高校公民Blog

高校の公民科(現代社会・政治経済・倫理)教育に関連したBlogです

奇妙な激烈――もっと競争を 

2009-08-06 22:11:12 | 学校の呪術

先生の偏差値を公表しよう

 受験競争が激烈だといわれる。確かに生徒も忙しい。教員も忙しい。朝補習、放課後補習、小テスト、採点、長期休業中も合宿補講・・・。しかし、この忙しさが奇妙なのである。私の印象では〈ただ忙しい〉のである。もっと言うなら〈忙しそう〉ならばいいのである。競争は効率である。いかに効率を上げるか。しかし、この効率からすると、およそ考えもつかないことが進学校では行われている。この文章ではそうした奇妙な競争の舞台裏を書いてみたい。 
 進学校は偏差値の世界である。私はそれはそれで――受験システムに大きな問題があることを認めた上で――機能としては合理的な側面を多くもつと考えている。非進学校の教員の教科へのとりくみや評価に対する姿勢はひどいものである。要するに恣意が支配する世界である。その点、点数という外に現れた事実をベースにしようというのだからまだよいのである。ただ、教壇という一段高いところに立つとある事実を「先生たち」は忘れてゆく。それは、もっと偏差値が高かったら教員にはなっていなかっただろうという事実であり、そこまでの偏差値をとったことがなかった人間が「先生」になっているという事実である。それも、どうして地方の教員になっているか。地方で食べるには他にないのだ。少ない選択肢のなかから教員になっているのである。学習塾のキャッチで講師の出身大学を出しているものを見る。一つの説得力にはなるだろう。東大に入った――出たことは大したことはない!――ということは、入るための受験勉強をしたということだ。その人間が語るのなら聞いてもみよう、それは自然だ。それが、法政大学出ました、静大出ました、ならまだいいが、国士館出ました、帝京出ましたでは説得力にはならないだろう。その程度の現役の人間に教わったんではその程度の能力のことしか身につかない、そう考えるのが自然である。父母の皆さんはまず調べるべきである。息子や娘が教わっている教員の出た大学を、或いは学校側が本当にその気があったら、公表すべきだろう。そうすれば生徒は選ぶだろう。「この程度の学校へ入るにはこの教員の言うことをきけばいいか」と。ここで困ることが一つ発生する。早稲田・慶応・東大・京大――こういうところに標準を当てている人間だ。教員の世界では余程の物好きでなければ、このレベルはいない。「そんなとこ出て、何で教員になったの?」の世界なのだ。

先生も競争せよ!――生徒の偏差値平均+受講者の人数=給料

 私は教員も忙しいのだと書いた。確かに、朝補習あり、放課後補習あり、小テスト、や定期的に行われる実力テストや中間期末試験の採点やらで殆ど英語・数学・国語の教員は採点マシーンである。とくに、英語や国語は文章化されたものの採点なので大変である。そして、長期休業中も合宿補講・・・。しかし、この激烈は奇妙である。それは教員の忙しさには〈競争〉が存在しないということである。テストとは何か、などという素人っぽいことは言いたくないが、授業がどれだけ定着したかというリトマス試験紙という面がある。私たちはその効率のもっとも高いシステムとして競争システムを考えてきた。受験、受験と言い、よりよい進学実績をというのであれば、教員にも競争原理を適用しそうなものである。いや少なくとも、何の指導がどう意味があったのか、なかったのか、この人の指導は問題があるのか、ないのか――こうした問いに客観的なデータをもとに評価しようとしてもよさそうなものである。現実は、そんなことはまったくない。最も過激な進学指導推進派の人でもそういう発想は採らない。
 生徒に学期ごとに教員の選択権を与える、その猶予期間は2週間あるいは10時間としよう。その間に自分にあった、或いは彼らがいいと評価する教員を選ぶ。そして、それぞれ集まった生徒の中間・期末・実力という試験の平均点の高い教員を公表する。そして、その平均点で査定する。つまり、成績のいい生徒が選んだ教員がいい教員だというのが偏差値らしい基準ではないか。少なくも、機械的に模試だ模試だという英数などはそうすればいい。理科や社会は科目の性格上収容人数も加味すべきだろう。 
 こういうシステムにすると何が変わるか。 
 まず、①教員が個々ばらばらになるだろう。あいつと俺は共同体などという甘い連帯が切れるだろう。②授業に熱心になるだろう。殿様商売では生徒は来ない。ただ、ただ朝・放課後補習をやれば生徒が来るのでもない。大体、放課後は部活、土曜も日曜も部活という「非勤務」が放り投げられるだろう。そんな暇があれば、何をしなければいけないか!③何より教員が自分の結果に責任を負うようになる。結果が気になるだろう。

裏返しとしての現実――恣意・無責任・横並び

 今、学校は「履修即習得」というシステムを変えようとしている。要するに受けた授業を全部合格しなくてもいいということである。つまり、赤点をとったり、履修時間が足りなくなってもある一定の時間数までは認める。つまり、ある科目数までは落としても卒業できるという方向になってきている。とたんに脅える声がする。
「じゃあ、体育の時間に運動場へ生徒が来なかったらどうするんです?」
「数学が嫌いな子は全然やりませんよ。授業中何やってても・・・」 
 この発言のとき、私が何を考えていたかおわかりだろうか。その直後、いつもは配線がつながっていない校長が私の代弁をした。
「それを聞かせるのがプロというものです」 
 この会話は現実の裏返しである。いまは、プロではないのである。では何なのか?この回答に「殿様」という回答を用意された方は、私の授業は「優」である。
 日本の社会は近代社会ではない。私が最初に、進学校で教員の出身大学を公表する、ということを書いた。これも、現実の裏返しである。こんなことは実際にはありえない。ありえないことによって何が隠蔽されているか。それは、教員の能力の客観的データである。進学校においては一体どのような力量が必要とされるのか――進学校の教員がもっとも怠けている考察はこれである。一方で、生徒のための激烈が激烈におこなわれている。その影で、教員はその努力がいかにトンチンカンであっても、その能力を客観的な形での検証は一切なされない。なされないなかで、教員の個としての力量が隠蔽される。静岡高校で、韮山高校で、沼津東高校で教壇に立ち、「国士館出」なら努力するだろう。毎日、ネームプレイトをぶらさげているのである。いつも生徒はそれを見るのである。そうなれば教員は少なくも〈個として〉努力をするだろう。現実は、教員は不問。問い尋ねられる対象ではない。資格を商品として客=生徒に閲覧されていない。いっておくが進学校ではどこそこの大学院を出ましたなどという事実はどうでもいいのである。
 それから、生徒に選ばせた上で、その平均偏差値で給与を決めるということだが、これも全く現実のものではない。しかし、こういう設定をすることで何が隠蔽されているかがあぶりでてくる。それは前節の①から④までをひっくり返してみればいいのである。
 進学校の教員は熱心な教員同志は驚くほど和気あいあいである。個々の能力は、一緒に補習にとりくめば、同じという見方をしてもらえる。個として切り離されることがない共同体は差異を隠蔽する。管理職はもちろん、各教員も互いの授業はブラック・ボックスである。そこは平等原理である。誰もその効率を問わない。生徒に至っては「無礼打ち」である。そこから脱色されるのは、個としての力能の差異である。つまり、生徒に選ばせたら、その偏差値の合計で査定したら、というのは、少なくも授業という過程で〈学ぶ側が学びやすい〉という基準、それも〈効率を上げるには最も有益だ〉という基準が外へと刻み出されるはずである。
「わかんねえのか、こんなものも、立ってろ」
 これは通用しなくなる。そこから、聞かせる努力、向上させる努力を教員がしなければならなくなる。多様性も出てくるだろう。あまり学力のない生徒を自分は対象にしたいという教員はそうした学力の生徒というものを研究することになるだろう。いったい学力を効率よくつけるとは何なのか、研究することになる。現実はこの裏返しである。若い教員は放課後も、土日も部活。それで一体いつ教材研修をしているか。実際はしてない。年配教員同様、授業の合間にチョコチョコなのである。そのうえで、やったふりをしていれば通るのである。「しょうがねえよ、やつらできやしねえ」と舌打ちしながら。
 また、先程書いたように、何より個人の指導についての責任が明確になる。現実は全く不明確なのである。こうした、力能に対するいいかげんなどんぶり勘定が、進学校なのであり、多忙なのである。
 最後にもう一つ極めつけを書きたい。その地区の超進学校は〈年寄り天国〉である。年寄りが佃煮にするほど存在し、なかなか動こうとしない。「俺は進学校しかいかねえ」とぬかし、進学校回りをする〈年寄り〉もいる。下手をすると組合までがこういう既得権を守る側にまわる。一体これは何を意味するか。実は、これまで書いてきた多忙は 2番手の進学校や新設の高校にありがちな多忙なのである。超進学校ではほとんど勉強は生徒任せである。生徒は自分で勉強するから、くだらない補習などほとんどない(なにせ先生より頭がいいのだから、下手に手を加えてかえって・・・ということもある)。そして、自分の指導の責任はまったく問われない。私はこれまで〈年寄り〉が大きなツラができる社会は職能軽視の社会だと書いてきた。〈若い人〉に〈ババ〉を押しつける社会だと書いた。〈年寄り〉は何もしない社会だとも書いた。この事実と一部の教員の多忙の奇妙な同居の〈奇妙さ〉を消し去る力=呪術は競争システムをもってしても排除できない。それを〈非効率〉とも見なさせず、永遠に続けてゆこうとする。


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3 コメント

コメント日が  古い順  |   新しい順
後日、当方のウェブログの方で (ハラナ・タカマサ)
2005-08-12 21:48:23
コメントというか、論評を予定しております。

なにか、タブーに挑戦されているような、気迫を感じますね。

ちょっと、ゾクゾクする感じが、いいとおもいます。

では、また。
よろしく (木村正司)
2005-08-13 12:51:05
ハラナさんの批評は大変気になるのです。どのように〈分析〉されるのか、お待ちしたいと思います。なかなか理念型という意味が私の周りでは理解されません。理論は全体ではないのだ!
ちょっとズレるかも…… (ぱれいしあ)
2005-08-15 02:53:08
ちょっと話がズレるかもしれませんが、TBを書いてみました。うまくTBを貼れないので、リンクをつけときます。よかったら見てやってください。(ぱれいしあ はワタリの別名です。)

http://blog.goo.ne.jp/egrettagarzetta/e/ea9f442b33e471959b327cb91908b2ea

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