天地わたるブログ

ほがらかに、おおらかに

湧水と茶の新芽

2016-04-30 15:46:39 | 身辺雑記


ネット句会で「更衣」という兼題が出て海芋咲く水辺を見たくなった。更衣と水辺と関係ないのだが俳句は変に関係しないほうがひらめくことがある。
自宅から2000歩あるいて国分寺市の名所「お鷹の道」へ行った。

海芋は以前旧日本海軍の白い制服とからめてやろうとして失敗した記憶がよみがえる。
このへん一帯の土地を本多さんが所有しているとか。湧水のわきに農業を営む本多家があって農作物を売っている。



しばらく水をみていてやはり水の豊かな忍野八海で水を詠もうとしていたことを思い出す。あれはものになったのか。
俳句はイメージが集積してあるとき言葉となって噴出することがある。
そんな僥倖を願って歩いたり見たりする。

もうひとつ気になっていたのが松本製茶の茶畑である。


お鷹の道から府中街道を歩いて約4000歩。
煎茶はいろいろなところで買ったが最近この店を見つけた。銘柄がなんと「国分寺茶」。
飲めるかどうか半信半疑で1620円を買ったらうまかった。濃厚で渋みがありぼく好みであった。
3200円の茶まであって驚いた。
そのとき店の裏に茶畑があると聞き、新芽が出るとき見たかった。
これほどのお茶好きにして茶の新芽を見たことがなかった。それをこんな近くで見ることができるとは。

松本製茶の茶畑は、ひと畝およそ20mほどのものが137畝あった。
店と畑の間に製茶工場がある。
製茶の仕事があるのなら雇ってもらいたいくらいだ。今度交渉してみたい。
俳句の添削も性に合うが製茶作業はもっとぼくにふさわしい気もする。
とにかく茶畑があり新茶を見るのはうれしい。2,3枚茶の新芽をちぎってかじる。ナマでもうまい。


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長谷川櫂氏の選句はときに変

2016-04-29 12:18:34 | 俳句


讀賣新聞朝刊2面に掲載の長谷川櫂氏の「四季」はほぼ毎日読んでいる。
が、ときどき、えっどうしてこんな句をわざわざ取り上げるのか、というケースによく出くわす。
本日の

千ボルト電気うなぎの昼寝覚  大輪靖宏


なんでこんなだめな句を取り上げるのかと唖然とした。
藤田湘子が墓から出て「俺がいない俳壇はこんなに堕落したのか」と嘆くのではないか。彼は死んでいるので世俗的なオーバーな表現ではあるが。

ぼくら鷹の面々も動物の昼寝を書いた句を出したものだ。そのつど湘子が「犬や猫の眠るのを昼寝というのか!」と怒られたものである。
したがって鷹の作者でいま犬猫の昼寝を書くものはいないだろう。よしんばいたとしても小川主宰が闇に葬っているだろう。

世の中は擬人化表現が腐るほど蔓延している。
それらはたいてい月並。詩からほど遠い境地である。
ぼくは日々添削しながら犬猫を人間並みに表現するやさしい心使いにうんざりしている。
動物に人間の尺度を持ちこんだら彼らを穢すことになる。

何百万部も読む人がいる大新聞のコラムを担当する偉い人はそれなりの見識を持つべきだろう。
そりゃあ書くことは個人の自由である。
ぼくがだめと思う作品を長谷川さんが認めても基本的に問題はない。
けれど世の中にはわけのわからぬ人がいっぱいいて、偉いとされる俳人が取り上げればそれは秀句と信じ込む人は後をたたない。
すべからく書かれたものをぼくは批判的に読むがそれでもやはり書いた人がビッグネームであればあるほど影響を受ける。
よって社会的地位のある媒体に何か書くときそれなりの責任を持ってほしい。

うなぎの昼寝なんてどうしようもないではないか。
ちなみに俳人そのものが俳句仕様に毒されているケースは多々ある。
「鳥語」もその最たるものである。
有名な俳人がかなり「鳥語」を使っているがこれも妙な言葉ではないか。人間中心主義がもろに出た造語であり、きみたちも人間のように言葉を使っているんだね、といったあさはかさを感じないのか。
人間の奢りといったものが俳句を薄っぺらにする。それに気づかないようでは俳句をやってもしかたない気がする。
コメント (4)
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62歳が67歳を憂う

2016-04-26 06:35:16 | 身辺雑記


62歳はわが妻、67歳はその姉である。
妻はさきごろ立川駅で姉と待ち合わせて飯を食ったそうな。帰ってきてため息をつき姉の老いざまを嘆くこと。
腹を前に押し出しそっくり返って歩くしぐさをぼくにして見せ、「ぼてーっとしちゃったんだよね」と嘆く。妹にとって姉の老残はそうとうショックだったようだ。
妻は姉と立川駅北口の伊勢丹で何度も会っている。
「なのに姉ちゃんったらここは駅に表示がなくてわからないと行政批判の一点張り、もうやんなっちゃう」とこぼす。
ぼくが聞いても何の解決にもならぬが人は話すことで憂さが晴れるらしい。

妻と姉は宮崎市日南市出身。
姉は才媛といってよく学校の成績がよかった。そう裕福な家庭ではなかったが両親はピアノを買って与え、専門の先生に娘を通わせて習わせた。娘をこれにこたえ研鑽を積み、音大へ入った。
卒業後中学校の教師になりイケメンの高倉健似の体育教師と結婚して二児をもうけた。イケメンが妻としたくらいだから容貌もスタイルも冴えていたらしい。いまは面影もないが…。
妹は姉に比べると冴えず姉のあとを金魚の糞よろしくついて遊んだらしい。
勉強も並み、器量も十人並みといったところ。

何もかも圧倒的に優位であった姉と従っていた妹の力関係は年を取るにつれて変化し、いまや妹が人生、生活一般については高い識見を有するようになった。
人生は学校の成績では測れないことの集積なのだ。

妹が嘆くのは姉のあまりにはやい老いざまだけではない。
姉の長男が結婚し新居(マンション)を構えたのだが、そこへむやみに姉が押しかけていくのだ。
「お嫁さんがいい人でね」といって作った野菜を持って行ったり、それを料理したりと世話を焼く。
それが高じて嫁さんがいない家へ上り込んで料理までする。
それを妹は厳しく咎める。
それはいちばんしてはいけないことであり、そのうち新婚家庭との間に決定的な破局が来ると賢い妹は予見する。

ぼくもそこまで入れ込む姉と心理がわからない。
妻は姉に結局自分自身の核がないことを指摘する。自分が自分と遊べること、自分が自分と折り合いをつけられることが基本であることでわれわれは一致する。
「姉ちゃんと話していておもしろくないでしょう」と妹はいう。
「そうだね、君の姉だからていねいに応対している」というのがぼくのスタンス。

ぼくは妻の話を聞いて相槌を打つしかできない。
調子に乗って姉をあまりけなすようなことをいうと絶対まずい。夫婦といえど踏み込みすぎるとたいへんなことになる。なにせ妻にとって実の姉のことである。
姉妹というのは男の兄弟に比べて信じられないほど強く結び合っている。
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老練な取り合わせ

2016-04-25 05:54:49 | 俳句


猫の恋漬菜酸つぱくなりにけり わたる

鷹5月号で「推薦30句」に入り「秀句の風景」に取り上げられた。14か月ぶりでありプロ野球で投手がホームランを打つような確率である。
主宰いわく、
老練な取り合わせである。恋猫が表で騒いでいることと漬菜が酸っぱくなったことに因果関係はないのだが、両者相まって陋巷に春が来た気分が濃くただよう。「糠味噌が腐る」という常套文句は隠し味程度に思い浮かべればよい。
老練か……はい、ぼくは年を取りました。力を使わずに一句作りたいと思っています。

そうするためには藤田湘子の『20週俳句入門』の型を生かすのがいちばん。
この句を発想しかけると同時に「型・その4」をすぐ思った。
猫がうるさく騒ぐとき身近で何が同時に起きたか思い出していて「漬菜酸つぱく」が出て一気に一句になった。
自分の思いは一切除外して季節感のみの取り合わせに奉仕した。
伊那では「お葉漬け」と呼び冬季の食材として野沢菜を樽に漬けたものだ。むかしはどの家でも自家製野沢菜漬けを作り蔵に保存していた。実家には味噌蔵があり自家製味噌と一緒に漬物樽があった。
それを毎日食べた。三食以外にも茶を飲みながら食べた。
しかし猫が鳴くころになるとかなり酸っぱくなった。菜っ葉の飴色が増してきて春を感じるようになったものだ。

猫と漬菜をただ湘子のいうように合わせただけである。
「自分を書け」と湘子からよく言われたが最近書く自分なんてあるのかと思う。欧米人がいうような個性がわれら日本人にしかとあるのか。いや彼らにだって自他をしかと分ける決定的なものがあるのだろうか。
俳句は季語を入れる縛りがある。長くやっているとこれが縛りではなくて福音と思うのだが季語は自分のものではない民族の共有財産。ほかに使う言葉も、手垢のついた言葉を使うな、と指導されたきたのだがみんなが使う言葉である。
厳密にいうと自分を表現するなど至難なのだ。

事象に、言葉にただ奉仕すればいいということになるだろう。それが力を使わない表現である。
自分を、個性を、といったところでそんなに自分に実体があるのか。
俳句は畢竟、「身を捨ててこそ浮かぶ瀬もあれ」の桃源郷のような気がする。
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レイカちゃんは僕の彼女ではありません

2016-04-24 00:38:37 | 身辺雑記

きのう鷹中央例会があった。
いつものようにレイカちゃんに主宰の前の席を取ってもらいレイカちゃんと並んで主宰の話を聞いた。
句会のあと懇親会があった。

そこにアスカちゃんがいた。一人かと聞かれそうだというとすごーくうれしそうな顔をして前へ坐るよう促されそうした。
アスカちゃんはぼくのブログのファンらしく「本音で書いてあっておもしろい」と褒められた。
それを伝えるため声をかけていいか悩んだというのでぼくが驚いた。
ぼくがいつもレイカちゃんと一緒にいるので彼女じゃないかと思っていたという。
そんなことぼくに訊けないのでレイカちゃんに「天地さんと仲がいいんですね」と鎌をかけたところ、レイカちゃんが、
「仲がいい……かなああ」↑と語尾を上げてしなをつくっていうものだから、すわ、天地さんの彼女、と思ったとか。

困るなあレイカちゃん。
この場面でそんな答え方したら「私たち男女関係なんで――す」といってるのと同じなんだよ。
空気が読めないというか、天真爛漫というか、社会生活に向かないというか…ああ。
「席を取るだけの務めで指一本触れたことのない関係です」とレイカちゃんはいわなかったのだ。天然おバカちゃんめ。

誤解が溶けるやアスカちゃんはにわかに饒舌になり会話が盛り上がった。
こういう宴会はこういう男女関係がらみの下世話の話題がいちばん盛り上がるのだ。ぼくとアスカちゃんが楽しくなった様子を見ていた横のカヨちゃんが
「二人はすごーく仲がいいのね」と羨望の目付きで茶化すではないか。
危ない危ない、くわばらくわばら。

カヨちゃんがぼくの奥さんに電話して「天地さん、〇〇さんと仲がよかったですよ」などと告げることもあり得るのだ。世の中というのはかように危険が足元に口を開いている、いまそこにある危機なのだ。
女房に疑われたら一巻の終わり。
警察に疑われても事実が疑いとかけ離れていれば疑いを解いてくれる。事実が優先する。
けれど妻に疑われた場合、疑われたということでアウトなのだ。
調べてみてレイカちゃんともアスカちゃんとも話をしただけであってもアウトなのだ。
妻が夫を疑ったという事実は大手を振ってまかり通る。
どんな検証も証拠も押しのけて疑いがまかり通るのである。
特に女は事実より憶測が好きな種族なのだ。
そのような理不尽な女が好きな男は、疑われたら最後だという強い意識を持って女と接しなければならぬ。

アスカちゃん、盛り上がりましたね。また飲んで楽しい話をしましょう。

ところで句会では次の句が主宰選に入った。

太陽のとろりとありぬ春の水

主宰いわく「水に映ったのでしょうかね。水に映ったという句はたくさんありますがこの中七は効いています」。
はい予想通りのコメントでした。目玉焼きが破れてご飯の上にあるのが好きなのである。それが中七になった。
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