京都つれづれなるままに

京都好きの旅日記。お寺、神社、グルメからスイーツまで!思いつくままに。

伏見の明治維新150年⑵

2018年05月24日 22時48分57秒 | 日記
魚三楼の向かいに羊羹で有名な駿河屋があります。駿河屋は初代岡本善右衛門が室町時代中期の寛正2年(1461)に、当時船着場で栄えた伏見舟戸に「鶴屋」の屋号で饅頭屋を開いたのが始まりと言われています。名物「煉羊羹」は秀吉が聚楽第で開いた大茶会の引き出物として参加者に配られ賞賛を受けました。また、徳川の時代にも頼宣の庇護を受け、紀州徳川家の有力な御用商人となりました。

この日はあいにくの定休日でした。
また、徳川五代将軍綱吉の長女鶴姫が頼宣の孫の綱教に輿入れした際、同じ「鶴」の字を使うのは恐れ多いとして、屋号の「鶴屋」を返上し、徳川家にゆかりのある「駿河屋」を賜り、今日に至っています。

東本願寺伏見別院は会津藩屋敷跡にあり後に教如上人が家康からこの地を与えられました。鳥羽伏見の戦いの際は、会津藩の宿舎となり官軍との間で畳を盾にした激しい戦いが展開されました。
当時のものは、表門とその横の大銀杏のみです。





四辻の四つ当たり
伏見城下は東西約4km、南北約6kmで先ほどのは本願寺別院の前の通りは城下町の名残りで"四辻の四つ当たり"と呼ばれています。遠見遮断の城下町
の町割りの特色です。近くには清酒"神聖"の蔵元直営の鳥せい"があり横には伏見の名水のひとつ"白菊水"が湧いています。

土佐藩邸跡
土佐藩の伏見での出張所的な存在で藩主が滞在する御殿などはなかったようです。





寺田屋
伏見南浜の船宿で薩摩藩の定宿で幕末に二つの大きな事件が起こった事で有名です。ひとつは寺田屋騒動。文久2年(1862)4月23日に起こった薩摩藩士の同士討ち事件。尊攘派の9名が命を落としています。もうひとつは坂本龍馬遭難事件です。慶応2年1月24日未明、ここ寺田屋で坂本龍馬と三吉慎蔵が伏見奉行所の捕吏に襲撃され龍馬は腕を斬られながらも伏見薩摩藩邸へと助けられた事件です。寺田屋のお龍の機転で龍馬に急を告げた事は余りにも有名な話です。今回は内部には入っていません。







伏見口の戦い激戦地跡
ここ京橋は京都と大阪を結ぶ舟運業の中心地で伏見奉行所からの幕軍や新撰組が官軍と激戦を繰り広げましたが劣勢で民家に火を放ちながら千両松、淀へて逃走しました。





2日後の1月4日には官軍の東寺本陣に錦の御旗が立てられ翌5日には征討将軍仁和寺宮嘉彰親王が東寺本陣から戦場視察に向かい薩長軍を励まし、伏見南浜などを巡見し東寺本陣に戻られています。錦の御旗が巡回したのはこれだけでしたが効果は絶大でこれを聞いた徳川慶喜は歴史上の逆賊になりたくはないと思ったと言われています。
彼は水戸藩の出身なので幼い頃から尊皇思想が根付いていたんだと思われます。



⑶に続く

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