バカの着地
「バカ」を、
「勉強をすることをあきらめた人間」
と、こう定義をしましょう。
なぜ、バカは勉強をすることをあきらめたのか。もちろん、無駄だからです。人間は無駄なことはしません。バカは自分が勉強することが意味のないことだと知っている人間だと定義してもよいと思います。
もちろん、バカが勉強しないのはもう一つ重要な理由があります。勉強してできなかったとき、本当のバカだということが「バレ」るのを回避するためです。この本当にバカだということがばれることを
〈バカの着地〉
といいましょう。本当にバカだと着地して確認したくない、いつまでも宙ぶらりんでいたい、これが勉強しないもう一つの重要な理由です。
バカの刺青(いれずみ)
しかし、それにしても日本社会はバカがバカであるといういわば〈バカの着地〉がなかなかなされない社会です。着地したとたん〈バカの刺青〉が浮き出ます。まわりは思うでしょう。
「そうか!あんたバカだったの!」
だから、授業中、絶対発言しないのです。うっかり発言して〈バカの刺青〉を他人に見せないために。
あいまいな日本における、あいまいなあきらめ
日本社会ははっきりバカに引導をわたしません。だから、いつまでたっても、〈着地〉しないのです。しかし、あいまいにバカにあきらめさせるのです。それが高校全入です。あきらかにみんなあそこは「バカ学校」とみているのです。しかし、はっきりとはそれをさせない、しかし当人たちはとうのむかしに自分をあきらめているのです。ここが難しいのです。
失敗を認めること、出来の悪かったことを認めること、ここから次が出てきます。ところが、日本社会はそれができません。学校はまったくそのシステムが破綻しているわけです。
「いいじゃねえか、これは失敗だった」
ここからはじめる勇気も、自分の誇りもないんだろうな、と僕は思っています。
小学校1年生がわかっていてもいいんだよ、わからないことがあっても。そこからはじめればいいことじゃねえか。これがきかないところが、問題なんです。それはもう、失敗が取り返しがつかないと思わせてしまっているからなのではないでしょうか。
教育社会学者の苅谷剛彦は「大衆教育社会」という表現で、日本の学校の平等神話を描きました(苅谷剛彦『大衆教育社会のゆくえ』中公新書)が、そのなかで、1970年以降、日本の学校社会は平等神話のもと実質的に存在する「不平等」を見ないようにしてきたととらえています。僕にはその神話と、格差に怯える事態との関係がいまひとつわかりません。もちろん、「平等神話」は学校における「村社会」の完成なのです。しかし、格差はあるのです。それも厳然とあるのです。この同居を解くことこれが問題なのです。
「バカ」にとっての、資本主義社会日本における「夢=成功物語」とは?
僕にはこれが解けません。だから、僕の経済の授業はつまらないのです。なぜ、とけないのか?つまり、実は日本の社会は「出来レース」なんです。なのに、それをちゃんとしめさないからです。それなのに、みんなその事実をなんとなく知っているんです。〈バカの生殺し〉ですよ。これって。ひでえ話しです。
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「バカ」を、
「勉強をすることをあきらめた人間」
と、こう定義をしましょう。
なぜ、バカは勉強をすることをあきらめたのか。もちろん、無駄だからです。人間は無駄なことはしません。バカは自分が勉強することが意味のないことだと知っている人間だと定義してもよいと思います。
もちろん、バカが勉強しないのはもう一つ重要な理由があります。勉強してできなかったとき、本当のバカだということが「バレ」るのを回避するためです。この本当にバカだということがばれることを
〈バカの着地〉
といいましょう。本当にバカだと着地して確認したくない、いつまでも宙ぶらりんでいたい、これが勉強しないもう一つの重要な理由です。
バカの刺青(いれずみ)
しかし、それにしても日本社会はバカがバカであるといういわば〈バカの着地〉がなかなかなされない社会です。着地したとたん〈バカの刺青〉が浮き出ます。まわりは思うでしょう。
「そうか!あんたバカだったの!」
だから、授業中、絶対発言しないのです。うっかり発言して〈バカの刺青〉を他人に見せないために。
あいまいな日本における、あいまいなあきらめ
日本社会ははっきりバカに引導をわたしません。だから、いつまでたっても、〈着地〉しないのです。しかし、あいまいにバカにあきらめさせるのです。それが高校全入です。あきらかにみんなあそこは「バカ学校」とみているのです。しかし、はっきりとはそれをさせない、しかし当人たちはとうのむかしに自分をあきらめているのです。ここが難しいのです。
失敗を認めること、出来の悪かったことを認めること、ここから次が出てきます。ところが、日本社会はそれができません。学校はまったくそのシステムが破綻しているわけです。
「いいじゃねえか、これは失敗だった」
ここからはじめる勇気も、自分の誇りもないんだろうな、と僕は思っています。
小学校1年生がわかっていてもいいんだよ、わからないことがあっても。そこからはじめればいいことじゃねえか。これがきかないところが、問題なんです。それはもう、失敗が取り返しがつかないと思わせてしまっているからなのではないでしょうか。
教育社会学者の苅谷剛彦は「大衆教育社会」という表現で、日本の学校の平等神話を描きました(苅谷剛彦『大衆教育社会のゆくえ』中公新書)が、そのなかで、1970年以降、日本の学校社会は平等神話のもと実質的に存在する「不平等」を見ないようにしてきたととらえています。僕にはその神話と、格差に怯える事態との関係がいまひとつわかりません。もちろん、「平等神話」は学校における「村社会」の完成なのです。しかし、格差はあるのです。それも厳然とあるのです。この同居を解くことこれが問題なのです。
「バカ」にとっての、資本主義社会日本における「夢=成功物語」とは?
僕にはこれが解けません。だから、僕の経済の授業はつまらないのです。なぜ、とけないのか?つまり、実は日本の社会は「出来レース」なんです。なのに、それをちゃんとしめさないからです。それなのに、みんなその事実をなんとなく知っているんです。〈バカの生殺し〉ですよ。これって。ひでえ話しです。
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