
山田太一は、『早春スケッチブック』という問題作のなかで、「ありきたり」を憎み、侮蔑し、攻撃する人間を描いている。
竜彦「(電車の音、消えて)ありきたりな」
和彦「(和彦に向いて)ありきたりなことをいうな」
竜彦「お前らは骨の髄まで、ありきたりだ(湯呑みをぶつける)」
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竜彦「(静かに)病気はなおしゃあいいのか?長生きはすりゃあするほどいいのか?」
竜彦「(一つ湯呑みを投げつけたあと)そうはいかねえ。身体が丈夫だって、長生きしたって、なんにもならねえ奴はいくらでもいる。何かを、誰かを、深く愛することもなく、何に対しても 心からの関心を抱くことが出来ず、ただ飯をくらい、予定をこなし、習慣ばかりで一日をうめ、下らねえ自分を軽蔑することもできず、俺が生きててなにが悪いとひらき直り、魂は一ワットの光もねえ。そんな奴が長生きしたって、なんになる?そんな奴が病気治したって、なんになる?」(84)
私は、生徒や学生の頃、教員の授業のありきたりさをNHK高校教育講座みたいなどと形容し、つまらなさにちょっとした抵抗をしていたように思える。居眠り、内職、隣の席の友人と話をするなどなど。
そして、私も40年ほど高校の教員を商売にしてきたが、自分がいざ教員になったとき、自分の中のありきたりさを憎み、攻撃し続けるはめになった。自分のありきたりな言動、授業の展開をなんとかしようとして、どうにもできず、見苦しくジタバタしている自分を嫌悪していた。同様の悩みを持っていた数学担当の同僚のS(彼はその後この仕事を辞した)が
「授業がはじまるとき、教室の窓から突然現れたら生徒は驚くかなあ」
「いやあ、そんなこんじゃダメでしょ、血だらけで現れたら驚くかもしれないけど(笑)」
などとしょうもないことを語ったことがあった。それくらい、ありきたりな授業を聞かされている生徒の姿に、そう、〈恐怖〉していたのだった。だから、受講生が私の高校生時代と同様の抵抗をしている姿を目の当たりにし、注意をするのを憚られてしまうのだった。まあ、ひるむんですよ。
さて、話題を戻そう。さらに激しく、この作品の主人公の沢田竜彦は「ありきたり」を攻撃する。いくつかのシーンを紹介しよう。
竜彦「ああいう連中は、本当には生きていないという気がしていた。幸せだと思ったり、真面目に生きていると思ったり、自分をいい人間だと思ったりしている。しかし、本当に幸せかといえば、ただ自分の中の不幸を見ないふりをしているだけ。真面目に生きているつもりが、実は成り行きで生きている、他のことをする活力がないだけ。いい人間のつもりが、流れからはずれた奴には平然と冷たかったりする。そういうことにあの頃は敏感だった。」
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竜彦「あんたが子供を可愛がる柄かい?」
都「可愛がったわ。立派に育てて、その子にあなたは会いたがったんでしょう?」
竜彦「立派に育てたか。仕様がなしに育てたんだろうが」
都「なぜ、そんな言い方をするの?」
竜彦「本当だからさ」
都「どうして分かるの?」
竜彦「俺はあんたを知っている。赤ん坊を抱きたくて子供をうむなんてェ女じゃない。もっと自分中心の女だよ」
都「よくも、そんな」
竜彦「亭主と子供と幸せに暮らしているだと?」
都「なにが悪いの?」
竜彦「掃除して洗濯して飯つくって、退屈な亭主と暮らして幸せなわけないじゃないか」
都「幸せだわ」
竜彦「だったら自分をごまかしているんだ。思い込もうといしているんだ!」
都「バカ気てるわ二度と、和彦に逢わないで頂戴」
竜彦「もしあんたが、自由に生きてたら、おそらくいまの十倍は綺麗だろうぜ」
都「どいて」
竜彦「亭主への不満、子供やカネの心配、退屈、ヒステリーが顔にこびりついてる」






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