頭髪検査を実施する自動車学校
自動車学校にも未成年は通う。しかし、自動車学校で頭髪検査はしない。自我が目覚める中学から高校に通う未成年に学校は頭髪検査を行う。金髪が通う自動車学校などというものがしかし、話題にはならない。なぜ、自動車学校は頭髪などかまわないのだろうか。逆に、どうして中学や高等学校は頭髪指導などをおこなうのだろうか。
自動車学校並みになれ、というのが、私の現在の学校教育への最大のメッセージだ。そう、自動車学校並みにさえ現在の学校はなっていない。27年もこの業界にいて、つくづく思うのだ。自動車学校並みにさえなれていない。
自動車学校並みとはどういうことか、というと、目的がこんなに明確なところもない、ということだ。自動車学校へ行って、サボろうという人間がどのくらいいるだろうか。自動車学校へ行って、何のために行っているのか不明という人間がどのくらいいるだろうか。
運転したい
これだけでたくさんではないか。自動車学校はこんな単純な論理と情念で成り立っている。
もう一度確認するが、自動車学校には、暴力団の方もいらっしゃるだろう、だから、どうこうということを私たちは耳にしたことがあるだろうか?自動車学校に通う高校生の中にトウモロコシのような頭髪が仮にいたとして、それが問題になったことがあるだろうか?
金髪の東京大学生
偏差値が大変高い金髪に染めている高校生がいたとしよう。彼は品行方正である。礼儀も正しい。しかし、金髪だ。頭もいい。
さて、そのうえで問うのだ。
「金髪の何が悪いか?」
ああ、そうそう、彼はね、音楽にも通じている。スポーツも万能で、サッカーで全国大会へ出場・・・
で「金髪」
なんだ。どこが悪いのだ。
そんなやつは・・いない、というだろうか?
私は、そのとき、こう答える。
「じゃあ、そういう高校生を育てようではないか!」
そうだ。これが、あぶり出ないように頭髪指導は行われるのだ。
金髪を肯定し、しかも、社会に受容されるようにできない、できそこないの教師どもがふりかざすのが、頭髪検査である。頭髪検査を熱心に行う熱心度と授業への教材準備の時間は逆比例というのが、鉄の法則だ。
抑圧という機制
フロイトを読むと、「抑圧」というキイワードに直面する。容易に理解できない難しい概念である。フロイトは、私たちの通常の意識を「神経症」と考えている。神経症でない人間はいない。つまり、何がしかの情念が抑圧される。そうした葛藤としてフロイトは私たちの心理の深層をとらえている。
頭髪を染めるということは表層の意識が行う行為である。頭が悪い人間は、その行為を不正と認め、ただそれをパブロフの犬のように規制する。フロイトは、就眠儀礼を例にあげている。寝るときにある種の儀礼をおこなわないと寝付けない。枕を整えるだの、スリッパの位置をきちんとするだのということだ。洗浄儀礼も有名だ。手が擦り切れるまで洗うのだ。それで不安が抑制されるのだ。北野たけしの首振りチックも有名だ。そうした行為の一つに頭髪のトウモロコシを考えればいいのだ。
手を洗っていなければ不安で仕方がない人間の手を取り上げて、水を止めて何になるかを考えたまえ、問題はそこではない、とフロイトはいうのだ。その行為で抑圧してしまいたい何かが意識に現れたとき人間は不可避にその行為へと駆り立てられるのだ。
抵抗という機制
もう一つフロイトの重要なタームに「抵抗」がある。後期フロイトを理解するのにはこの二つの概念は絶対に理解することが必要だ。フロイトはこのようにいう。神経症の患者は治癒に至る過程で、必ず抵抗する。治癒することを妨げようとするというのだ。奇妙な話である。
病気が好きなの?
だ。そうよ、好きなのさ。フロイトはこう断定する。人間は健康が好きというわけでは必ずしもない。
患者は治療が進むと、医師に嫌われることをしだすというのだ。あるいは色仕掛けだね。とにかく治療行為が進まないようにするのだ。
頭髪で指導されるというのは聞こえがいい。実質は教師との不快なバトルが待っている。教師が嫌うことをする、これが実は頭髪違反の実質なのだ。目的は注意されることにある。学校嫌いになることにあるのだ。教師は、頭の悪い教師は、それに乗る。まんまと乗るのだ。頭髪違反者は目的を達する。学校から離れるように指導され、学校嫌いが促進する。そのことで、いらぬ努力をしない方便を手にすることになるのだ。教師の悪口をいい。気に食わねえといい、ちょっとした教師の権力の逸脱を口実になお反抗する。教師とのいたちごっこをする・・・きりがないのでこのあたりにする。いずれも、学校からの逃亡の口実だ。こうして学校嫌いを堂々と行う。
教師の深層
頭髪検査はもちろん教師によって必要悪にせよ、必要であり正義である、として実行される。学校の評判のためだの。しかし、ここを正しいとし、道徳的に頭髪違反をつつくことで教師はいくつもの隠ぺいが可能になる。
その一つが
学校は自動車学校にさえ遠く及ばない機関だ、
ということだ。その努力もしたくない、という本心だ。
面倒くせえ
のだ。そんなこと。そうだ、学校は目的という神が不在である。ニヒリズムの場所である。ニヒリズムに似合うのが、ニーチェ張りにいえば、ルサンチマンだ、ということになる。恨みだ。
「教師のいうことをきかない」
という真実、いや露骨にいってしまえ、
「相手にされていない」
という現実、目的も意味もない空っぽな空疎、これが学校である、という現実。
目的喪失、
ニーチェばりにいえば、
神の死
この隠ぺいを教師も生徒もいっしょになって必至に行っている。それが、その醜い盆踊りが頭髪検査である。
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