今日の表題"夢之百年楽"は第三代京都府知事北垣国道の漢文で彼は遠く百年先の京都の行く末まで見据えて琵琶湖疎水の大事業を敢行したんですねぇ。今の政治家も少しは見習って欲しいものです!
さて明治23年に竣工した琵琶湖疎水は今も現役で使われている施設で京都市民にとって無くてはならない施設です。
琵琶湖の水を京都に引く事は豊臣秀吉も考えていた事ですが、当時の土木技術・測量技術では叶わないことでした。
時代は明治に下り政治が実質的に東京に移り京都の人口は激減し産業も衰退していきました。「第二の奈良」化を防ぐべく計画されたのが琵琶湖疎水です。
第三代京都府知事北垣国道は当時、東京工部大学校の卒論で琵琶湖疎水を取り上げた田邊朔郎が北垣の目にとまり京都府御用掛に抜擢されました。当時22才の若き青年技師でした。
(写真は南禅寺境内の水路閣で疎水分線です。)
琵琶湖疎水は大津市三保ヶ崎の取水口から山科・蹴上を経て京都市内に通じる運河で明治18年6月着工し23年4月にいわゆる琵琶湖第一疎水が完成しています。総工費は当時の金額で約125万円。当時の京都府の年間予算の約2倍の巨費を費やしました。
特に長等山の第一トンネルが難工事で現代のように重機もなく全ての工程は全て手作業で行われました。
明治政府による上地令で当時の南禅寺の境内9万坪の内、7万坪が政府により上地され民間に払い下げられ東山を一大工業地にする予定でしたが明治21年に高木文平とともにアメリカのアスペン水力発電所を視察した田邊朔郎は帰国後、北垣国道知事に水車による動力の確保はもはや時代遅れであり水力発電への計画変更を進言しました。京都府議会の可決、国の稟議も終えていたのですが北垣の英断で大幅な計画変更が行われました。
その後、建設されたのが蹴上発電所です。少し前に佐々木蔵之介さんがCMに出ていたあの施設で今も現役で関西電力水力発電所として役割りを果たしています。今年3月から毎週金曜日に事前予約にかぎり一般にも公開されています。
写真は蹴上船溜と南禅寺船溜との高低差約36mを解消する為の傾斜鉄道-インクライン-と関西電力蹴上発電所に通じる鉄管
琵琶湖疎水は水力発電、舟運だけではなく水車動力、庭園への引水、防火用水にも活用され特に水力発電で得た電力で京都電気鉄道が開通し京都の近代化におおいに貢献しました。
また、明治27年には鴨川運河が開通し大津から大阪への直接の舟運が可能となり明治末から大正にかけて最盛期を迎え1日100艘以上の舟が疎水を行き交ったと言われています。
写真は田邊朔郎博士の銅像と蹴上にある所謂、発電所取水系の設備でここから南禅寺別荘群の無鄰菴や阿有荘や大寧軒などに供給され庭園や池を巡った水は例えば無鄰菴の水は向かいの瓢亭へ、大寧軒のは對龍山荘を経て向かいの順正へと二次、三次的な利用され最終的には疎水に戻ったり鴨川に合流しています。
写真は国の名勝庭園の無鄰菴 山縣有朋の別荘で七代目小川治兵衛の作庭。南禅寺別荘群の始まりです。
さて明治23年に竣工した琵琶湖疎水は今も現役で使われている施設で京都市民にとって無くてはならない施設です。
琵琶湖の水を京都に引く事は豊臣秀吉も考えていた事ですが、当時の土木技術・測量技術では叶わないことでした。
時代は明治に下り政治が実質的に東京に移り京都の人口は激減し産業も衰退していきました。「第二の奈良」化を防ぐべく計画されたのが琵琶湖疎水です。
第三代京都府知事北垣国道は当時、東京工部大学校の卒論で琵琶湖疎水を取り上げた田邊朔郎が北垣の目にとまり京都府御用掛に抜擢されました。当時22才の若き青年技師でした。
(写真は南禅寺境内の水路閣で疎水分線です。)
琵琶湖疎水は大津市三保ヶ崎の取水口から山科・蹴上を経て京都市内に通じる運河で明治18年6月着工し23年4月にいわゆる琵琶湖第一疎水が完成しています。総工費は当時の金額で約125万円。当時の京都府の年間予算の約2倍の巨費を費やしました。
特に長等山の第一トンネルが難工事で現代のように重機もなく全ての工程は全て手作業で行われました。
明治政府による上地令で当時の南禅寺の境内9万坪の内、7万坪が政府により上地され民間に払い下げられ東山を一大工業地にする予定でしたが明治21年に高木文平とともにアメリカのアスペン水力発電所を視察した田邊朔郎は帰国後、北垣国道知事に水車による動力の確保はもはや時代遅れであり水力発電への計画変更を進言しました。京都府議会の可決、国の稟議も終えていたのですが北垣の英断で大幅な計画変更が行われました。
その後、建設されたのが蹴上発電所です。少し前に佐々木蔵之介さんがCMに出ていたあの施設で今も現役で関西電力水力発電所として役割りを果たしています。今年3月から毎週金曜日に事前予約にかぎり一般にも公開されています。
写真は蹴上船溜と南禅寺船溜との高低差約36mを解消する為の傾斜鉄道-インクライン-と関西電力蹴上発電所に通じる鉄管
琵琶湖疎水は水力発電、舟運だけではなく水車動力、庭園への引水、防火用水にも活用され特に水力発電で得た電力で京都電気鉄道が開通し京都の近代化におおいに貢献しました。
また、明治27年には鴨川運河が開通し大津から大阪への直接の舟運が可能となり明治末から大正にかけて最盛期を迎え1日100艘以上の舟が疎水を行き交ったと言われています。
写真は田邊朔郎博士の銅像と蹴上にある所謂、発電所取水系の設備でここから南禅寺別荘群の無鄰菴や阿有荘や大寧軒などに供給され庭園や池を巡った水は例えば無鄰菴の水は向かいの瓢亭へ、大寧軒のは對龍山荘を経て向かいの順正へと二次、三次的な利用され最終的には疎水に戻ったり鴨川に合流しています。
写真は国の名勝庭園の無鄰菴 山縣有朋の別荘で七代目小川治兵衛の作庭。南禅寺別荘群の始まりです。