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中流崩壊という封建制の崩壊 1

2006-08-29 20:49:48 | 社会時事

サムライという形式

 ずいぶんまえになるけど、民主党の(当時)国会対策委員長の渡部恒三と石原慎太郎東京都知事があいついで、メール問題で引責辞任した永田寿康議員に対し、「サムライ」という言葉を使ったり、切腹というような表現を使ってその進退に言及していました。

「やはり永田君もサムライだった」
「サムライらしく潔く辞任してもらいたい」

 そして、大変驚いたのですが、つい先日、郵政問題で自民党を追われた平沼赳夫元通産相が復党するのか、というインタビューにたいし

「私は自分をサムライだと思っている。こちらから跪いて許しを請うようにして戻るなどということはありえない」

旨の発言をしていたのです。もちろん、平沼氏の地元は平沼氏とともに離党し、このままでは参議院選挙を戦えないという自民党の弱みをふまえての発言としても、これらの発言は偶然ではないのです。議員にせよ、行政の役人にせよ、私たち教員にせよ、公的セクションに勤務している人間は、そのエトスを辿っていったとき、明治維新にたどり着くのです。明治維新は、けっして西洋のような市民革命、ブルジョア革命という段階を経て近代化にいたったわけではありません。江戸時代の下級武士による、政権奪取と考えた方が整理がつくのです。その後、日本社会は特段の革命をひきおこしていません。それどころか、小泉首相の後任と呼ばれる人たちをみるとわかるように、世襲制を強め、身分化が進んでいるのが実情です。私たちはだから、知らず知らずのうちに、江戸時代を反復していると考えた方が理解の中心を過たないのです。
 だから、永田議員のエトスとして、武士は百姓に責任を感じないというレベルの理解をまず適用してみる必要があると僕は思っているのです。行政も責任をとりません。そして、天下りも止むことなくつづいています。もちろん、そんなことはどこの国でもあるのでしょう。しかし、我が国の歴史をみてきたとき、その基本的な構造を江戸期の身分制に負っているという説明が可能となるということなのです。
 
稲作という形態

 丸山眞男はその著『日本政治思想史研究』において、作為と自然という対立概念を提起しました。
 稲作は、いったん稲の苗を植えてしまえば、基本的には自然に依存することになる。土地や、気候といった自然に依存することになります。そこでの灌漑作業を含め、自然環境の制御を関係行為の基本とした人間関係が関係の中心になるのです。ヘーゲル的にいうと、自然関係が人間関係を決めるわけです。人間が人為で関係をつくるのではなく、自然に規定されるわけです。
 それに対して、商工業はちがいます。いわゆる作為、つまり、人の手による労働に依存することになるわけです。この主体が政権に登場するとき、人為的な政策を評価し、時には人為的に政権を変えるという制度が機能するようになる、と丸山はいうのです。そして、その意味で日本の江戸時代から明治時代へかけては、たんなる自然の社会ではなかったというのが、丸山の見解なのです。
 しかし、そうはいっても日本の江戸期は、稲作をはじめとした自然に対する依存がつよく、したがって商工業の主体が時代の政権担当者として登場することはなかったと丸山は考えているのです。しかし、中国に比べ、日本社会は人為をもって政権を変革しようとする志向をつよくもっていると論ずるのです。
 しかし、考えてみましょう。私たちの大企業志向、公務員志向は何を意味するのでしょうか?まさに、高度産業資本主義という発展段階は、明治維新幕府、自民党幕府のサムライたちが、巨大な自然機構=田んぼとしての企業体を構築し、百姓を殺さぬよう、生かさぬよう収奪し、その平等な分配を果たしていた巨大マシーンだったと考えてはいけないでしょうか?
 江戸期はマックス・ウェーバーの指摘を待つまでもなく、純粋な封建制ではありません。封土が基本的に存在しません。みんなサラリーマンなのです。何々家に所属すること、すると、そこが田んぼとなるのです。あくまで、基本的に田んぼに依存するのです。だから、新撰組をよく考えてみる必要があると思いますね。いつの時代にも、日本社会は百姓にもチャンスを与えていたのです。それが、現在の受験システムだと考えていいんじゃないでしょうか?そこに生まれ変わりさえも用意していたのです。
 そうです。だから、私たちの社会の第一義的なリクルートシステムの駆動力は、いかに、収奪する側に回るか、であり、それが受験競争なのです。

中流崩壊

 したがって、中流崩壊を西洋のロジックで考えてはいけません。西洋はよくみると、自立と独立を最後の物語としています。経済の主体として、独立する、それが平等や、自由の前提なのです。起業し、独立する主体として主人とならなければ、賃金奴隷となる、という法則がヘーゲルをまつまでもなく、西洋にあるのです。そのときに、彼らは独立を普通に努力したらできるシステムを要求するのです。その要求する伝統は、まちがいなく、かつて独立であったというプライドに負うています。だから、チャンスの平等こそが重要なのです。奨学金制度や、社会保険という制度の基本はここにあります。
 しかし、日本社会は異なります。この間、不平等を強く主張しているのは、鈴木宗男や、亀井静香のような人たちです。つまり、ダーティなイメージのついた――現在は政権争いに敗れた(かつて自由民権運動!)――談合体質をもった人たち=サムライなのです。野中広務のような人もそうですね。彼らの基本は、実った稲の分配です。分配のなかで、おらが藩の家臣、百姓、町人を養っているんです。そこには、藩という家を擬制とした関係での依存関係が存在します。そこには、市場もない、いや、内部ではまったく市場化したり、競争化しない、しかし、海外というような外部とは敵対的なスタンスを取る、という形式、これがじつは、基本的な構造としてやってきたんです。
 中流崩壊とは、おもに、この依存関係にあった、地方、および中小企業の孫や曾孫受けの労働者、自営業者にいえるのです。それは、すべからく、依存関係なのです。


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