天地わたるブログ

ほがらかに、おおらかに

い抜き言葉もでも嫌い

2018-02-17 05:12:40 | 俳句・文芸


川柳の島田駱舟さんが、彼の小冊子「銀河」2月号で「いぬき」について書いている。
川柳界では「聞いている」と「聞いてる」という表現をみた場合、い抜きの「聞いてる」を避けるのが主流であるらしい。
けれど彼は「い抜き」を積極的に取り入れていいのではないか、という見解を示し、下五に「聞いている」が来る場合でさえ「聞いてる」という舌足らずでも許そうかと踏み込む姿勢さえ見せている。駱舟さんは川柳を「今を詠む、口語で詠む」が大前提であるから「聞いてる」という口語を積極的に取り入れたいという意思表示である。
ぼくは駱舟さんの人となりが好きだが、韻律を破ってまで「いぬき」を貫徹しようとすることに首を傾げざるを得ない。

いつだったか彼はぼくに俳句において「夫」を「つま」と読み慣わしていることが奇異であり、時代錯誤ではないかと言った。あるいは彼の言う通りかとぐらついたことがある。駱舟さんは俳句の用語そのものにシーラカンス的古さを感じているようである。
しかし文語の格式を放擲してなんでも口語に移行していったら、次のような句を賞味できる日本人はどんどん消えてゆくのではないか。

芋の露連山影を正しうす  飯田蛇笏
死病得て爪うつくしき火桶かな  同
「影」はこの場合シャドウではなくて姿形のこと。「月影さやか」と同じ用法である。「正しくす」が「正しうす」となるう音便の美意識。病気にかかることを「得て」という奥ゆかしさ……こういった感性を日本語に感じ取れない日本人が増えてゆくと、ぼくは自分を異邦人と感じてしまう。
嫌なのだ。
読んで美しい日本語にたっぷり木のある山が貯える清水みたい味を感じたくないのか。

卑近なところでは、「タオルで顔を拭く」という日常の言い方を俳句でそのまま使うことをためらう気持ちがずっとある。「タオルもて顔を拭く」と言いたいのである。
濁音の助詞「で」が一句を汚くするという意識はわが鷹俳句会には厳然と生き続けている。
藤田湘子はこの濁音を嫌い次のように書いた。
初暦眞紅をもつて始まりぬ  湘子
「眞紅をもつて」という言い回しが風格なのである。

しかし、
口で紐解けば日暮や西行忌  湘子
ができてしまった。この句は『狩人』に収録してあり本人も愛着のある句だろうが、「で」が嫌いで自分から引いて何かに使うことはなかった。
自作に対して愛憎半ばする湘子の懊悩が濁音嫌いを象徴しているのである。

湘子の教えはずっとぼくや鷹連衆の中に生きてきたのだが、もう平成も終ろうとしているし、時代がえらく変化したのだから<口で紐解けば日暮や西行忌>を許してやっていいのでは、先生、という気持ちがあり、
両耳を両手で擦る初日かな  わたる
を書いてしまった。書いてから乱暴な言葉づかいだとは思った。讀賣新聞に投句したところ、小澤實さんが採って活字にしてくれた(2月6日)。
小澤さんもぼくも湘子門下生であり文語の美意識は十分理解しているのだが、ああ、彼も濁音を解禁したのだな、と気持ちがゆるんだのであった。このゆるみは小川軽舟鷹主宰にもあって、湘子ほど「で」を毛嫌いせず時代に順応している。
「両耳を両手で」と書いたもののいつでもそうする気はない。

俳句は川柳のように時代になにもかも追従していかない。時代に少し遅れてついて行くのがいいと思っている。
い抜き言葉というのをぼくが生きている時代にあまり見たくない。それが川柳であっても。


―― 閑話休題 ――――――――――――――――――――――――――――

理屈など粉砕妻の機関銃  島田駱舟
永田町熊手の手入れ怠らず 同
暖簾分け味のゆらぎも味にする 同
          「銀河」2018年2月号より


写真:能登半島、曽々木海岸(2015 2/14)
コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« そりゃあ金メダルが一番いいが | トップ | ああ東京の山仕事 »
最新の画像もっと見る

コメントを投稿

俳句・文芸」カテゴリの最新記事