
山田太一『早春スケッチブック』はありきたりを嫌悪する沢田竜彦というキャラクターをとおして物語が展開してゆくのだが、その沢田竜彦の生き様を一貫して貫いているのが、「死の受容」という姿勢だ。まわりはこう言うのだ。
「腫瘍を放っておくなんて馬鹿げている」
「そりゃあ、見えてる間見ていたいって気持ちもわかるけど、手術したって絶対に失明するってもんじゃないし」
「目は、なおせばなおるかもしれないし、スランプは一時的なものかもしれないわ。それを勝手に見切りをつけて、自分を憐れんで、私にも同情しろっていうの。かわいそうな自分にうっとりなんかしてないで、さっさと病院へ行きなさい。出来ることをやってから、見切りをつけなさい」
こうした声に見方によっては拗ねるかのような反発の態度を示して、決然として死を受容しようとする。
物語からいくつかのシーンをご紹介する。
《竜彦「面倒な視神経の腫瘍だ。手術をすれば、腫瘍はとれても99パーセント失明しちまう」
明美「しないかもしれないわ。腫瘍もとれ、目も大丈夫で、万事うまくゆく可能性だってあるわ」
竜彦「転移もなくな」
明美「そうよ。転移の心配するなんてバカげてるわ。なに迷うことがあるの?大体、ほっとけば、三か月かそらで、見えなくなるのよ」
竜彦「明後日手術すれば、明後日見えなくなる」
明美「その代わり、命はたすかるわ。ほっとけば命も危ないのよ!」
竜彦「命がありゃあいいってもんじゃねえ!」
明美「死んじゃえば元も子もないでしょう」
竜彦「三か月は見ていられんだ。この世の中を三か月は見てられる」
明美「そのあとはどうなるの?」
竜彦「死んじまうのさ」
明美「バカなこと言わないで」
竜彦「なにがバカだ。長生きするだけが能じゃねえ。誰もが一日でも長く生きてェとヒーヒー願ってると思ったら大間違いだ。見るだけ見て、もう生きてんのはそれで沢山てェ人間だって、この世 にはいるのよ!」》
《竜彦「死なずにすまそうと、やれることは何でもやって、あげくに負けて死んで行くなんてのは嫌なんだ。生きるか死ぬかを選べるうちに、ちゃんと選んで、ジタバタしねえで、死んでやるんだ」》
俺は堂々と死を受け入れるのだ。誰もがヒイヒイ長生きしてえと思ったら大間違いだ!こう豪語し、視神経を侵す腫瘍を放置する姿はすごみさえある。ある人は、そうそうハイデガーだね、と連想するかもしれない。ドイツの哲学者ハイデガーは、『存在と時間』という長大な著作の中で死から起因する〈良心の呼び声der Ruf des Gewissens〉を強調する。死が私たちに声なき声として、良心の目覚めを突きつけるのだ、というのだ。ともかく、沢田竜彦をとおして、山田太一は〈死〉がなんらかの覚醒を私たちにもたらすことを暗示している。それはわからないではない。
しかし、沢田竜彦は決して堂々と死を受け入れることができるわけではない。見苦しくもオロオロしながら、あるときは、死に怯えて失禁し、あるときは、家の片隅で泣きながら死の恐怖に打ち震えるのだ。死は怖いのだ。もちろん、その怖さをだれも直前まで実感できない。
がん細胞が自らの身体を蝕むまで、戦争で銃をもち、戦場にたち、弾丸大砲の球が飛び交い、自らに死が襲い掛かるまで、多分人はそうそう簡単には死の恐怖を覚えないだろう。
それにしても、ありきたりな生き様への嫌悪と死を受け入れるという極端とはどのようにつながるのだろうか。「バカは死ななきゃ治らない」という言葉を私たちは知っているが、死ぬのは嫌ではないか?この連環はまたのちに考えてみたいと思う。






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