「アメリカ人はパンを食うからアルツハイマーになるのよ」と妻が言いだした。
テレビから仕入れた知識らしい。アメリカのとある学者がパンに含まれるグルテンに警鐘を鳴らしているらしい。
インターネットで調べてみると、米国のDavid Perlmutter博士がベストセラーとなった「Grain Brain」で、<炭水化物の摂り過ぎは脳の萎縮につながるリスクが高い>というようなことを主張している。
それがグルテン―アルツハイマーというつながりになったのか。妻はかなり短絡しているが、言いだしたら聞かない性格である。
妻がショックだったのはたんぱく質より炭水化物重視の献立を推進してきたためである。わが家の主食は玄米である。小豆と黒米を加えて特殊な釜で炊く。釜は何種類も試していちばんいい機種にたどりついている。
朝夕必ず玄米を食べているが昼はうどん、スパゲッティを食べることが多い。孫はうどん好きにてしばしばうどんを食べさせている。
うどんはグルテンである。
「グルテンとアルツハイマーがそんなに関係するのならもっと世間が騒ぐよ」とぼくが言うと「こんな重大なこと全世界で騒げるわけないじゃない。隠しているだけ」と妻。
「4か月先に地球が壊滅する隕石が降ってくる、というようなことを各国政府が秘匿するのと一緒よ」と妻はこれに関しては論理的である。
妻の得た知識ではいまの小麦は品種改良を繰り返してきた結果、原初の種の健康さを失ってしまったとか。説得力があるから困る。
妻が騒ぐのにはほかにわけがある。
先日、ぼくが外出したとき鍵を持って出るのを忘れた。家にいた妻に電話して鍵を玄関横の自転車のかごに入れておくよう頼んで40分後に帰宅した。
しかし鍵がない。
意地悪されたのかと呪いながらはしごをかけて二階に上り空いている窓からやっと入った。
妻に糺したところ「忘れちゃったんだもん」と謝る素振りもなく、怒ることを諦めた。
同時に、<痴呆が始まっているんじゃないかな>と恐れはじめた。
妻ももの忘れの自覚がそうとうあるらしく、それに信じてきた炭水化物がからんでいるとなってパニック状態なのだろう。
妻のグルテンを怖がる話はいちおう聞いてやっている。
しかし何を食べても100年生きる人はまれ。そう食べることを気にしてもしかたない年齢ではないのか。
上の空で話を聞いているとわかると妻はゆさぶる。
「でも私が痴呆になったら介護しなくちゃいけないのよ。そうなれば俳句なんかやっていられないわよ」
グルテンより妻の脅しが怖い。
きのう鷹中央例会が新橋であった。
味失せしガムをなほ噛み炎天へ わたる
が小川軽舟選に入った。
主宰は、やりきれない思いが出ていますね、味がなくなっていることに気づかないほど逡巡している…、と作者が言わんとするところを不足なく評してくれた。
俳句はきちんと読める人とやりたいものである。
山田詠美の『チューイングガム』を読んだときからこれが素材になると思っていた。さきごろ野球をテレビ観戦していて、北海道日本ハムファイターズの中田翔が打席に入るたびにくちゃくちゃガムを噛むのに気づいた。
よくもまあこんなものを噛んでいて集中できるものだなあと思っていて、自分がガムを噛んだ経験がよみがえった。
ガムはすぐ味がなくなってどうしようもない。
捨てるタイミングがむつかしくただただ噛みつづける。
とうに恋愛感情をなくした女とだらだらつきあうのに似てやるせないこと。おまけに30度を越えるような真夏であったら…。
それで句になった。
中田翔は6月27日現在、本塁打21本でトップ、打点61は2位である。
しどけなくガムを噛んでいるがいいところでホームランを打つ天性のスラッガー。頼りになる4番打者である。
今年も本塁打王か打点王かとってほしい。
アメリカの連邦最高裁はきのう同性婚を合憲と認め。州法で禁じることを違憲とする判決を出したそううだ。
ぼくは結婚というのは男と女のものであるとずっと思ってきたしこれからもそう思うだろう。「四五寸の凸凹のこと男女とは」というわが川柳は男女と結婚の本質を示している。
凸と凹が自然に合わさる関係が結婚であり、わが国の広辞苑も結婚は「男女が夫婦となること」といっている。
しかしぼくは男と男が、また女と女が性の交わりをすることを批判しない。
気持ちが悪いとは思うが人間のあらゆる嗜好はその人の自由であっていい。鮨にケチャップをかけて食うイギリス人がいても、気持ちが悪いが、咎めたりはしない。好きなように味わえばいいのである。
同様に男と男が、女と女が枕を交し一緒に住むことも自由であろう。
しかしその結びつきがどうしても「結婚」と呼ばれないといけないのか。
ぼくは結婚という言葉に対してはそうとう保守的である。
無理して「結婚」といわなくてもいいじゃないか。カップルではいけないのか。「結婚」という言葉じゃなくて国が認知してやれば十分じゃないのか。彼らは「野合」と思われなければ満足すべきではないのか。
「結婚」といわれると男と女のものにしておいてよ、といいたくなるのである。
性愛が異性どうしから離れていくのは理解できる。
だいたい人間は自然に反して発展(といっていいのか)、歴史を展開してきている。人間は自然を郷愁として感じつつそれを大事にするわけでもなく、自然からどんどん遠ざかっている種族である。
ほかの生物たちが生育環境(自然)が変わらぬことをよしとする中で、人間は自然をどんどん変質させてきている。破壊もしてきている。
性愛の感覚も嗜好も生殖から遠ざかってどんどん変質している。
それは認めるとして、どうしようもない人間の性ゆえの生態を神聖な言葉の中身の変更までして支援する必要があるのか。
せめて言葉くらいはもともとの感性を残しておいたらどうかと思うのである。
集団的自衛権の行使容認に反対するデモを詠んださいたま市内の女性(73)の俳句について、同市大宮区の三橋(みはし)公民館が6月末、毎月発行する「公民館だより」への掲載を拒否していたことがわかった。女性は俳句サークルの会員で、毎月、会員互選の1句が掲載されていた。女性は「サークルと公民館は別組織。掲載拒否は表現の自由の侵害だ」と批判している。(朝日新聞デジタル2014年7月5日10時28分)
はっきりいって公民館も書いた人も知的レベルが低いのである。
まず思想的なことを排除したいのなら公民館側はしかるべき選者を立てて選るということをすればいい。市井にあまたある俳句結社には主宰というできる人がいて掲載する俳句の取捨を行っている。
公民館もそのように専門家を擁して市民の句のよしあしを選別するシステムにしておくべきであった。
そうすれば価値の低いスローガン俳句は容易に拒絶できたであろう。
誰でも好きに書いたら載せてあげますよ、といっておいて政治性うんうんで拒否するのはまずい手であろう。
そこで書いた女性に分があるのだが、しかし、この句は俳句としてはよくない。表現で生きようとする者は芸術性の意識がなくてはならない。こんな句がいいと思っているのか。
俳句にデモ行進するプラカードの文言を書いてもどうしようもないのだ。川柳ならうまくこなせるかもしれぬが俳句ではどうにもならない。
俳句は意味や思想などを訴えるものではないのである。
そういう意図をつよくこめればこめるほど汚れてしまう。
俳句はもっと感覚的なもの。意味がないから心がほぐれるものなのである。
こういう事件をみていると世の中はつくづく衆愚でありほとほと困ってしまう。
国分寺市民室内プールへ行って泳ぐ。今月2回目。
アレルギーがありプールの水で鼻の粘膜をやられるのであまり泳がないが、たまには気分転換のため泳ぐ。
水にいる時間は30分以内。これ以上水につかっていると鼻がえらいことになる。
よって休まず泳ぐ。
今日は300m泳いで上がって腕立て伏せと腹筋をやり、また300m泳ぎ腕立て伏せと腹筋をやり、また200m泳いだ。
水泳大会に出たという友人が25mを〇〇秒で泳いだというのでぼくも試しにやってみた。
800m泳いだあとクロール全力で24秒であった。
タイムを計った記憶は小学生にさかのぼる。むろん記録など覚えていない。
ぼくの水泳は自分勝手。
クロールはまずまずの形だと思うが、平泳ぎはろくに進まない。バタフライはむつかしくてできない。背泳は楽なのでよくやるが速くはなかろう。
いちばん得意の泳ぎは横泳ぎ。かつて忍者が用いた日本泳法。
これは非常に楽なので多用している。
右体側を下にしてはじめたがいまは左体側を下にしても泳げる。両方まんべんなくこなして体が一方的に偏向しないようにする。これは人に教えることができる水準まで鍛え上げたと思っている。
準備体操はしない。
泳ぎながら体を水に馴らしていけばいい。
タイムトライアルなど年とってやるものではない。帰りに信号の点滅しかけたとき走ったらぜいぜい喘いだ。寝転がって午後を過ごそう。