なぜ、「わからない」と言えないのか
数日前、私は「平等権」の授業でこのような展開をしました。これは明らかに差別だ、と断った上で、このようにみなさんに説明したのです。
「read」
という単語を書きました。そして、この過去形を聞きました。
「何ていうの?」
少し、きつめの、明らかに、これができないようじゃ、中学校1年生だよ、的な態度で。
ある生徒は、沈黙していました。
「いいよ、じゃあ次の人?」
・・・・・
「ああ、そうそう、じゃあ、この過去分詞型は何かな?」
そこに、重苦しい沈黙が流れたのです。何で
「知りません」
っていわないのだろうか?なぜ、
「知りません」って いえないのであろうか?
自分がバカであるということを私たちは極端に恐れますね。その引きつりは病的です。私はこの前このパソコン社会の弊害と自らの老いによるボケで、
「敵」
という字が授業中浮かんでこなかったんです。
それを教員だからというので、隠すことを私がしたとしよう。それは、何を意味するのでしょうか?
バカの着地
授業中のみなさんの沈黙やら間違いを恐れる原因をここに求めると僕はしっくりくるように思えるのです。自分がバカだという発覚、これを
「バカの着地」
って呼びたいと思います。自分がバカだったと世間様に白日の下にさらされ、知れてしまう事態、事実として露見してしまう事態、これを「バカの着地」と呼びたいのです。
とすると、私たちは、この「バカの着地」を極端に恐れ、宙ぶらりんでいたいと考えているのではないでしょうか?
そして、その恐れは何に原因しているかというと、
「バカ」
は明らかに差別の対象であり、自分がバカだと発覚すると、私たちは差別される、そう私たちは考えているからではないか、と僕は考えているのです。
バカの刺青
みなさんは、服を着ています。しかし、その服の下に実は、刺青(いれずみ)を入れているのです。それをひた隠しに隠して生活しています。友人にも、よほどのことがない限りその事実を告白できないのです。しかし、ある日、とうとうその刺青の存在が白日の下に晒される日、つまり、
「バカの着地」
が来るのです。
それにしても、私たちはなぜバカの着地を恐れるのでしょうか?
一体、バカの刺青が白日の下に晒されると何が起こると私たちは恐れているのでしょうか?
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