高校公民Blog

高校の公民科(現代社会・政治経済・倫理)教育に関連したBlogです

御三家の民営化

2006-08-27 23:26:30 | 学校の呪術
御三家が年寄りの佃煮なわけ 

  静岡県の高等学校御三家(実は、御四家になってしまうが)といえば、浜松北高校(静岡県西部)、静岡高校(静岡県中部)、、そして沼津東・韮山高校(静岡県東部)、である。しかし、この御三家は教員仲間では年寄りの佃煮校として有名であり、入ったらなかなかこの年寄りが出て行かないことで知られる。中には進学校以外はいやだとぬかし、こういう学校を渡り歩いている馬鹿野郎もいる。生徒は激烈な競争をしている。その影で年寄りが佃煮にするほど存在し、次から次とこの予備軍の年寄りがあとをたたないという状況である。情報公開がもっとすすめばいったい何年、年寄りが居座り、動こうとしないか。希望している人間の平均年齢がどれだけ高いか、わかろうというものである。それにしてもどうしてこうも年寄りが佃煮のように集まってくるのであろうか。生徒は激烈な受験戦争に明け暮れているというのに?
 結論は簡単で「楽」だからだ。そして、ここに所属することが出世街道の振り出し口になるということなのだ。生徒は確かに「いい学校」だからこれらの学校を選んでくる。そして、そのなかで激しい受験競争を繰りひろげている。しかし、教員については、これらの超進学校ではまったく競争がない。確かにいい生徒がこれらの超進学校へと入ってくる。しかも、生徒は自分で切磋琢磨する。受験はある意味では技術である。早い話が、自分である程度学習してしまうのである。あるいは、あるものは塾や予備校へと通い、そこで学習の足りないところを補う。いずれにしも、高校の先生に大きな期待はしていない。いい生徒を集める努力などこうした学校ではいらない。中学以前に、いわば半ば計画的に送られてくる。そして、入っても手間はかからない。手間がかかるような業務、たとえば部活動などは〈若い人〉にまわす。当然、年寄りにとってはこの上もない「楽」な学校として写る。実は、生徒から必要とされていないとも知らず、年寄りはこういう学校に〈佃煮して〉くるのである。

生徒はれ容れ物のためにきているのです、先生を求めてではありません

 言うまでもないことながら、超進学校へ生徒がいくのは「学校」がいいからで、別に「先生」を選んでの結果ではない。実際、私は聞いたことがない。生徒が「・・先生」がいるから「・・高校」を選ぶなどということを。それでは「学校がいい」とはどういうことか、早い話が「いい生徒」が希望してきているということである。
 むしろ、そういう意味で講師をもとめて彼らが通うのは、予備校であったり、塾であるのだ。だから、予備校で授業を受け、一定の国家試験をとおったら高卒として認定するというのなら、おそらく今の高校へは授業を受けるために生徒は行かないだろう。生徒は教員を求めてではなく、明らかに「優秀」の証明を入ることで果たし、なおそこで切磋琢磨する〈環境〉を求めているだけなのである。

民営化が可能な学校

 いまと全く同じ状況と考えて、これらの学校の民営化ということを考えてみよう。これらの進学校は募集定員をうわまわる応募が毎年なされている。第一に、卒業生もそうそうたるものである。後援会組織、つまり、ボランティア組織もしっかりしている。ならば、官にたよらず、民営化してみればいいのである。需給関係からいえば、もう少し、授業料等あげられるだろう。なにより、民営化すれば財政負担が軽減される。
 まだまだいいことがある。民営化すれば、放漫経営は許されなくなる。効率を求めることになる。つまり、先生も〈生徒並み〉になる。今の超進学校の先生は生徒に選ばれていない。授業の工夫など、一回授業が回ってしまえば、それっきりのもんである。しかし、前章で述べたように進学校の生徒は受験という外部世界を十分背負っている。ただ媚を売ったり、サービスに明け暮れる教員ではお話にならない状況を彼らは背にしているのである。つまり、十分、いいものを見る目を養わざるを得ない状況にあるのである。
 生徒に、君たちにも教員を選ぶ権利があるよ、と言ったら彼らは何というだろうか。多分、こう言うだろう。
 「いや、僕らは先生に何の期待もしてませんでした。だって、選べないんですもの。でも、選べるとなれば話は別です。今だってお断りしたい先生はいっぱいいます。いいんですね、選んでも」

進学校なら生徒が選べる

 民営化というのは極論だとしようか。しかし、生徒が教員を選ぶ、という民営化一歩手前の制度は十分今の超進学校なら可能である。これがかなえられれば教員は――受験の知識に問題があることを前提にしても――はじめて、教科を教科本位で問われることになる。たとえば、高校生という存在にとってもっとも効率よく「世界史」を身につけるとは何なのか。こういう問いに真剣に取り組まなければならなくなる。「学力」というものをみつめ、どうすれば知識を生徒はすすんで学習するようになるか、研究することになる。生徒は選ぶであろう。つまり、退場すべき教員をはっきりと明示するであろう。かれらも外部としての〈合否〉にさらされているのだら。だからこそ、じっと教員を見、何が本当に合否につながるのか、自己責任において、決断することになるだろう。そこではじめて教員も生徒も教科を生き方として対等に問われることになる。もちろん今のシステムはこの裏返しである。

駿台予備校のK師――教養本意の授業の成立する可能性

 私は二年浪人したが、終わりの一年を駿台予備校ですごした。当時、東京大学にもっとも多くの受験生を合格に導いた予備校だった。大体、入学するのが大変であり、下手な国立大学に入れる程度では入れないなどということが言われていた。
 その駿台予備校では、講師を最後の「師」を名前につけて呼ぶのがならわしであったが、日本史の「K師」はあることで有名な講師であった。茨城大学の助教授ということであったが、とにかく「おもしろい」というのである。
 私は偶然、K師の授業が割り当てられた。本当に寿司詰とはこのことだ、という机にぎっちり詰め込まれた(要するに、ニセ学生を含めて〈超満員!!〉)教室へK師は入ってきた。いきなり、タテ書きで、毛筆のようなタッチでデカデカと「点と線」書いたのを覚えている。
 「今年は、(松本)清張のむこうをはって「点と線」でいきます。」というのだった。要するに、歴史を飛び飛びの点を重点的に講義し、間は飛ばすということだった。因みに、彼、「織田信長論」をやり、一気に300年を飛び、「幕末」からはじめたのである。
 おもしろかった!実際。講談とも落語ともつかないその語りもおもしろかったが、内容も歴史がドラマのように展開され、人間の業を、あるいは運命の悲劇を語っていたのだ、と思う。しかし、問題はそこにあるのではない。私が言いたいのは、受験生のニーズとして、知識がもっている本物の興味・関心にたいする需要は確実に存在する、ということなのだ。はっきり言って、受験にどこまでこの授業が対応しているかといえば、していない、といっていいだろう。ここは大事だといって、試験にでるといって線でも引かせる、という指導は一切しない。しかし、歴史のダイナミズムは伝わるのだ。ある日、私のとなりにいつもの人間(指定席なので)ではない生徒がいた
「あんた、いつもの人じゃないねえ」
「うん、このおっちゃんおもろいでなあ、いつも来てるんや、俺、地理だけど」と笑って言ったその調子と、関西弁が脳裏に残った。
 私は進学校には知的な興味関心の飢えを、おそらく他のレベルの学校では想定できない高さと広さで存在することを認める。法律を勉強したいから、とか、経済を勉強したいから、とか、という理由をウソでも進学者はつけるではないか。そのことについての、本当の知的刺激があれば、彼らはそれを吸収する。いや、私の少ない経験で言えば、少なくとも1年生の段階での彼らは、知的な興味関心をある深さにおいて、それもある広がりの層として享受する能力をもった生徒たちなのだ。ここに、私が
「進学校では本物の教養が市場にさらされても生き残る、今の大学教授のような体たらくでなく、本物ならね」という根拠がある。「レッスンプロ!」の存在である。私はこう豪語する。
「大学教授さんたちは、私より深い見識があるかもしれない。しかし、私は『倫理』の授業をやって彼らの大抵の人間たちと競っても、生徒の需要を獲得することにおいて、負ける気がしない。私は顧客のニーズの研究は彼らの比でなく、してきているから!」

先生は県からかねをもらっているのです

 アダムスミスが『国富論』で大学教育を批判し、上から給料を教員がもらっているのがいけないという指摘をしていることは有名である。私はそうと知らず『国富論』を読み、ずいぶんとスミスが憤りをこめてこの記述をしているのに、驚いたのを覚えている。いずこでも同じなのだろうか。お上から金をもらえば、客に目は向かない。だから、下からゼニをとる。この同義語反復のような表現からしかおそらく今の教育の活性化、現実直視の姿勢はでてこない。今の学校ではそれが進学校でさえ、教員が真剣に教科を研究し、どうすれば教育校効果があがるのか、研究する姿はない。大体、教科の話などまじめに交わされることはない。大体、大体だ、超進学校は〈出世街道振出口〉であり、「教頭」「校長」「県教育委員会」と〈上を向いて〉歩きすぎて、首が腱鞘炎(!)になっている、人間であふれているのだ。
「〈下=生徒〉はついで!」こういう御仁であふれているのだ!
 さて、しかし、実際に民営化が御三家でおきたとしてみよう。その暁には大挙して〈年寄り〉の大移動が見られるだろう。映画『ラストエンペラー』のなかで、紫禁城を追われる宦官たちが自らの大事なものが入った壺を持って紫禁城を後にするシーンが思い出された。

もし各カレッジでチューター指導私教師、つまり、個々の学生にすべての人文諸学や科学を指導することになっている教師を、その学生のほうでだれにつくかを自由に選ぶのでなく、カレッジの長のほうから割り当ててくることになっており、また、もしその指導私教師に怠慢、無能、あるいは不適当な取り扱いがあったときにも、まず許可を求めて認められぬかぎり、学生はその私教師からほかの指導私教師に代わってつくのを許されないことになっているとすれば、こういう規則は、同じカレッジのなかのそれぞれの指導私教師間の一切の競争を絶滅する傾きがうんと強いだけでなく、かれら全員にわたって、勉励する必要と、各自受持ちの生徒に気を配る必要とを大いに減ずる傾きがあろう。(アダム・スミス)


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2 コメント

コメント日が  古い順  |   新しい順
Unknown (教員志望の大学生)
2006-08-29 11:42:49
「もう一度採用試験を!」と「御三家の民営化」を読んで考えさせられたことがあります。それは「何故高校までの先生は1つの学校でだけ教えているのか」という疑問です。



昨日講師のアルバイトをしている塾の夏期講習が終わりました。この塾では教科別専門指導システムを採用しており、講師は複数教科を担当しないことになっています。その代わり、あちこちの教室に教えに行くことになります。一方、私がその前に講師をしていた塾では、複数の教科を担当しました。その代わり、勤務先は1つの教室だけでした。どちらがより良い授業を提供することが出来たと言えば、生徒のアンケートの結果を見る限り、明らかに前者です。



そこで、学校でこういうことは出来ないのかと考えてしまいました。例えば、地理の専任教員の場合、校務分掌がある以上、本務校はある。そこでは担任も持つ。しかし、同じ高校で片手間に日本史や世界史を教える代わりに、違う学校に出向いてやはり地理を教える。そうすれば、教員は地理だけに専念出来るのではないか、と。



塾の講師に限らず、大学でも専任教員が他大学に教えに行くということをしているし、出来ないことはないのではないかと今の私は考えるのですが、そのことを許さない事情などはあるのでしょうか。
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重大なお尋ね (木村正司)
2006-08-30 10:02:35
教員志望の大学生さんへ

■コメントありがとうございます。秋入試があり余裕の無い毎日をすごしていました。お申し越しの件はきわめて重大な問題です。少し大げさに言えば私の25年のこの仕事のテーマはお尋ねの件に尽きるといってもいいくらいです。野球部の顧問をやってどうやってまともな「現代社会」の授業ができるのだ。この問いの抹殺、機能や、効率を消すものの正体こそ私がCATEGORY「学校の呪術」にエントリイしているすべてだといっていいと思います。■私は中根千枝という学者が1964年(ですよ!)書いた「タテ社会」という構造がいまもって有効にこの問を抹殺していると思っています。この前近代的構造がなぜ、消えないのか、どのようにして存続していっているのか?そういう角度から私の全文章をお読みいただいて結構だと思います。
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