力泳の山口尚秀選手
8月30日付毎日新聞が「圧巻の泳ぎだった。ラスト20メートルで一気にギアを上げると、唯一競り合ったジェーク・マイケル(オーストラリア)を置き去りにした」と興奮気味報じたのは、男子競泳100メートル平泳ぎで優勝した山口尚秀選手のこと。
颯爽と水から上りインタビューに応じた彼のどこが「知的障害」がいぶかしんだ。そう言われなければインタビューでの問答からはわからない。テレビが知的障害の内容を「自閉症」と踏み込んだので納得したのであった。本人が置かれていて立場の苦しさに言及し、その母が、ひとつのことに集中するという自閉症の特徴を生かしてくれました、というようなことをおっしゃった。
パラアスリートや彼らを支える人々の前向きの発言でいろいろな障碍のことを市井の人々が考える場になるのであればこの大会は役に立っていると思った。小池都知事が学ぶ場になるといって児童・学生の入場制限に難色を示したのも理解する。
新聞を見ていると、「運動機能障害S7」「視覚障障害S13」「視覚障障害S11」といった用語が目を引く。トライアスロンで「運動機能障害PTS5の谷真海は10位だった」という文言があったりして、障害の重度を綿密に分類していることを知った。
ある車椅子の選手が障害の重度を引き下げられて最下位に沈んだということもあった。彼がそれをそう悔んでもいず、最高の走りであったと述懐したのにホッとしたが、多くの選手はメダルを取ることに全身全霊をかけていて、人というのはとことん競争するのが好きな生き物だと痛感した。
1番を取る、2番を取るということになると、障害の重度によるクラス分けはえらく重要な要素になってくる。クラス分けの発想を進めていくとオリンピックにおけるトランスジェンダー選手の問題も浮上してくる。
もともと男性であった選手が女性として、もとから女性である選手と競うことに後者から不満が出るという問題であり理解できる。「オリンピックは出場することに意義がある」という名言ははるかかなたのものである。
人間は競争が好きで勝って興奮し負けて泣くのである。オリンピックもパラリンピックも。
競争する場合、どうしてもクラス分けという発想が出てくる。人と人を分けるというのは暗い危険な要素をはらむ。
「自閉症」ひとつ例にしても、この言葉で括られている人たちのそれぞれの内容はえらく違う。菊と桜と曼珠沙華が同じ花というカテゴリーであってもえらく違うように。
競争というのが危険な要素をはらんでいる。けれど人間は競争しないではいられない生き物である。
人間性を考えると分類というのはナチス:ユダヤを思い好きではないが、競争を考えると分類せざるを得ない。パラリンピックを見ていて分類の問題、その難しさを強く意識した。