高校公民Blog

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到達度絶対評価 2 教科担当者の自己責任

2009-05-17 22:49:31 | 教育制度/行政

官僚制の無謬性と無責任性

  
一般に官僚制の問題として指摘されるのがこの二つの問題です。簡単に言うと、自分たちは間違えない、間違いを絶対認めない、という問題点と、無責任性、つまり、責任を取らないという点ですね。
 学校の先生も官僚制の末端です。この二つの問題は根深く存在します。授業を放棄し、授業をサボるという形で生徒が逃亡したとします。そのとき、あくまで、

逃亡した生徒

だけが責任を追及されるのです。先生の責任は、まず問われることはない。到達度絶対評価というシステムは、その責任を実は、学校の先生に問わせる制度なのです。

究極の到達度絶対評価

 
現在、高校卒業程度認定試験という制度を懸命に高等学校は、制度として学校の内部に入れないように努力しています。
 この高校卒業程度認定試験とは、文部科学省が作成する高校卒業程度の学力を認定するという文部科学省じきじきに運営している制度です。

高校卒業資格は、この試験に通ればよいのです、

と文部科学省が認定しようとしているのに、全国の高等学校は、この制度を前向きにうけとめていないのが一般的状況なのです。
 この制度が高等学校へ義務付けられたとき、おそらく教育改革でなく教育革命に近いものが起きます。
 そうです。

 この高校卒業程度認定試験を基礎学力の認定として制度化したとしましょう。
 もうひとつ、学校設立基準の規制緩和を大幅に実施したとしましょう。

 実際、文部科学省は、この学校設立の規制緩和は推進しています。何も既存の高等学校へいかなくてもよいのです。塾や、予備校、フリースクールでもよいのです。この試験に通るべく援助してくれると、それも生徒たちのために努力していると考える学校を生徒保護者は選択すればいいのです。

到達させる力があるのか?

 学校は、生徒保護者の選択のもと、この能力を問われるのです。そこに学校の選択肢が存在することを前提にしたとき、本気で学力を身につけさせることを保障させることを、公言し、しかも、達成させられなかった時には、もっと可能性があると思われる学校へと生徒保護者が逃げて行ってしまうのです。
 ここに到達度絶対評価の真の意味が現れるのです。
 選択制が機能していること、そして、外部の教員が計らうことができない機関がその提供している学力の質を検査するという外部検査システムが存在していること、この二つが重なったとき、教員はその責任を追及されることになるのです。

自分が教えて、自分が作った試験で、自分が評価できる、つまり、成績をどうとでもつけられる、などというシステムで、どうして、まじめな教育ができるんですか??

進学校の単位制高校化

 
現在、もっとも激烈に到達度絶対評価が実際に求められているのは、進学校です。進学校では、内部で授業を行った結果行う定期テストは、最終的には学力測定にはなりません。なぜか?
 だって、結局、各大学、あるいは、センター試験である水準に到達しなければ、意味がないからです。そこへ通るための本当の学力を、外部試験到達度絶対評価を、進学校の生徒は必要になります。全国の東京大学入試希望者のなかで自分はどのくらいの学力があるのか?そのための学力を測定してくれて、そのなかで勝ち抜くために到達しなければならない学力を真に授けてくれる授業者を望んでいるのです。
 ところが、大体において、進学校は学年制です。教員の競争もほとんどないのです。選択制がないのです。
 
「私は学力に自信のない人の英語力をアップします」
 
とたとえば公募するのです。そのときに、同様の趣旨の講師が複数存在するとします。そこに到達度絶対評価という外部試験が存在したとき、選択という行為が、教師の責任を追及することになるのです。

 どの先生の教え方が自分にあっているか?
 この先生は教え方がよくない。自分にあっていない。

 こうして、生徒の選択が、教員の評価を産み出していくのです。

「私は学力に自信のない人の英語力をアップします」 

 といって、実際効果を生む先生と産めない先生、ここに到達度が外部試験であることによる先生の責任を発生させるのです。
 これは、何も、入試だけではありません。教養科目も同様です。

「私の「倫理」はみなさんの人生を深く考えさせます、おもしろいよ!」

こう、コマーシャルして選択制の洗礼を受ける。すると、ここではじめて先生の教養が責任を、到達度の責任を問われることになるのです。

 実は、進学校の教員だろうが、そうでなかろうが、現在の学校制度では教員の責任は問われません。そして、学力が身につかないことはすべて生徒の自己責任となっています。そうです。現在、私を含めて指導力不足教員は現場ではさっぱりわからないのです。それは、指導者としての、到達責任が存在しないからです。外部試験、絶対評価、そして、選択制、この三つのなかから、生徒だけでなく教員の責任ははじめて問われることになるのです。

 私たちは、これから教育が真に受益者の利益のために存在するシステムとなるための条件としてこの到達度絶対評価がどの程度浸透していくかを見ていかなければいけません。そして、どうしたら、この制度が学校に深く深く入っていくのか、考えていかなければいけないのです。


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