50代に川柳を数年やったことがある。
その縁で今でもときどき川柳雑誌が届く。最近、来たのが「川柳木馬」(第150/151合併号)と「銀河」(№201)である。
前者は発行人=清水かおり氏(土佐市)。後者は発行人=島田駱舟氏(松戸市)。
「川柳木馬」は「作家群像」で徳永怜氏を特集している。
60句をざーっと読んだが次の一句をのぞきほとんどの句に首を捻った。
その一句は、
湖は平たく言えばシーツです
これはい完璧にできていると思った。「平たく」を掛け言葉として使っていてうまい。「平たく言えば」という文脈であるとともに湖面の平らを滲ませている。こういう言葉の芸はうきうきする。川柳はこういう言葉遊びを俳句より気軽にできるジャンルだと思う。
ほかはよくわからない。
新家完司氏が「徳永怜川柳を読む」という評論を書いている。彼は以下のように括る。
[具象の力]
左手を添えてやさしくなる右手
ほどいてもあなたを記憶する毛糸
りんごむく地球のように傾けて
誰からも遠く林檎をひとつ買う
[独特の見つけ]
背びらきで私取りだすワンピース
月光の投網を打たれ動けない
一日に一錠海をのみなさい
裏起毛の声で寒さに耐えている
スプーンは涙のかたちして掬う
括るのは評論の基礎作業である。
左手と右手の演出は芸はあるのだが俳人にとってはこの情緒は甘い。「ほどいても」は無理やり抒情をつくろうとしている。「りんごむく」は幼稚。「誰からも遠く」は俳人からみればやや甘いが一番詩情がありのんでもいい。
背びらきは俳句にも類想がある。たとえば、蟬のように背が割れたとか、肩甲骨に天使の羽の痕があるとか。「月光の投網」は観念の遊び。海を飲むは読み手に中身を委ねすぎていないか。解釈の幅が広がりすぎないか。
「裏起毛の声」は感覚的で俳人好みではあるが字余りをなんとかしたい。「スプーンは涙のかたち」は俳句に頻出した「勾玉は涙の形」を思う。
時事川柳を仲間と認めず俳句、いや短歌的抒情を好む川柳人はかなりいて、この「川柳木馬」の意識は詩情の追求にある。時事川柳などの、穿ち、批判、当てこすりといった、ぼくから見て川柳の王道の要素を遠ざける。
詩情を目指すのはいいとして五七五みたいな半端な長さで短歌のような抒情を目指しても破綻する。これが多くの俳人の認識にて、季語の支援と文体の切れで一句を持たせようとするのだが、彼らは句の形に頓着しない。能天気で幸せだが危険である。
中途半端な言葉は仲間内しか通じない呪(まじな)いになってしまう。よって俳句より句についてたくさん語る必要があるわけである。呪いの解明のために。
「銀河」へは投句したことも選者として招かれたこともある。
この会は「印象吟句会」を謳っている。すなわち、すべて題詠で句をつくる。俳句ならその題は季語であったり、漢字であったりするが、彼らの題は物の映っている写真や絵絵画だったりする。
たとえば次のような絵である。
「渋谷・広尾小学校横の歩道」である。これを見て想像の翼を広げて句をつくる。
吉住義之助選
五客
盲導犬命をかけた地図を持ち 福島久子
頂上で別れた妻に手を振られ 茂呂美津
ロボカーがしり込みをする難コース 多田宏史
まっすぐに歩かなくても着く未来 岩崎能楽
競うこと止めた靴から老いていく 林マサ子
三光
目の前に敷かれた道は歩かない 永田吉文
秀才の地図は理屈も付いてくる 佐藤潤子
道草を食うおいしさを知るつくし 稲森あこ
「頂上で別れた妻」、「まっすぐに」、「競うこと」などはこの絵からよくイメージを広げたものだとは思う。「盲導犬」はやりすぎではないか。
「道草を食うおいしさを知るつくし」は穿ちがあって川柳的なひねりはある。みなさん、イマジネーションの拡散にかけるハートの熱さは感じる。
けれど、こうして題詠でできた句に独立性、普遍性といったものがあるのだろうか。一度じっくり題と関係なくこれらの句が立つことができているか、駱舟さんと話したい気がする。
一句はたとえば、駅の掲示板になんの注釈もなくあって、人の心を打つというのが本来だと思うのである。
川柳、俳句、短歌を問わず。
川柳は密林の呪いのように小生には不可解なところが多いのである。
その縁で今でもときどき川柳雑誌が届く。最近、来たのが「川柳木馬」(第150/151合併号)と「銀河」(№201)である。
前者は発行人=清水かおり氏(土佐市)。後者は発行人=島田駱舟氏(松戸市)。
「川柳木馬」は「作家群像」で徳永怜氏を特集している。
60句をざーっと読んだが次の一句をのぞきほとんどの句に首を捻った。
その一句は、
湖は平たく言えばシーツです
これはい完璧にできていると思った。「平たく」を掛け言葉として使っていてうまい。「平たく言えば」という文脈であるとともに湖面の平らを滲ませている。こういう言葉の芸はうきうきする。川柳はこういう言葉遊びを俳句より気軽にできるジャンルだと思う。
ほかはよくわからない。
新家完司氏が「徳永怜川柳を読む」という評論を書いている。彼は以下のように括る。
[具象の力]
左手を添えてやさしくなる右手
ほどいてもあなたを記憶する毛糸
りんごむく地球のように傾けて
誰からも遠く林檎をひとつ買う
[独特の見つけ]
背びらきで私取りだすワンピース
月光の投網を打たれ動けない
一日に一錠海をのみなさい
裏起毛の声で寒さに耐えている
スプーンは涙のかたちして掬う
括るのは評論の基礎作業である。
左手と右手の演出は芸はあるのだが俳人にとってはこの情緒は甘い。「ほどいても」は無理やり抒情をつくろうとしている。「りんごむく」は幼稚。「誰からも遠く」は俳人からみればやや甘いが一番詩情がありのんでもいい。
背びらきは俳句にも類想がある。たとえば、蟬のように背が割れたとか、肩甲骨に天使の羽の痕があるとか。「月光の投網」は観念の遊び。海を飲むは読み手に中身を委ねすぎていないか。解釈の幅が広がりすぎないか。
「裏起毛の声」は感覚的で俳人好みではあるが字余りをなんとかしたい。「スプーンは涙のかたち」は俳句に頻出した「勾玉は涙の形」を思う。
時事川柳を仲間と認めず俳句、いや短歌的抒情を好む川柳人はかなりいて、この「川柳木馬」の意識は詩情の追求にある。時事川柳などの、穿ち、批判、当てこすりといった、ぼくから見て川柳の王道の要素を遠ざける。
詩情を目指すのはいいとして五七五みたいな半端な長さで短歌のような抒情を目指しても破綻する。これが多くの俳人の認識にて、季語の支援と文体の切れで一句を持たせようとするのだが、彼らは句の形に頓着しない。能天気で幸せだが危険である。
中途半端な言葉は仲間内しか通じない呪(まじな)いになってしまう。よって俳句より句についてたくさん語る必要があるわけである。呪いの解明のために。
「銀河」へは投句したことも選者として招かれたこともある。
この会は「印象吟句会」を謳っている。すなわち、すべて題詠で句をつくる。俳句ならその題は季語であったり、漢字であったりするが、彼らの題は物の映っている写真や絵絵画だったりする。
たとえば次のような絵である。
「渋谷・広尾小学校横の歩道」である。これを見て想像の翼を広げて句をつくる。
吉住義之助選
五客
盲導犬命をかけた地図を持ち 福島久子
頂上で別れた妻に手を振られ 茂呂美津
ロボカーがしり込みをする難コース 多田宏史
まっすぐに歩かなくても着く未来 岩崎能楽
競うこと止めた靴から老いていく 林マサ子
三光
目の前に敷かれた道は歩かない 永田吉文
秀才の地図は理屈も付いてくる 佐藤潤子
道草を食うおいしさを知るつくし 稲森あこ
「頂上で別れた妻」、「まっすぐに」、「競うこと」などはこの絵からよくイメージを広げたものだとは思う。「盲導犬」はやりすぎではないか。
「道草を食うおいしさを知るつくし」は穿ちがあって川柳的なひねりはある。みなさん、イマジネーションの拡散にかけるハートの熱さは感じる。
けれど、こうして題詠でできた句に独立性、普遍性といったものがあるのだろうか。一度じっくり題と関係なくこれらの句が立つことができているか、駱舟さんと話したい気がする。
一句はたとえば、駅の掲示板になんの注釈もなくあって、人の心を打つというのが本来だと思うのである。
川柳、俳句、短歌を問わず。
川柳は密林の呪いのように小生には不可解なところが多いのである。
懐かしく拝見しました。
以下の句に惹かれました。
左手を添えてやさしくなる右手
りんごむく地球のように傾けて
スプーンは涙のかたちして掬う
第一生命が応募するサラリーマン川柳を
川柳だと勘違いいている人がいますが、
嘆かわしいですね。