差別/被差別の同時性
もちろん、そこには、差別が存在するからです。差別は、何も、教科書の中にだけ存在するわけではありません。エタ、ヒニンは歴史上の存在ではないのです。今なお差別は存在するのです。
私たちはバカということで何を恐れているのでしょうか?
一体、どのような差別がそこに存在すると考えているのでしょうか?
実は、私たちの歴史は差別を地下に潜らせ、しかも存在させ続けるという二層構造になっているということをここでは指摘しておきたいと思います。私たちは自分たちが差別をしたいと無意識の地平で考えているからこそ、自分がされるのではないか、と恐れるのです。いえ、それは逆かも知れませんね。自分がされたからこそ、自分も差別をしたい、その願望が、あるからこそ、また差別されるのではないか、と恐れるのです。
優越感も劣等感もない世界など考えられない、とみなさんはきっと深く深く骨身に沁みているんじゃないでしょうか?それが授業中にわからないことができたときに、堂々と
「わかりません、教えてください」
といえない原因なのではないでしょうか?
実は友人など一人もいないという現実
もう一つ、この事実が突きつける深刻な現実を指摘しておきます。
「わからない」
と教室でいえないもう一つの理由は、「バカの着地」がなされ「バカの刺青」が白日の下になったとき、みなさんは、その時点でだれも自分の味方となり、自分を支えてくれないのだ、と確信しているのではないでしょうか。すべてのまわりの人間は、その時点で差別の側に立ってゆくのだ、と確信しているのです。そのあまりの確信の強さこそが、わからないという事実を沈黙させていくのです。
「わからない」
「そうか、じゃあいっしょに考えようよ」
と友だちがいったとき、その時点でもはや、友だちは、友だちではないのだ。そこには、薄いが確実に自分とは違う世界に住む住人であるという戸籍簿が作成され、自分の戸籍には「」と記入されてしまうのだ。そして、どうあがいてもその事実は消えない。
「どうってことはないよ」
と友だちはいう。それは、あくまで「できる側」からみた話なのだ。
ちがう。バカだとわかったとたんに、友だちは一人として自分の味方にはならないのだ。この確信の深さ、その絶望的深さは、当人たちにはどうしようもないのです。そこに社会的身分としての、あるいは人種的差別に通底する生まれつきの差別の原因としてのバカが存在するのです。
いえ、そう考えているからこそ、私たちは沈黙という手段を考案したのだ、とはいえないでしょうか?被差別民が差別民と平和的に同居する手段こそが、沈黙だったのではないでしょうか?
最新の画像[もっと見る]