定時制の実験
定時制には、服装の規定はない。何でもいいのである。いっておくが定時制には学力に問題がある生徒も、全日を中途退学した生徒もくる。そのなか、バイクもよし、アルバイトはもちろんよし、服装・頭髪は自由である。しかし、服装が自由になると、あるいは頭髪が自由になると何か困ることが起きるかというと、多分、普通の学校であれば、服装違反をするような生徒も一般性の範囲内の服装を着用してくるのである。耳に穴を開けている生徒もいるし、金髪も茶髪もいるが、だから彼らが何だといえば、そのことと学校の秩序との相関関係は見られない。そういう意味で定時制の実験に本来全日制は学ぶべきなのだが、そうした動きはまずみられないところに校則の正体が見えるというものだ。
無意味が存続する構造
意味のない校則ということが言われてきた。やれ、髪の毛は眉から1センチ以内だの、スカートがひざ下5センチ以上だの・・・。実は、言われる通り、校則に意味などない。というより、校則は法や人権という意味での規則ではない。それは、文字通りその共同体の内部でしか通用しない〈呪術〉である。しかし、まったく意味がないというのでは、というのでわかったような説明をつけているし、それらしい規則もあるのだが、本質を言えといわれたら、文字通りその社会の長老が〈恣意的〉に今の〈若い者〉に「気にくわねえ」と思うことが心がけという形で表記されているものなのである。
辮髪という制度が中国にあった。教科書的には、辮髪はそれ自体としては意味がなく、〈恭順〉を証する手だてだといわれる。これをみずから行うことで〈恭順〉の意を示すこと、そこに意味があったといわれる。実は校則はこれと同じなのだと考えていい。別に校則それ自体に意味などない。学校に従順に従えということが主である。あくまで、ポイントはそこにある。だからこそ、校則違反者は全力をあげて反抗するのである。それはいわば、反抗することそれ自体に意味があり、それ以外の意味はないのである。
この、抗争の中から〈小姑〉のようなちまちました規則の細分化が行われていく。反抗する姿をみた小姑が〈気にいらない/相手にされていない〉と〈恭順〉を迫り、〈いじめる/妬み・恨む〉営みが校則のめくるめき細分化の正体である。これはこれで掛け合いの漫才に似たばからしさがある。つまり、表の抗争関係とは別に〈もたれあい=愛憎〉の関係がここにはある。
この校則が存続する構造は、単純ではないのだろうが、あえて単純化するとこういうことになる。その学校の長老が校則の元締めだが――彼らもその前にいた人間のそれを踏襲しているにすぎない――、彼ら長老たちの伝統主義が〈恭順〉というモラルを紡ぎだしてうまれたのが校則である。これが存続し続けると「伝統主義」の本性が露出し、意味も意志も脱落していく。そこに残るのは、単なる長老への〈恭順〉という形だけの脱け殻となる。もともとの始まりが〈恣意〉である。生徒はそして、そのことをおそらく本能次元では感づいている。そして、執拗に意味をきくのだ。
「何で、膝下5センチより短いといけないの?」
「何でワンポイントが靴下に入っていてはいけないの?」
そんなものに答えがあるわけがないのだ。問題はそこにはない。双方そのことは感づいている。私が校則問題が不快なのはそこである。
下の〈若い者〉――それは生徒であれ、教員であれ、下は下である――は、〈年寄り〉が設定した規準を守ることで〈恭順〉を示せばいいのだ。
上の〈年寄り〉にしてみれば示させられなければそこから「メンツ」のたたかいになる。それだけのことである。
だから、校則の変更はきちんとした手続きを経ることは稀である。ある日突然なのであり、なしくずしなのである。「メンツ」だから、白黒ははっきりさせない。特に、〈年寄り〉が敗退し、譲歩した場合。
私は学力の低い底辺校でも、高い進学校でも教員集団に生徒ときちんと向き合い説得すべきはとことん説得することを提案したが結果は同じであった。ただ論理的な思考を「理屈」として退けられ、〈恭順お化け〉が支配権を誇示するだけであった。私は進学校での説得の否定をされたとき、軽い感動を覚えたものだ。要は、生徒の論理的理解力が問題なのではない。別の問題が、〈問題〉なのだ、と。重ねて言っておくが、校則には明確な意志もなく合理的な法理があるわけでもない。これは近年叫ばれる「道徳教育」の必要性という声にも通低する論理だ。だから、これは近代化、つまり資本主義化が関係として徹底してビルトインされない限り消えることはないだろう。
自立するシステムへの転換
近代化、資本主義化が徹底される、というのが、抽象的すぎるならこう言い換えてみたい。それは生徒サイドに対していうなら、そんなに校則がいやなら学校をよせばいいではないかと徹底して(!)いうシステム=契約関係をいう。書面できっちりと確認し、それにもとることが本当に秩序紊乱に値するなら、高校側は訴訟を最終手段として迫っていくということだと言っていいだろう。そして、高校側に対していうなら、生徒の方が、こんな校則がある学校はいやだ、と言って去ったとき、当然その分のお金はいっさい入らない、退学時点までの経費を差し引いた全額を返金する(今のように県から給料をもらうということはできない)という構造である。そして、これに、今ある学校設立にかかわる規制を緩和し、予備校だろうが、塾だろうが、学校設立(既存の学校の買収をふくめ)が可能になる、という条件が加わる。これらの条件が構造として可能となるシステムだと考えてもらえばいい。
「いやなら、やめればいいではないか。来てくれと頼んだ覚えはない。」
この問いにきちんと今の生徒は答えられない。それを甘えているといっていもいいだろう。他方、教員サイドでいえば、生徒がいやだといって去ったところで収入には何の関係もない。これもまったく自立していない。お互いの関係はまったく非自立的である。こういう構造に、〈恭順おばけ〉はよく発酵するのである。家産制的支配という非自立的構造のなかの〈恭順〉というモラルが校則として現れているのである。
そう、校則を消すのは簡単である。
「学校設立の規制を緩和せよ」
「生徒に学校を選ばせろ」
「生徒の月謝で教員の給料を決めろ」
「法=契約的規制のみを外的規制の規準とせよ」
実はこれで終わりなのである。
これが実施されたとき、多分「人権」の法としての校則だけが残る。そして意味のない〈年寄り〉と意味のない校則が消える。
官僚制的支配の場合には、制定された規範が、具体的な権力保有者が具体的な命令を発布することを正当づけている。ところが、家父長制的支配にあっては、ヘルにたいする人格的服属がヘルによって制定された諸規則の正当性を保障しているのである。これは官僚制的支配が制定された規範にもとづいているのと対照的である。(マックス・ウェーバー)
伝統的支配の純粋型にあっては、法とか行政上の原則を、法規によってあらたに意図的に「つくりだす」ことは、不可能である。だから、事実上の創造は、昔から通用してきたものとして、また「不文法」によって承認されてはじめて、正当化されうるにすぎない。(マックス・ウェーバー)
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>本質を言えといわれたら、文字通りその社会の長老が>〈恣意的〉に今の〈若い者〉に「気にくわねえ」と思>うことが心がけという形で表記されているものなので>ある。
ご意見に賛成します。
わたしは学校をやめたあと、フリースクールや登校拒否の親の会を通じて、地元で制服ではなく標準服で義務教育に通っている子の親の会の人たちや、神戸や愛知で丸刈り・おかっぱ強制に反対しているグループとつきあった経験があります。
結局、あの規則だか慣習だかわからないものは、校長の世代の10代のイメージを世代錯誤におしつけていたんだと思います。要するに、生徒は、村長の自尊心のお守りをやらされているのだと思う。それはムカついて気持ち悪くて当然でしょう。
恭順については、隠れカリキュラムという話がありますね。たとえば未来学者のA・トフラーが「第三の波」(NHK出版)で述べていたのですが、近代の義務教育は、表向きは読み・書き・そろばんと、簡単な地歴を教える。ところが、ウラのカリキュラムがある。①時間厳守 ②先生や上司など上の言う事に従う ③ガマンづよさ この3つを養うことこそ、学校教育の真の機能なのだ、といったようなことを書いてあります。それが、Ⅰ 農耕・牧畜 Ⅱ 工業 Ⅲ 情報 の3つの文明の波のなかの第二の波、すなわち産業革命以降の工場やオフィスの労働者に求められる素質だったからだ、とトフラーは整理しています。
さらに、彼のいう第三の波、つまり情報革命の世の中では、コンピューターの発展により、大量生産が多品種少量生産になり、みなが同時に動くということも少なくなると、未来社会をかなり明るく描いてみせました。
第三の波といっても、コンピューターを作るのは工場ですし、一部の情報生産職につく人以外はこれまでどおりの性質が欲求されているように思います。リストラや雇用の不安定化などマイナスの要素も出てきました。それでも、学校に行けば行くほど従順な羊のような人間ができあがり、以前の個性や魅力が消されていくように思いますが、どうでしょうか? (一部の例外はあるものとして)
木村さんのブログは、半分学校の中にいながら、半分は学校の外にいる人が立てているブログみたいな感じがします。定時制にお勤めだと、働いている生徒が外の風を運んでくれるからでしょうか? まだエントリーを全部見たわけではないのですが、面白い、いいブログだと思います。