鷹5月号で岸本尚毅と小川軽舟が「いかに言葉を制御するか」という対談をしている。ここで二人はおのおのの句集から10句ずつ取り上げて批評している。
それが非常に興味深いので天地が編集し直してダイジェストをお届けする。再編すると文字量も減りニュアンスが異なることを両氏ご了解していただきたい。
岸本尚毅選と評(小川軽舟『無辺』ふらんす堂より)************************************
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春信の春画愛(めぐ)しよ梅含(ふふ)む
一言で言うと見事なロココ調。「愛し」も「含む」も気取ったような感じが出てむつかしい。きれい過ぎてはまらない言葉がきっちり収まっている。
バーベキュー薫風汚すこと楽し
「楽し」はかなりベタな言葉。また「汚す」は俳句の中でうまくいくか私は臆病で使えない。一句のなかでむずかしい言葉ふたつがとても的確に使われている。まねができない。
風強き島の樹層や涅槃寺
ここにこんな木が生えて、こういう風土で、どれくらいの歳月がたって、植物と植物の関係がこうなっているという全体を集約した表すときの「樹層」という言葉。これが島というコンパクトな空間に収まっていて「風強き」で見事な風景として立ち上がっている。
神饌の案(つくえ)簡素に禊かな
情景としては見なれたもので俳句的にも魅了的ではないが、「簡素」というなんの変哲もない言葉が生き生きしていることに感心した。
太陽は轟音に燃ゆ滑莧
ふつう太陽は「音もなく激しく燃える」ととらえられるのに敢えて裏返しにて「轟音」とした腕っぷしの強さに関心した。地べたを感じさせる「滑莧」を無造作にもってきた。自家薬籠中の季語という感じの使い方。
石頭寄せ合ふ会議梅雨に入る
四コマ漫画で終わってもいいような内容を「梅雨に入る」という何とも微妙で、しかし無造作な季語と取り合わせて見事に俳句の世界にしている。
露の玉吹けばみなきよろきよろと
この句はまさに擬人法の醍醐味。露の玉が動いているのがあっち向いたり、こっち向いたり。「きよろきよろ」という言葉までどうやってだどり着くかが作り手の考えどころ。
冬枯や日だまり運ぶ路線バス
初心者が使いそうな「日だまり」というベタなダサイ感じの言葉。それに輪をかけたような「日だまり運ぶ」。初心者の句ならつい直したくなる。それでもって黙ってバスに乗っている高齢者が彷彿とする。バス会社のスローガンにさえなりそうな言葉を「冬枯」という季語で俳句の世界に引っ張り込んでいる。
石鹸玉吹き従へて橋渡る
歩きながら石鹸玉を吹くと、その人の後ろに石鹸玉が金魚のふんのようにくっついていく。それを「吹き従へて」と詠まれたことにまいりました。ハーメルンの笛吹きを連想。
筍や討ち取られたる如くなる
「たけのこ」という落語を想像した。隣の家から筍がこちらの家に伸びてきて、それを食べちゃうわけです。隣の家から文句を言ってきたら、「いや、領界を侵してこちらにきた筍はいわば曲者であるから手打ちにした」というんです。これとは関係なく、ごろごろ転がっている筍が、もしかすると首を刎ねられた侍であると見えることで十分楽しめる。
小川軽舟選と評(岸本尚毅『雲は友』ふらんす堂)より************************************
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夕潮にあはれ泳ぐ子盆近し
こんな詠嘆調の言葉は岸本さんの句では珍しいがものすごく効いている。「お盆過ぎたら海に入るな。あの世に連れていかれるから」とよく言われます。その時期、しかも逢間時にに泳いでいる子の「あはれ」。「寒晴やあはれ舞妓の背の高き 飯島晴子」同様「あはれ」が効いている。
なめくぢを越えゆく蟻や梅雨菌
一句に季語は一つであるべきというのが常識なのに三つも入っている。当然起こる反発をわかっていて挑戦的。しかし世界には様々な季語が同時に存在する。それをリアルに受け止めれば季重なりは当然出てくる。写生を突きつめると若冲の絵のようにときにグロテスクにもなる。その典型がこの句。
妹叩きし姉が蚊帳に泣く
『ホトトギス雑詠選集』に浸った中で、ふっと出てきた発想ではないか。種々雑多な市井の風景。
風鈴やいまは仏の今いくよ
中七がギャグのようでおかしい。芸人の死を笑うような冷酷さもあるが、そおの芸人の笑われることに一生を捧げた哀れがシーンと染み渡ってくる。
古本屋ありて小諸は夏休
あの小諸という土地の懐かしさがとてもいい。
ひつぱられ今川焼は湯気漏らす
今川焼は皮に弾力があるので簡単には割れない。割ろうとすれば微妙に伸びて綻びができて、そこから湯気が漏れる。岸本さんには「焼薯を割つていづれも湯気が立つ」があり、今川焼と焼薯の湯気の立ち方の違いを文芸にしようとしてる。そういう興味の向かい方が岸本さんらしい。
東宝はゴジラの会社初御空
「初御空」の晴々とした感じがとても好きです。「今いくよ」にしろ「ゴジラ」にしろ固有名詞によってその時代につながっているような懐かしさを覚える。
灌仏や人居る上を蜂高く
花鳥諷詠を感じた。空高く飛ぶ蜂も視点から見た灌仏で、何か楽しそうにワヤワヤしている人たちと蜂との関わりがあうようなないような。その人たちも一人一人の人が描かれているわけではなくて、ただ無造作にいる。その世界のありようが花鳥諷詠。
老いし猫穴子の頭もらひけり
老いた猫よ穴子の頭の二つの物の組み合せハッとした。取り合わせではないが二つの物のそれぞれの存在感を引き立てるのは岸本さんの巧みなところ。
風鈴の下に老人牛乳屋
私も岸本さんも老人というほど老いていないが20年後の予見をまじえた自画像という気がする。この世界に憧れていることを感じる。この寂しい安らかさて何だろうと思う。
30年ほど前、飯島晴子の指導句会に主席したとき、彼女がある人の句にあった「錦帯橋」という言葉に「こんな言葉が俳句に入って来られるんですか」激高したことを思い出す。そのとき一句に入って来られる言葉とそうでない言葉を考えている先達に驚いた記憶がある。
今回の「いかに言葉を制御するか」という感覚もまさに晴子さんの激高した内容に沿っていて非常に刺激的で勉強になった。
岸本さんが小川さんを「腕っぷしが強い」と評したのが印象的であった。鷹主宰の句は一つの一つの言葉に負担をかけず強引に句を仕立てないのでそういうふうに思ったことがなかった。けれどなんでもないことを季語の力で俳句の世界に引っ張りむは辣腕といえるだろう。
季重なりや「嬉しい」「楽しい」といった感情語は俳句を始めたとき先生から必ずしてはいけないと指導される。そういった禁忌が身に沁みついているのだが今回の企画は禁忌にまで踏み込んで論評していて新しい句をつくるためのヒントに満ちていた。二つの峰を仰ぎ見る思いがした。