天地わたるブログ

ほがらかに、おおらかに

生にしがみつけ加儀真理子

2022-09-30 13:19:15 | 俳句
  


鷹同人の加儀真理子(出雲)の病気を知ったのは昨年の鷹11月号であった。
検温の幽けき音や朝曇
病床に聴き入るサザン雲の峰
火蛾払ひ薬臭の身を持て余す
仙人掌の花や気弱を打ち払ふ

以上の4句が大きい字で印刷されたからである「火蛾払ひ」は小川軽舟特選である。
彼女とは面識があり談笑したこともある。中央例会か大会のようなとき来た。よく来たなあと思った。たいてい妹の三代寿美代と一緒であり、妹がキャンキャンした感じなのに対して彼女は姉らしくしっとりしていた。
俳句のおもしろさと発想は妹に譲るが真理子さんはしっかりしたけれんのない句を書き続けている。
彼女の病状が気になって三代寿美代に事情を聞いたが返信がない。そりゃあそうだろう。ぼくが逆の立場なら答えたくない。
それで加儀真理子の病気に関する句をまとめてみることにした。

守宮鳴くてろてろ触る手術痕(9月号)
彼女が病気に関して書いた初出は去年の9月号であった。いきなり「手術痕」で驚いた。その前の号をいくつか読んだが病気の気配がなく突然、「手術痕」である。ということは5月頃すでに発症していたことになる。

迂闊にも癌に宿貸す浮いてこい
機器に四肢捕らはれてゐる夜の雷
遠雷や病床に爪伸びゐたり(10月号)
去年の10月号を読んで病気は癌であるとわかった。三代が返信しなかったのは、姉の句を読めばわかるでしょ、ということだったと思う。「迂闊にも癌に宿貸す浮いてこい」のユーモアはふるっている。このとき加賀はまだ余裕があったかもしれない。

身に入むや移植の皮膚をそつと撫づ
ほんたうは泣きたい月に背を向けて
うそ寒や頑張り時のピターチョコ(12月号)
「ほんたうは泣きたい…」は巧い。ここで巧いという評は場違いかもしれぬが身に沁みる。

鎮痛剤効き目生半稲光
傷口へ痛みづかづか秋黴雨(1月号)
この2句もユーモアの感覚がただよう。

春寒や眠られぬ夜の恐ろしき
寄居虫や癌の再来断固拒否(6月号)

春驟雨食ふにも力要ることよ
病臥して耳聡くなる春の宵
春深しもの食ふ夢よ笑ふ夢
さへづりや痛む我にも朝が来て(7月号)

新緑や生きて成すことまだあるに
未来図になかりし病臥青嵐(8月号)

蕺菜の蔓延るやうに癌もまた
子鴉や呼ばれて帰る家がある(9月号)
癌を蕺菜(どくだみ)と感じている。わかる。6月号で「癌の再来断固拒否」と願ったのが虚しかったようだ。

子鴉や崩れさうなる空元気
遠雷や枯木のような我が手足
痛みなき時間の欲しき夏つばめ(10月号)

加儀真理子はおそらく去年の5月ころ、癌にかかったのに気づき、以後ずっと闘病生活をしている。今年の1月号から5月号にかけて癌の句を発表していない。欠詠したわけではなく癌と関係ない句を書いている。病気が寛快したのであろう。しかし再発してまた手術したような気がする。
ここに加賀の句をまとめて読んだのが見舞いのようなものである。物品を贈れば病人はよけいな気を使うだろう。句を読んで痛みを多少感じるくらいしかできぬ。

2008年5月5日、加賀真理子、三代寿美代、それに二人の母である古川英子と出雲市斐川町の古川邸で茶を飲んで談笑したことを昨日のように思い出す。
旧家といっていい凄く立派な木造家屋であった。土間が奥まであって暗く、柱や梁が太く立派であった。5月の涼しい風が通り抜ける向うに青田を眺めながら茶を喫した。
三代に出雲大社へ連れて行ってもらったのだがそこより古川邸のほうが印象に残っている。古川英子はすでに亡く娘の一人が病んでいる。時の流れを感じる。

加儀真理子はまだ60代半ば。頑張って生にしがみついていてほしい。何もしてやれないが。


写真:多摩川の曼珠沙華
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いつも先に奥坂まやがいる

2022-09-29 06:07:47 | 俳句
  


鷹10月号の奥坂まやの6句を見て、やられたなあと思う句があった。
それは、

泳ぎゆく蛇と川波よぢれ合ひ 

である。蛇を川の中で見ることがある。迫力のある光景である。小生も二三度見たことがあり言葉を転がした記憶がある。けれど言葉と格闘しただけでものにならなかった。以後、川の中の蛇を考えることから遠ざかっていた。
この句を見て俺のやりたかった世界がここにあると思い脱帽した。この句を足掛かりにして別の蛇を書く道もあるがしばらくは無理と思う。
奥坂まやの魅力は何と言ってもモノに対してぶつかっていくエネルギーである。モノに正面からずれないように当たる。そのけれんのない姿勢にある。ラグビーにたとえればフォワードの突進でありタックルである。ハードタックラーである。
小生は初学のころ奥坂の五人会にいて基本から鍛えられた。俗な見方を完膚無きまで粉砕してくれた。奥坂は言わなかったが、ラグビーも俳句もタックルの強さであると認識したのであった。
奥坂は人事の句をほとんど書かない。いま俳句の世界に人事の句は蔓延している。人事句は情がからんで人がわかりやすく点も入りやすい。けれど奥坂は人間界のことにほとんど興味がない(句にするという意味で)。数少ない人事句にしても浅薄な情緒からほど遠い。人間を取り巻く器(世界)のほうに関心が行っている。したがって小生が奥坂を「世界探求派」と呼ぶのである。
今月のほかの5句。

ウィンチが鎖巻き上げ大暑なり
アナウンス被さるホーム朝曇
はんざきの数多の疣のひとつが目
墓多き開拓村や牛蛙
木道は雲と親しや稚児車

奥坂まやがブルドーザーみたいに世界を切り開いて行く。あとからそこを整地しつつ小生がついて行く、という構図が浮かんで情けない。
初学のころ吟行したとき奥坂の句帳を後ろから盗み見したことがある。そのとき句帳は小さい字で真っ黒であった。短い時間に考えられない数の句を(句の原形)を書き散らしていた。
あれから30年近く時間が経過して小生も数を書き散らすことはできるようになった。しかし中身はとても及ばない。
奥坂は今も北極星のように見える。


写真:多摩川のキクイモ
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10月6日KBJ句会

2022-09-28 07:17:10 | 俳句
            

ようやく新涼を実感する季節となりました。銀杏の胡桃も地に落ちる豊の秋でもあります。現実からトリップして俳句を楽しみましょう。初めての方も歓迎します。

【日時】10月6日(木)14:00~16:00
昼食を当店でとらない人はぎりぎりに来てください。それまでの時間、通常の客で込み合いますから。
店のスタッフの休憩時間に句会をやります。

【会場】KBJKITCHEN
国分寺市南町2-18-3国分寺マンション102
中央線・国分寺駅を南口に出て左へ200mバス停先。通りをはさんで都立殿ヶ谷戸庭園。

                           

【参加費】1000円+飲み物代

【出句数】1~8句(以下の兼題1句を含む当季雑詠)

【兼題】蕎麦の花

【指導】天地わたる(鷹同人)
全句講評いたします

【参加を希望する方】
句会へ参加したい方は、ブログへ書き込みをするか、youyouhiker@jcom.home.ne.jpへ一報を。
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鷹10月号小川軽舟を読む

2022-09-27 11:22:11 | 俳句
   


小川軽舟鷹主宰が雑誌鷹10月号に「輝く」と題して発表した12句。これについて山野月読と意見交換する。山野が○、天地が●。

水平線よりスコールの晴れあがる
○「水平線」が見えるわけですから、きっと海辺にいて遭遇した「スコール」が遠く「水平線」の方では青空になっていくのがわかったのでしょうね。空間的に遠近というか奥行きのある景なんですが、どこか平面的な感じもして、そこが妙に不思議な句です。
●妙な書き方をしています。ぼくは、水平線の上に青空が出現しはじめた、と読みました。上は雲があって、水平線から雲が剥がれるように青空が見えてきた、と。
○そうかも知れませんね。

ママチャリに男と少女夏の海
●「ママチャリに男と少女」、物語性があります。「父と少女」ではありませんから。
○見知らぬ二人であれば、それがそうであったとして親子かどうかは想像の域を出ないわけですが、そうした事情に触れない「男と少女」という把握が句の可能性を広げているようです。
●「父と少女」かもしれません。父も男ですから。
○けれど「男と少女」だと男から父の要素は消えます。事実、この句から受ける印象は親子ではなさそうですよね(笑)。アロハシャツなんかを着たちょび髭の「男」と「ママチャリ」の前籠に薄っぺらい学生鞄を無造作に突っ込んだまま気だるそうに後ろに横座りしたセーラー服の「少女」なんかを勝手に想像しちゃいました。それも、わたるさんのいう物語性のある証左でしょう。そして、結局のところこの措辞に対して「夏の海」が滅法効いているんです。
●世間的にはあまり褒められない妖しい関係を匂わせておもしろいです。

熊蟬や声と聞こえずただ輝く
●多くの人は蟬の声と認識します。よって「蟬声」という熟語があります。ところが作者が「声と聞こえずただ輝く」なんです。視覚と認識しています。
○「熊蝉」の「声」なんて久しく聞いていない気がしますが、作者もそうだったのかも知れません。ある夏の日の光とともに記憶されるような時間だったのでしょうが、それをこうしたレトリックで表現できることが凄いですね。
●五感を越境させるのは作者が初期から培ってきたもので自家薬籠中のものとしています。これが小川軽舟を小川軽舟たらしめている、と考えています。この技の原点は「蘆原にいま見ゆるものすべて音」(手帖)で、「闇の鹿笹原わたる音白し」(朝晩)と展開してきました。ここでは「声と聞こえず」と言い切ってしまいました。新しい境地へ踏み込んだと思います。

絵の中へ靴音去りぬ夏館
●この句は浪漫性いっぱいです。この夏館は洋館で靴を履いたまま動くので中七がわかります。
○この「靴音」の主が誰なのかは明かされていないのですが、それが例えば少女だとして、「絵の中へ」「去」っていった対象として少女ではなく、「靴音」を取り上げたことが、浪漫性を高めるのに一役買っているかと。
●少女というイメージが立ってきます。
○句の中の時間で今、作者はこの「絵」を見てはいないのではないか。それは「夏館」の階段の壁に掛けられた一枚の風景画(例えばパリ)であって、「少女」は「夏館」に作者と、この一枚の絵を残してパリに旅立つために、作者のいる部屋を飛び出し、絵の掛かる階段を駆け降りていったというようなストーリーが浮かびます。

監獄の片陰深し塀づたひ
●しつこい句ですね。「塀づたひ」は監獄であるなら言わずもがなと思えますがだめ押ししました。
○この句の「片陰深し」からは、「陰」の濃さだけではなく、「塀」の高さに起因する「陰」の広さも言っているような気がします。

夏痩や飯をのみ込むのどぼとけ
●老人を思いますね。自分の父の老いた姿とみてもいいでしょう。
○なるほど、老人ですか。そうですね。もちろん「のどぼとけ」が「飯をのみ込む」ことはなく、「飯をのみ込む時ののどぼとけ」なんでしょうが、句としてはこの省略と、「のどぼとけ」を平仮名書きにした効果・面白さでしょうか。
●首は男でも女でも衰え、老いが否応なく現れる部位。特に喉仏のある男は痩せるとここが憐れでなりません。目を背けたくなる。そこをきちんと見たのがいいです。

松赤く枯れしみささぎ田水沸く
○一瞬戸惑ったのですが、「枯れし御陵」の意ですね。数ある「みささぎ」の中でもあまり管理の行き届いていないようなそれを思いますね。
●「みささぎ」と「田水沸く」の取り合せがいいです。みささぎの松の枯れを見たのが節妙なアクセントになっています。

菅草の赫奕(かくやく)と道はるかなり
●菅草は湿地や渓流沿いに生育してすごい種類があります。赫奕(かくやく)は、光り輝くこと。菅草をリスペクトしつつ道の長さを嘆いている感じがおもしろいです。
○「道はるかなり」ということは散歩なんかではなく、どこか目的地を目指して歩いているわけですね。この句での「菅草」は菅原道真をどこかイメージさせる気もしました。
●菅原道真は作者が喜びそうな人物でしょう。散歩ではない道行です。

ごまだらかみきりごまだらの髭振り進む
○最初に面白く感じたのは「ごまだらの髭」という表記への違和感とその効果です。確かに昆虫のひげとも呼ばれる触角ですが、「髭」という漢字を知る頃にはそれが実は触角であると知っているので、「昆虫のひげ」には感じない違和感を「ごまだらの髭」に感じます。とは言え、この違和感は作者にとって折り込み済で、それ故の面白さも含めた句なのではないかと。
●俳句は一語の切れ味でものになるという好例です。「ごまだら」です。これでいけると思った作者は繰り返してこの語感の効果を存分に出しました。「ごまだらの髭」ゆえ「振り進む」がうっとりするほど効いています。一物俳句を読んだ充実感があります。

祇園会の塵も動かぬ暑さかな
●京都の夏と聞くだけで暑いです。おまけに「塵も動かぬ暑さ」ですよ。
○風も吹かないということをそのままいうのではない工夫というか味なんでしょうね。

西口に日は正面やバナナ買ふ
●「西口に日は正面」、これも暑いですね。今月の句は暑さが際立っています。「バナナ買ふ」で気力を振り絞っています。
○これも西日と言ってしまえばある意味済むものを、「西口」を持ち出すことで句の現場情報を伝える技ですね。
●「西口」で自分の立ち位置をしかと見せて手堅いです。「バナナ買ふ」でなくて「トマト買ふ」ではどうかと一瞬思ったのですがバナナのほうがいいんです。トマトだと鮮度が落ちるなあといった妙な方向へ気持ちが行ってしまいます。バナナが上五中七を支えるのです。

うぶ毛なき人形の肌夜の秋
○確かに「人形」には「うぶ毛」はないのですが、敢えてそう言うことで、例えば博多人形のように単に描かれたのではない、髪の毛があるフランス人形のようなものを想像します。
 ●体温のない人形の質感。不気味でもあります。こういうとき季語をどうするのかが俳句作者の悩むところであり腕の見せどころですが、ここでは「夜の秋」が来ています。絶妙かどうかはわかりませんが、少なくとも悪くはないです。むつかしい事態を俳句にしたと思います。


写真:先週収穫したギンナン(加熱したもの)
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サクランボではありません

2022-09-26 10:28:37 | 自然


ギンナンです。
おととい拾った1000粒のなかに毛色の違うものが30粒ありました。今日は皺が出てきましたが拾ったときは、林檎みたいに皮が張っていました。
ほかのものがたやすく剝けるのにこれは割れません。皮の緊張がゆるむのにほかのものより時間がかかるのです。それが林檎やサクランボに似ています。中の実がどう違うのか。同じ木になったのは間違いないのですがなぜかくも様相が異なるのか。自然界は人知の及ばぬことに満ちています。

          
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