
通常しかし、だれもこの「ありきたり」に地獄の苦しみを感ずることなどないのではないだろうか。お前はありきたりだ、いや、端的に
「お前はつまらない。言ってること、なしてること全部平凡でつまんねえ」
といわれても、その言葉の不快感はあるかもしれないが、ありきたりな自分に苦しむことは通常ないのではないか。それが言いすぎならこう言ってみればいいか。人と会って話題がない、気づまりするとか、面白いことが言えない、と言って悩むことはあるだろう。それが小さいことだとは言わない。そのことで異性に付き合いを断られたらそれは深刻だ。が、しかし、特別個性を自分に感じることがなく、ありきたりな人生を生きていることが深刻な悩みになるなどということは通常ないだろう。どうせ、みんなそんなもんだよ、と言い訳し、案外それですんでしまう。このように、ありきたりな人生という〈病〉は無意識に進行し、我が事としてそのことと深刻に直面するなどということはない。というより、私的に言わせてもらうと、この社会では、この〈病〉に気づかせない何かの〈力〉が私たちに働いているように思えてならないのだ。
山田太一はさらに、沢田竜彦に次のように語らせ、ありきたりな生が〈魂の衰弱〉を惹起するという。
竜彦「俺は、カメラが商売でね」
和彦「カメラを売ってるってこと(ですか?)」
竜彦「いや、撮る方だ」
和彦「ええ」
竜彦「随分フィルム使って、よく撮ったよ」
和彦「はあ」
竜彦「手あたり次第撮ったといってもいい。いっつもこう、カメラ三台ほど肩から提げてね」
和彦「(うなずく)」
竜彦「光線がいいと撮り、人間が面白くて撮り、犬も撮り猫も撮り、ビルも撮りゃあ、車も撮り、酔っぱらいも撮り、ヤクザも撮り、頼まれてモデルも撮り、なにを見てもあんた、この角度で、この絞りでこのレンズで行きゃあ、いけるなんてことばかり頭にある」
和彦「ええ」
竜彦「ものを見ても人を見ても、光線とレンズと角度で、この絞りで、このレンズと角度なんてことが、すぐ頭をかけ巡る。こう撮りゃあ、絵になると思う。面白い、と思う。受ける、と思う」
和彦「ええ」
竜彦「朝から晩まで、あっちへ行っちゃあ撮り、こっち行っちゃあ撮り、次々といろんなものに向き合っちゃあ、撮りまくる」
和彦「(うなずく)」
竜彦「フッと気が付く」
和彦「ええ 」
竜彦「物でも人でもじっくり見たことがない」
和彦「・・・」
竜彦「たとえば、この枝と向き合う(と枯枝を拾ってかかげる)すると、たちまち、こうやって、こっちからとったらどうか?いやあ、こうやって、ここからとった方がいい、というように頭が働く。そして、バシャリバシャリと撮りまくる」
和彦「・・・」
竜彦「撮り終えると終わりだ(と枯枝を捨てる)もう枯枝のことは忘れて、他に目をやっている。ほんとうに枯枝をじっくりみることがない」
和彦「(うなずく)」
竜彦「人でも物でも、本当には見ていない」
和彦「(うなずく)」
竜彦「そういうことが続くと、どうなるか分かるかい?」
和彦「いえ」
竜彦「胸ン中からっぽになるのさ」
和彦「・・・」
竜彦「魂がうつろになるんだ」
和彦「・・・」
竜彦「なにかを、心から好きになるなんて事もなくなっちまう」
和彦「(うなずく)」
〈感動〉することは誰しもある。しかし、それが長続きしない。いろいろやり散らして一向にものにならない。根気がない。ちょっとした感動はある。よし、とやってみる。しかし、どれもこれもじきに飽きてしまう。〈感動しつづける〉ことはなかなかできることではない。そして、私たちはそのことの意味を深く考えようとはしない。
沢田竜彦はプロのカメラマンだ。彼の場合は少し違う。夢中になって写真を撮っていた。撮り続けてきた。あの角度がいいねえ。この光の加減がいいねえ。と、撮り続けてきた。しかし、対象を心からの感動を込めてみることがなくなっていった。
忙しがってはいても、忙しいだけで心は空っぽであることに気づく。これは、対人関係でも同じだ。そして、ある日気付くのだ。一人になって、時間ができて、自由になって、やることがない。どれもつまらない。心を何かに注ぎ続けることが出来ない。繰り返すが、この〈病〉は激しい痛みを伴うことがまれだ。通常、こんなもんだろうな、人生は、と思う。あくびをし、伸びをして終わりだ。忙しさがある形式になる。形式を追求する。形としての結果が気になる。しかし、自分が働きかけている対象へは心からの関心を寄せていない。ありきたりな形式に、熱をあげているだけで、肝心の自分の行為にも、自分が働きかけている対象にも大した関心を持っていない。カネがはいっているんだ。給料をもらっているんだ。そこそこ受けているんだ。数字が上がっているんだ。形としての、結果としてのありきたりが毎日を支配していく。もちろん、そんなに結果を出すのは容易ではない。苦労はある。大体、忙しい。大変なんだ。気を使い、チェックをし、・・・・。言い訳はいくらでもできる。
くどいようだが、私には、どうも、この社会では、この〈ありきたりという病〉に気づかせない何かの〈力〉が私たちに働いているように思えてならないのだ。その何かの力を私たちは通常深く追求しない。いや、これまでの言い方で言おう。追及させない何かがあるのではないか。






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