろう。




・電撃戦とは

対するドイツ軍の戦車戦術の原則は集中運用だった。
戦車は戦車で固め、それに追従する歩兵部隊も自動車化され、
徒歩で行軍する歩兵や牽引される砲と、戦車を混ぜこぜにすることを拒んだ。
そうすることで戦車部隊はその快速さを十分に活かせた。

次の特徴として無線器の完全装備化が挙げられる。
これを当時実現したのはドイツ戦車部隊ぐらいだった。
戦車と自動車のみの編成で快速を活かし突破するということは、
友軍戦線から孤立するということと同義である。
そんな中でも部隊間連携をとれるように無線を装備し、統率を維持していた。

現場指揮官への権限委譲も革新的だった。
かつてない機動戦のさなかでは、戦況は刻一刻と変化する。
特に孤立している中で上級指揮官からの指示を待っているとなおさら状況が遅れていく。
ドイツ軍は十分な機動戦を行うにあたって、現場指揮官に大幅な判断権を与えていた。
これにより前線で戦う戦車部隊は、自らの機動力を損なうことなく、
現場の視点と判断のみで縦横無尽に暴れまわることができた。
これがなければ無線化も十分には活かせなかったろう。

近接航空支援の活用も欠かせなかった。
機動戦に於いて戦車部隊が快速を発揮すると砲兵を置き去りにしてしまい、
十分な火力支援が得られなかった。
それを補うのが爆撃機の存在で、ドイツ軍は前線からの要請に応じて、
爆撃機が十分に近接航空支援ができる体制を構築していた。
これにより強固な抵抗に際し砲兵の支援がなくても、
"空の砲兵"である爆撃機が前面敵部隊を打撃し、
戦車部隊が進撃することができた。


上記の特徴が合わさり、目標地点までの一点突破を旨としたドイツ軍は、
戦車部隊がフランス前線を突破し、後背地を自由に荒らし回ることができた。

フランス軍は前大戦のような膠着戦を想定していたので、機動戦に追いつくことができなかった。
戦車は分散配備されていたので、戦力を集中して襲来するドイツ戦車部隊に対抗することもできなかった。
前線を突破されても、あくまでも司令部からの指示に頼る体制であった為、
司令部からの指示を携えた伝令が到着する頃には状況がまるで変化していた。
無線機も十分でなかった為に、前線が突破された報が回ると、
あちらこちらでドイツ兵を見たという報告が上がり恐慌状態に陥った。

フランス軍前線部隊は、物理的にも精神的にも、"置き去り"にされた結果、
組織的行動が不能に陥り、実際には大した損害がなくても、集団投降せざるを得ない状況が発生した。


ドイツ軍の電撃戦とは、敵軍部隊を物理的に破壊する思想ではない。
一点突破によって戦線の背後を荒らし回り、前線司令部や補給施設など中枢部を破壊して回り、
その効果として情報・連絡や補給を遮断し、少数部隊で多数の敵軍部隊をソフト面で
機能不全に陥らせ降伏に至らせるドクトリンである。

突破した戦車部隊が敵部隊後方に迂回・包囲し、
友軍部隊と連携し殲滅する作戦もしばしば見られるが、
そういった包囲殲滅戦は厳密には電撃戦とは区別される。


1940年の西部戦線では真の電撃戦が最大限に発揮され、史上稀に見る大勝利に繋がった。
またこのドイツ軍の電撃戦は、当時画期的であるだけではなく、現代の戦闘教義にも通じており、
戦車の歴史を語る上では欠かすことができない事柄である。

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戦車の歴史(3) ~ 騎兵の終焉 ~

2016-03-18 02:19:39 | 軍事ネタ

前回記事 からの続き。
戦車の歴史について、第三弾。




・『白の場合』

1939年9月1日、ファール・ヴァイス(白の場合)作戦に基づきドイツ軍がポーランド領へ侵攻開始、
第二次世界大戦が始まった。
この時のドイツ軍の戦車戦力は、装甲師団が7個と軽装甲師団が4個で、
戦車の保有合計数は総計3466輌。
その全てがポーランド戦線に投入された。
しかしその戦車の内、対戦車能力を有する戦車はわずかに過ぎなかった。
内訳としては以下である。

名称主武装配備数
I号戦車7.92mm機関銃1445輌
II号戦車20mm機関砲1223輌
III号戦車37mm砲98輌
IV号戦車75mm砲211輌

この他にはチェコから接収した軽戦車や、対戦車能力を有しない指揮戦車などが含まれる。
そして対戦車砲を有したIII号やIV号戦車は、全体の1割にも満たない。
スペイン内戦で対戦車能力の必要性が認識されたといえど、
この時はまだまだ生産が間に合っていなく、
WWI型設計思想の豆戦車であるI号やII号戦車が数の上で主力であったのだ。
しかしポーランド戦役ではこれでも十分な戦力だった。




ポーランド軍の配備戦車は432輌しかなく、
それもほとんどはドイツ軍のI号戦車に相当する豆戦車であったので。
ポーランド軍は歩兵36個師団、騎兵10個師団に対し、戦車大隊8個と、
「騎兵重視・戦車軽視」ともいうべき中世然とした装備体系だったのだ。

ポーランド軍騎兵部隊は"フサリア"と呼ばれ、
中世から近世まで欧州随一の騎兵部隊としての伝統も実績も申し分なかった。
その高い練度と機動力、勇猛さは1919年のポーランド・ソ連戦争でも発揮され、
軍上層部内に近代戦でも騎兵は有効であるという遺産を残した。

保守的なポーランド軍上層部は、新鋭兵器である戦車の可能性に懐疑的であり、
高コストでよくわからない兵器を揃えるよりは、
長年の運用実績がある騎兵に頼るのが手堅いと信じたのだ。


ポーランド戦役に於ける投入兵力自体はポーランド軍110万人に対してドイツ軍80万人と数的優勢であったものの、
爆撃機や戦車部隊、無線機なども活用した当時としては先進的な機械化を遂げているドイツ軍と、
機械戦力を軽視し、また工業力も十分ではなかったポーランド軍では、数の差以上の質的装備差が生まれていた。

このようなポーランド軍を相手取るにあたり、
ドイツ軍戦車の対戦車砲搭載率はさほど問題ではなく、
むしろ多数の歩兵や騎兵を相手取るには機関銃や機関砲のほうが都合が良かった。
結果的にドイツ軍はわずか約1ヶ月という劇的な速度でポーランドを下した。


ドイツ軍の電撃的なポーランド攻略は、自動車は騎兵を代替することを実証した。
そしてスペイン内戦と同じく数々の実戦結果が得られたが、最も大きな成果は、
ハインツ・グデーリアン将軍の機動戦思想がドイツ将兵に戦果を以て理解されたことである。

ドイツの戦車部隊も自動車に乗った歩兵部隊も、グデーリアンの機動戦がわからなかった。
しかし実際にポーランド戦役を戦っていく中で、偵察の為や地形によって立ち往生するたびに、
グデーリアン将軍の怒号が飛び、無理やり動かされていくことが頻発した。
それにつれて、今までこのような戦いを経験したことがない将兵たちも、
自身の機動力が敵軍部隊に精神的動揺を招き、
混乱させ降伏に至らせることを真に理解していった。


機動戦を唱えた将軍も、全く新しい戦術を与えられた兵隊たちも、
圧倒的勝利と戦果によって、機動戦に確証と自信を抱くことになったのだ。
このことは、次の戦役でさらに大きな成果へと結実する。


続き 戦車の歴史(4) ~ 電撃戦 ~ 


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戦車の歴史(2) ~ 戦間期 ~

2015-12-15 04:37:05 | 軍事ネタ

前回記事 からの続き。
戦車の歴史について、第二弾。


・戦間期

第一次世界大戦中期以降に初めて戦車という兵器が投入され、
大戦終結後は各国ともにこの革新的な兵器の発展に取り組んだかとおもいきや、
実は意外にも戦間期では戦車はあまり発展しなかった。

戦車の先進性に気づいた軍人もいたが、
大部分の政治家や軍上層部は戦車を軽視し続けたのだ。
それは戦車の武装をより強化すべしといった設計開発面においてや、
戦車は集中運用して機甲部隊として運用すべしといった戦術面に関してもだ。

例えば最も工業化が進んでいたアメリカですら1932年になってようやく戦車旅団の編成が許可された程度で、
戦車の大量生産をした上で大規模な機甲部隊の集中運用を主張する者もいたが一向に理解を得られず、
それはヨーロッパ各国であってもほとんど同様であった。

これは軍隊という組織は様々な理由により保守的に硬直しやすい性質があるからだが・・・


以前に機関銃の登場がもたらした衝撃と革新、その歴史について の記事にて、
機関銃という兵器は第一次世界大戦が実際に起こるまで異様に過小評価されていたことを書いたが、
それと同じことが戦車にも起きていた。
大組織ほど保守的になりがちで、実際に事が起きて必要性を迫られなければ
理解されないといったことはいつの時代でもままあるのだ。


しかしその必要性が理解される出来事が起こる。


II号戦車

・スペイン内戦

1936年7月17日から勃発したスペイン内戦は、ソ連が支援した共和国派政府に対して、
ドイツ・イタリアが支援したナショナリスト派が全土で武装蜂起し、
これは共産主義とファシスト陣営の代理戦争とも言える様相を呈したが、
新兵器の実験場ともなった。

両陣営とも新たな航空機や火砲を投入し、その経験を蓄積していったが、
戦車に関する実戦経験値は特に重要なものとなった。
第一次世界大戦時とは戦車の運用法が全く別物に変わったのだ。


当時の戦車はドイツのII号戦車のように、機関砲を主武装としているものが多かった。
これは第一次世界大戦時の戦車の主目標はあくまでも歩兵だったからであり、
歩兵を駆逐するなら大口径砲よりも小口径な機関砲や機関銃の方が都合が良かったからだ。
大戦終結から20年近くを経たこのときでもその実戦経験を引きずっていたので、
基本的に各国の戦車は一次大戦型の設計思想を踏襲していた。

しかしスペイン内戦に投入されたソ連製戦車T-26は45mm砲を主武装とし、
当時としては異例の火力を誇る戦車だった。
これに対抗するドイツのI号戦車は7.92mm機銃、II号戦車は20mm機関砲、
イタリアのL3戦車は8mm機銃が主武装という有様だった。

つまりT-26は遠距離からファシスト陣営の戦車を容易に撃破できたが、
II号戦車は500メートル以下に接近しないとT-26を撃破できないという状況を生んだ。


今後の戦車に搭載する火砲は対戦車能力もより重視しなければならない。
という戦訓を身をもって得られた。
また戦術面でも大きく変わった。

II号戦車はT-26に性能で劣っていたが、多数を集中運用することによって囲んで撃破できることがわかった。
またスツーカなどの急降下爆撃機は砲兵の代わりに、より高速かつ柔軟に戦車を撃破できることもわかった。
これはドイツ軍内に戦車の集中運用と急降下爆撃機を連携させる「電撃戦」の概念を固める下地を作った。

またスペイン内戦は市街戦が多く発生したので、ソ連のT-26といえど
ビルの陰や上で敵歩兵に待ち伏せられては火炎瓶や携行爆弾で容易に撃破されることもわかった。
戦車は歩兵と共同で進まなければならない、これは以降のソ連軍において、
戦車の上に歩兵を乗車させて前線で即座に展開させる「タンクデサント」に繋がった。

つまりスペイン内戦は独ソ両国の第二次世界大戦での戦車運用法に大きな影響を与えた。


そして戦車という兵器の有用性も、戦車による対戦車戦闘能力の必要性も強く認識された。
第一次世界大戦が終結した1918年からほとんど停滞していた戦車という兵器が、
第二次世界大戦で恐竜的進化を遂げる下地を作ったのだ。


続き 戦車の歴史(3) ~ 騎兵の終焉 ~ 


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戦車の歴史(1) ~ 戦車の誕生 ~

2015-12-11 04:18:50 | 軍事ネタ

コメント欄で軍事記事のリクエストが着ていたので、
それならばと個人的にいつか書きたいと思っていたテーマ。
本日は戦車の歴史について


・戦車の誕生

第一次世界大戦を物語る塹壕戦は戦線を膠着させた。
当時新兵器であった機関銃の大量投入により、平地に於いて歩兵は頭を出せなくなり、
銃火を避ける為に塹壕という細長く通路状に掘った溝を陣地として構え、
敵も味方も塹壕線を以て対峙したからである。

このような戦局を打開する為に、砲撃支援や煙幕散布のもと、
騎兵や歩兵による一斉突撃がしばしば行われたが、大抵は失敗に終わるか、
成功したとしても膨大な人的損害が発生してしまうことは避けられないことだった。

もっと確度の高い攻撃の為には新兵器が必要だ。
歩兵や騎兵に機関銃避けの防弾シールドを持たせることも考案されたが、
実際にやってみるとこれは重量増加による運動能力の低下で芳しくなかった。
そんな戦局で求められた新兵器とは、

機関銃弾を物ともしない装甲をもたせた上で機動可能、
特に張り巡らされた鉄条網や塹壕を踏破できるものが望ましい。
つまりそれの第一目的はまず突破能力、役割としては自走できる装甲と言っても良い。
そして敵陣地にとりついた時に敵軍歩兵を蹴散らすことができれば尚良かった。


1916年9月15日 ソンムの戦い、イギリス軍側陣地で"それ"は姿を現した。




マークI戦車

現在の戦車の定義を言えば全周砲塔は欠かせないが、
世界最初の戦車は砲塔を持たずに生まれた。
この戦車に求められた攻撃力というのは、砲撃火力ではなく、
機関銃弾の中を前進し、塹壕を突破し、戦線を押し上げることなのだ。

しかしそれでも歩兵を蹴散らす為に、
車体左右には57mm砲2門と7.7mm軽機3挺を搭載している。

黒煙とエンジン音を上げながら、前線の不整地も塹壕さえも踏破し、
銃弾を弾きながら、車体両面から火を噴いて前進してくる。
この走行する要塞と初めて対峙したドイツ軍将兵の衝撃は想像に余る。

イギリス軍はこの秘密兵器の開発時に秘匿名称として"水タンク"と称しており、
これがそのままタンク=戦車を指す言葉となった。


もっとも実際のところ、ソンムの戦いに於いて戦車は重要な役割を果たせなかった。
初めての実戦投入により故障が多発し、まともに戦えた車両はごく限られていたのだ。
しかしそれでも戦車の重要性は認識され、今後の騎兵を強力に代替するものと思われ、
その後各国で競うように新型戦車を開発・投入していくこととなる。


続き 戦車の歴史(2) ~ 戦間期 ~ 


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