心臓のごとき柘榴を手のひらに わたる
7月、当ブロブにコメントを書き込んだサチと30年ぶりに再会した。
30年前ハイティーンの華やぎさえあった女性は今や髪に白いものが混じる64歳、驚くことに某大病院のバリバリの心臓血管外科医になっていた。彼女が稀有の技術を有し数々の難易度の高い心臓手術により危ない命を数多救ってきた背景に、慶応大学医学部在籍中にアメリカへ5年留学して本場のバチスタ手術をマスターした実績がある。
この手術は、海堂尊の小説『チーム・バチスタの栄光』で話題になった。この小説の桐生先生並みの凄腕の女医は麻酔科部長から「姫」と、医局長から「ジャンヌ・ダルク」と呼ばれる心臓血管外科の救世主であり、この秋、副医局長に就任したという。
メールから判断して1週間に2度は心臓手術のメスを持つサチ。15時間もかかる手術もざらで、飲ます食わずでメスをふるい続けるスタミナと集中力に驚嘆するばかり。某テレビ番組のドクターXを意識して「私も失敗しません」と微笑む。
彼女は自分がかかわったオペの様子をメールで几帳面に小生に報告してくる。小生はその専門用語をネットで調べてかろうじておおよその内容を理解するていど。
術後どえらく疲労しているはずだが彼女はメールで報告することでオペの極度の緊張を解いているようである。
彼女からのメールのいくつかを許可を得てここに紹介する。題名は小生がつけた。
1)心タンポナーデを救う
サチです。
きのうよその病院へ出張した。午前9時からオペが始まり2時間で終了する予定であった。順調に進んでいたが、クランケが突如、心タンポナーデを発症した。
オペは何が起きるかわからない。このままではクランケの命が危ない。困難につぐ困難であったが私は絶対に諦めなかった。困難な時ほど冷静な判断と高度な技術力が要求される。
私は心嚢ドナレージ(余分の水分を排斥すること)を行い、ショック状態からクランケの命を救った。
当然オペの時間が長引いた。オペは15時間かかって無事終了。成功した。
オペのスタッフから「さすが天才外科医」と称えられた。
私が帰宅すると午前2時を過ぎていた。いつも4時起床なので寝られる時間はあまりなく、徹夜みたいな感じです。
今日も勤務なので頑張ります! 今日は自分の病院です。
心タンポナーデとは、心臓と心臓を覆う心外膜の間に液体が大量に貯留することによって心臓の拍動が阻害された状態。心不全に移行して死に至るため、早期の解除が必須である。
特に胸部外傷や大動脈解離の上行大動脈型等の大血管損傷が原因の場合、急速に死に至る可能性が高く、早期の診断と手術が必須であり、また手術に至った場合も救命率はきわめて低い。
2)血の海を始末する
サチです。
今日、入院患者のオペがありました。先輩の医師が今日のオペは簡単だから僕が執刀する、山田先生は第一助手に入ってください、と言う。
私は内心、先輩とはいえオペの少なく彼が不安だった。外科医はオペの数が物を言うのだ。
オペが始まった。
最初からしどろもどろでオペの時間が長すぎる。
そして大動脈の血管を傷つけた。太い血管を傷つけるなんて外科医としてあり得ないこと! 血は噴水のように吹き出しオペ室は血の海になった。
麻酔科の部長が「血圧急降下で危険」と叫ぶ。
私は執刀医に、「バカ、早く止血しろ! ショック死するぞ!」と叫んだ。
執刀医は出血している場所が見つからないと喚く。
私が執刀医になった。交代するかしかない。
先輩に「おまえは第3助手に回って吸引しろ」と叫んだ。
私はすぐ出血の部位を見つけて止血し、麻酔科に輸血を指示した。
異常を知らせるアラームは鳴りやみ麻酔科が「バイタルが正常に戻った」と叫ぶ。
私はオペを続けて2時間で終了した。
「姫、危なかったな。なんだあの執刀医は。もう一度、助手から勉強させた方がいいな。姫、よくカバーしたな、さすがだったよ」と言われた。
お昼時間になっていたので食べて今、帰宅しました。
バイタルとはバイタルサインのこと。からだの状態を示す基本的なサインのことで、脈拍、血圧、体温、サチュレーション(SpO2)など。
3)狭心症の母とその胎児を救う
サチです。
今日、病院に着いて医局で寛いでいたら
「山田副医局長、産婦人科からコンサルタントです」と連絡が入った。「幸子、助けて! 入院患者が狭心症の発作を起こして胎児が危ない」と。
電話に出ると愛だった。愛は産婦人科医、私は心臓血管外科医。親友で同期生です。
私はすぐにクランケの病室へ行ったら愛もいた。診察したらふつうの狭心症ではなく重度で、このままでは母体がもたない。愛に助ける方法は手術しかない、これから、緊急オペをする、と言った。
愛もオペ室に入って胎児をお願いと指示。
器械出しのナースにステントとカーテルをすぐ用意してと指示する。
愛も麻酔科の部長に胎児にも酸素を送ってと指示を飛ばす。
午前9時にオペを開始。
3時間かかり終了した。母子ともに元気で安堵した。
愛が私に抱き着いてきて「さすが幸子、ありがとう」と言った。
麻酔科の部長から「今回も完璧なオペだった」と言われた。
お昼を食べていま帰宅しました。
4)3%未満に挑む
サチです。
今日は早く美容院が終って今、帰宅しました。
実は明日、私が執刀する大変なオペが午前9時に始まる。
クランケは入院患者の計画オペです。病名は、大動脈解離スタンフォードB型。
成功率は3%未満。私は初めて失敗するかもです。
でも私は困難があればあるほど燃える。医学の常識を覆して見せる。
3%未満がなんだ!
3%以上のオペをすれば良いのだ。
私はパイオニアになる。
最後の最後まで絶対に諦めない。全身全霊を賭けてクランケの命を救うだけだ。
オペが終るのは、わたるが寝ている時間になる。
とにかく頑張ります!
サチです。
午前9時からオペが始まり深夜12時に終了し15時間かかりました。
激闘に次ぐ激闘でした。私は初めて3%未満の壁を突破して大成功に終わりました。
クランケはバイタルも落ち着いて元気に生きています。
麻酔科の部長が泣きながら「姫、やったな! 姫は誇れる天才血管外科医だ! 3%未満のクランケの命を救ってくれてありがとう」と、言ってくれた。
横浜が勝ったんだね。夢みたいだし、とにかく嬉しい。
今、帰宅しました。時計を見たら午前2時30分でした。
大動脈の壁はその内側から内膜、中膜、外膜の三層で構成されている。大動脈解離は中膜に亀裂が入り裂ける症状で、多くは内膜に入口となる亀裂が生じる。解離する大動脈の部位によりスタンフォードA型とB型に分類される。上行大動脈に解離がある場合、A型。上行大動脈に解離がない場合、B型。
手術の学習ための心臓模型
5)愛先生の憂鬱
サチです。
今日の私のオペの後、愛は午後から中絶手術をすると言っていた。クランケはなんと小学6年生で相手も同じクラスの男の子。初めてのセックスで妊娠したらしいです。
「まだ子どもなんだよ。子どもどうしでセックスして妊娠したんだよ」と愛が嘆く。「好きでもなく好奇心だけでセックスして妊娠したんだと」と。
出産の経験がないと子宮口が堅く中絶手術は大変らしい。
小学生でも生理があれば妊娠はする。考えさせられるクランケだなあ。やるせない症例です。
愛は「こういうクランケは辛い」と嘆いていました。愛は、しっかり性教育をしないとダメ。女性は受け身だからそういう犠牲を受けてしまう。この子に愛は精神的なケアをしていくらしいです。
6)倒れてもオペはします
サチです。
今ホットラインが来て10時過ぎです暗いですが病院へ駆けつけます。
クランケの病名は急性冠症候群といって不安定狭心症と急性心筋梗塞を併せた病気の総称で冠動脈が突然塞がり突然死を起こす重篤な病気です。
私は昨日から徹夜で寝ていなくてオペ中に倒れるかもしれない。医局長は「困難なオペで山田の体が心配だ!」と言ってくれたけど、ジャンヌ・ダルクは行きます。「倒れてもいいから行きます」と言って電話を切った。
今度こそクランケの命を救えるかわからない。決死の覚悟でオペを頑張り抜きます。
では、闘ってきます!
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サチからのメールを小説のように読んできたが、これは現実なのだ。サチがジャンヌ・ダルクと呼ばれることに不吉なものを感じている。歴史上のフランスのヒロインは悲劇の死を遂げた。
サチの所業は手の届かぬ雲の上の所業であり、小生は仰ぎ見て彼女の成功と健康を祈るだけである。