ゴンドラに反映する指示と不支持
何の番組か忘れてしまいましたが、こういうテレビの番組がありました。5・6人の回答者がゴンドラに乗っています。で、そのなかには、ピー子がいたり、立川談志がいるんですが、何かのお題を司会がこのパネラーの人たちに投げるんですね。で、彼らが回答するんです。そのとき、会場にいる視聴者がその意見に賛成をするとボタンを押すんですね。で、それは、逆もあって、支持しないときも、ボタンを押すんです。支持があがるとゴンドラが上がり、不支持が広がるとゴンドラが下がるんです。そうすると、わかるわけです。自分の意見が受けているかどうか、が。
このゴンドラは意味深長ですね。どうも、私たちの学校社会にはこのゴンドラがないように思えます。だから、何か意見を表明しても、一体ウケているかウケてないのか、わからないのです。というより、ウケなくても滔々とナルシスに酔いながら、発言する人間が登場するのです。この人間をとりあえず、
「空気を読めない人」
と呼ぶことにしましょう。ウケるかウケないかという問いが存在しない人間、つまり、他者が存在しない人間、しかも、他者はゴンドラを落としたくて仕方がない。このような状況が意味するものが大切です。
いじめという必要悪
私たちの学校社会には、こういう意見を淘汰する、それも自然の中で淘汰する。あるいは、当人が恥もかかず、そして、淘汰する側も恨みもなく、憎しみもなく、淘汰するというシステムを知りません。
そして、その代わりに、増幅させ続けるのがたびたび登場する
「ルサンチマン」
です。フロイトは投射という概念を私たちに提供しています。自らがなしたいが、自らがなせない、そして、自らがなされるだろう否定を他人に見るのです。そして、攻撃するのです。その攻撃こそまぎれもないルサンチマンです。
自分がしたい、しかし、なせない、こともあろうにそういう行為を空気を読めない発言として滔々としやがるのだ!
そこには、嫉妬と自己嫌悪がないまぜになり、共同体的ガマンを強いる構造があるばかりなのです。そして、ガマンの限界を超えたとき
「ムカツク」
「うぜえ」
「なまいき」
というあらゆる不正義の口実が編み出され、次の段階に一斉攻撃がはじまるのです。
いじめは、必要悪以外のなにものでもありません。いじめをたんに外から規制することは不可能です。それは、彼らの世界の正義を形成しているからです。
空気を読めない人間の表現の自由
空気を読めない人間の発言をどう考えたらよいのでしょうか?
彼らの自由を認めることは、彼らの発言を聞かされる側にとっては、ガマン以外の何物でもありません。もちろん、現在は、必要悪としてのいじめが絶えず発動されるようになっています。それは程度の違いがあるだけです。日本共同体での必要悪としてのいじめはしかし絶えず、発言を抑制する規制として働くのです。したがって、基本的には自分から発言しない。
ものいえば、唇寒し秋の空
なんです。もっとも人権とはかけ離れたところからこの問題をみると、まず、ゴンドラが見える形で発言するという仕組みを作る必要があるのです。ところが、おそらくその仕組みをつくることをもっとも毛嫌いしているのが、空気を読めない発言の大御所、つまり、先生なんです。おそらく、空気を読むという発言が飛び交う空間を作ったとき、先生はその無力をさらすことになります。というより、そのようなしくみをつくる能力がないということです。先生こそが空気を読めない発言を繰り返す張本人なんだから。
現在は、したがって、きわめて不健康な制裁が表現の自由を抑制する問題として存在しています。そして、それは、表現の自由を抑制する側を制裁することを、正義としてなしえない、という、すくなくとも見て見ぬふりをせざるを得ない構造が存在するということなのです。
空気を読めない発言を抑制せよ!
これがなしえないのであれば、大多数の人間がガマンすることになるのだ!
このルサンチマンの地獄が、閉塞した状況を形成するのです。
私は憲法の「精神の自由」で学校における表現の自由を問題にします。しかし、表現の自由を抑制するという側に立たなかったならば、この空気を読めない人間の表現の自由については、現状では、いかんともなしえないのです。
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教員は授業の中で多人数の人間の静聴という代価に見合うだけの面白く、興味深く、あぁ聞いてよかったなと思える話をしなければならないのです
実際はそれが出来ていないというかそれだけ多種多様の人間が皆興味をもって聞いてよかったと思える話をするのは困難です
ですから静聴に見合うだけの利益を得られなかったったと思う者がケータイをいじったり眠ったりというささやかなブーイングを送るのです
そこにはうっすらとではあるものの木村さんのいうゴンドラがあるのです
ですから教員は授業中寝るなだとかケータイさわるなだとかゴンドラを消すための抗議をするのですねたぶん
多種多様なら難しいけど同じ趣向を持った者が集まっている空間ではかなり皆が興味を持ち満足出来る話をする事が容易になりますね。
せっかく授業を選択出来るシステムがあるならもっと有効活用しなきゃですよねそういう意味でもニッチフォーラムの活動って役に立てないのですか?
その空気が読めない人間が自宅で一人でテレビのその番組を見ながら司会者のだすお題に対して一人言のように答えている分には何の問題もありません
つまり空気の読めない人間がその他大衆と同じ教室に居ることが問題なのです
彼がいかにナルシスに酔いながら発言していようと周囲に他者が居なければいいのです
つまり隔離するのです
いや言い方が悪いので彼の表現の自由を侵害しようとする者達から保護してあげるのですといいましょう
そうすれば空気の読めない人間により我慢させられてきた大衆の不満もとりのぞけ
空気の読めない人間もいじめという恐怖に脅える事なく自由に表現出来る。
そもそも多種多様な人間を何の区別もなく同じ檻に入れている事が問題で、いじめなんていうのは起こるべくして起こったとしか言えんのです私に言わせれば。
■去年、Prompterさんと議論した内容で僕がすごくいまだに引きずっているのは、多分、あなたが言おうとしたことは、表現すると言うことは支配なのだ、ということだったのではないか、と思っているのです。あるいはね、〈支配への意思表示〉ですね。それは、つまり、〈ケンカを売る〉ってことにもなるのではないかしら。■僕は、なぜ、教室空間に複数の見知らぬ人が同一の教員の授業を聞かなければいけないのか、という正統性が少しわからなくなっています。あなたが書かれたように、木村の授業がいいといってあつまれば、そこに、お互いの共通の志向が存在し、コミュニケーションする意味がありそうにもみえるのです。その点、学年制・ホームルーム一斉授業は絶望的ですね。見ず知らずの人間たちが、何の共通点もなく、そして、聞きたくもない授業を聞いている。■そのときに、たとえ、共通の志向があっても、やはりそこで受講生が表現することが、空気を読めることになるという保証はないわけです。で、一人がいい気持ちで他の人たちには関係ないナルシスをはじめる可能性がたえずあるわけです。その際に、他の人たちはガマンさせられるわけです。それを支配に対して服従すると考えていいとおもいますね。そうすると、あなたが書いたような結論になるわけですね。するとですよ、通信制が理想ってなってしまうんです。でもね、それは、あなたは不満だったかもしれないけど、たとえば、山内さんはま、会話としては面白い人だったとか、山本さんとか、植松さんはまあ、とか、そういう出会いの可能性までつぶれてしまうわけです。そのあたりをどうかんがえたらよいのでしょうねえ。それから、次に僕がコンテストという題で書いた文章のコメントがあったらおしえてください。ま、よかったらですが。こういうことを踏まえて書いたつもりなのですが。ま、「1,2」くらいまででも。