
実は山田太一はけっこう不倫を題材にしている。一方で、「ありきたり」な生活を描きながら、その生活を否定的にとらえ、その向こうを志向する物語を書いているが、その一つの物語の形式として不倫という男女の営みを描いている。それは、問題作『岸辺のアルバム』だけではない。挙げていたらキリがないくらいだ。その典型のようなセリフが『シャツの店』という作品の中の人物の語りの中に現れている。
宇本「気味悪いですよねえ」
由子「はっ?」
宇本「警戒されるのも無理ないです。自分でもなんか薄気味悪いです。」
由子「いえ」
宇本「奥さんに恋をしているんです」
由子「そんなあ」
宇本「で、でも家庭を壊すとか、そんな気はありません。ただ、奥さんに恋をして、私にはそういうことがとても自分には必要なんだってことが身に染みてわかりました。あんな家庭でもきょうまでの歴史ってもんがありますし、壊してどうとでもなれていう気にはなれません」
由子「あたし、そういうお話・・」
宇本「壊して一人になってずっと暮らしていく勇気もない」
由子「あの、困ります」
宇本「ただ、あの暮らしと会社と、それだけでは息が詰まる。端的に言って潤いが欲しい。なんかこう詩のようなものが欲しい。そうでないとなんか急にひどく乱暴なことをしてしまいそうです」
由子「私・・」
宇本「いや、聞いてくれるだけでいいんです。聞いてくれるだけでいいんです」
・・・・・・・・・
宇本「綺麗で、品があって、匂うように美しいと思って、恋をしちゃいました。いつかあの、ほんとに話すだけでもいいですから、だれも内緒でどこかで逢えたらって思います。恋なんてものをこの歳でできるなんて思ってませんでした。この頃、あの、このドアを階段のところから見ているだけで、ドキドキします。今にも空いて、空いて奥さんに逢えるんじゃないかって。二階で寝ていると、(ああ下に奥さんがいるんだなあ)って、ぽうっと幸せなような気がしたり」
由子「おうちの方の身になったら」
宇本「そりゃあ、女房には悪いけど」
由子「そうです」
宇本「許してもらいたい。私には今言ったようになんか詩のようなものを、恋とかそういったものがとても必要です。そうでないと息が詰まってしまう。私のようなものがこんなことを言うのは滑稽だし、自分でもよくわかってますけども、奥さんのお陰で恋をしています。恋ができる自分を喜んでいる」
これは余談だが、山田太一は、八千草薫に不倫感情を持っていたフシがある、と邪推している(笑)。エッセイでそのことを何気に書いている。売れっ子シナリオライターの特権だね。八千草薫ファンの私としては、きわめてうらやましい話だが。
さて、それはともかく、この物語の人物の宇本をとおして、このように語らせている。
「ただ、あの暮らしと会社と、それだけでは息が詰まる」
もう少し私の文脈で補うと、ありきたりな家庭と会社の往復では息が詰まる。ありきたりな生活が自分を窒息をさせてしまっている。そう宇本をして語らせている。だから、
「綺麗で、品があって、匂うように美しい」
由子に恋をしている。それは、「女房には悪い」ことはわかっている。大げさに言えば反倫理的行為であることはわかっている。だから「ほんとに話すだけでもいいですから、だれも内緒でどこかで逢えたら」と思っているのだ。ちなみに、このシーンはドアが締め切りになっているし、息子の秀一(佐藤浩市)が帰宅してきてから、二人の挙動が明らかにぎこちないのだが、そこに二人の〈密会のやましさ〉が表現されている。
お尋ねするが、あなたはこのシーンを見て、「みだら」(よくマスコミで教員が生徒児童に対して行った行為を形容する定番の形容詞だが)なシーンだと思われるだろうか。いやしくも国営放送NHKが放送しているのだ(笑)。わかるなあ、くらい言っても、その発言が反倫理的とはならないだろう。むしろ、ごく自然にこのシーンを受け入れないだろうか。〈ありきたりな生活の反復〉のなかから自然と噴出する〈不倫願望〉!フロイト的に言うなら、タナトスとエロスの葛藤とでもいうのだろうか。
ここで、こう問いたい。何故私たちはありきたりな生活の向こうとして、不倫を望むのだろうか。もちろん、これは一般論といっているわけではないので、そういう生のあり方がある、ということだが、だとして、どうして私たちは不倫感情に、「潤い」を感じ、「なんか詩のようなものを、恋とかそういったものがとても必要」だと考え、「恋ができる自分を喜んで」しまうのだろうか。
そして何より、「世間」はこれを糾弾し、どうしてこうもこのありきたりからの脱出の足を引っ張るのだろうか(笑)。
いいじゃないか、玉木!
いいじゃないか宮沢!
とはいわず、とたんに〈ばっちい〉ものを見るような目で見るではないか!









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