天地わたるブログ

ほがらかに、おおらかに

レッグマジックサークルとつきあう

2013-10-31 18:17:43 | 身辺雑記

今週はじめアパートから粗大ごみとしてレッグマジックサークルが出た。
健康器具にはほとんど関心がないが、こいつはあってもいいと思っていた。
はるか昔、ぶらさがり健康機とかいうのが出たがこれはだめだと思った。多くの人が買ったもののハンガー掛けに転用したようだ。

レッグマジックサークルはいつか海の宿にあったのでやってみた。
ふだん使わない内転筋にそうとう効いた。
そのときからあってもいいなあ、たぶん飽きないだろうと思った。
が、家に置くとなると場所がない。それで購入までいたらなかった。

それがアパートに出たならいうことはない。
廊下の奥に置いておけばいい。
ユーチューブなどみると、これを30分も使っている人がいるようだが、それは無謀。
飽きる。飽きたからごみになってしまったのではないか。
それに30分もやったら内転筋を痛めそう。
この道具は1日せいぜい5分。
内転筋はだいたいふだんの生活でそう使わない部位。

ということは、少し刺激してやるだけでいいということになる。
3分やるとそうとう体が熱くなる。あれば気分転換になるという道具。
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辻仁成に「幸せ」を教えた女

2013-10-30 18:09:42 | 

辻仁成『刀』(2004年)は彼の半生の自伝といっていいだろう。

ここに登場する刀は作者の母方の祖父からのもの。福岡県大野島で江戸時代、立花藩出入りの鍛冶職人をしていた祖父は明治維新、鉄砲屋となって日本軍の武器の修理等を担当した(辻はこのことを『白仏』に詳しく書いている)。
敗戦に際し進駐軍の捜査を恐れて銃・刀剣のたぐいを早津江川にほとんど捨てたのだが、どうしても捨てられぬものが「黒刀」であった。

これを辻は成城大学へ入学するとき桐の箱からひそかに持ち出した。
20代、バンド活動に熱中するときも、ときおり刀を取り出して振ってみたりて付き合う。
音楽、映画監督、小説執筆と、まさに刀を振り回すようなエネルギッシュな、何が目的かわからぬようなすさまじい活動のなか、辻は何回か2度結婚して、
ナナと運命的な出会いをはたす。

ナナはどうやら女優・中山美穂のことらしい。
ナナは辻に自分と関わるなら「覚悟」を迫る。小説家は嘘を書くのが商売だから言葉は信じない、私と一緒になって、子供をもうけて一緒に暮らすことを覚悟してください、と要求する。
世間的な「幸せ」など眼中になかった作家にとってこの覚悟の要求こそ、刀を首に当てられた感じで、そのアイロニーがおもしろい。
人生の予定表を思春期に作成しそれを履行するようなエネルギッシュな生き方をしてきた辻が刀であるとするなら、その生き方を制し映画はやめて小説に絞ったほうがいいと無用な野心を諌め、家庭を考えて生きていったらと迫る女も刀である。
双方の刀が触れ合う火花とその後の静かな生活。ここに妙味がある。
辻は中山によって救われたような気もする。

この作品は写真週刊誌につきまとわれて本国では住みづらいのでパリに安住の地を求めた有名作家と有名女優の記者会見のような感じもする。
辻は誠実にこまかく書いている。
本章のはじまる前に作者このように書く。

二度離婚して三度結婚した私の人生はお話するには値しない。こっそりとこれを異国の地で認めながらも、このような半生を人さまにお伝えすることが小説家の仕事なのだろうか、と悩む。なのに、こうやって書きはじめてしまった。私の中には幼い頃より一本の刀が棲み着いており、この頃は毎夜のごとく夢に出てきて、書け、と私を脅かす。書かなければお前を斬る、と刀は宣うのである。
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俳壇の諸作11

2013-10-29 10:51:15 | 俳句・文芸
「鷹」2013年11月号より転載


わが産道抜けきし子らよ蔦青し 遠藤 由樹子
「未来図」七月号より。
女性が出産をかくも無機質に構造的にとらえた句を知らない。サンドウという音感は「参道」に通じ宮参りのめでたい情緒を醸し表向きのぶっきらぼうを内でしっとり支えている。突き放した物言いですかっと詩を立てた「肝っ玉母さん」、あっぱれである。

仲見世に激辛七味夏到来 柏原 眠雨
「きたごち」第293号より。
「激辛七味」は形容詞的に「夏」を修飾するのか、省略した調味料のことを言っているのか。筆者は「激辛七味夏」と夏にかかっているとみるが、いかつい漢字を繰り出して畳みかける迫力がまさに仲見世の夏である。「到来」と最後まで硬く押し切ったのが心地よい。

大楠の根方御輿の置かれけり 松尾 隆信
「松の花」八月号より。
きわめて単純な構造の句。楠の根の上の御輿はめでたい配合。照葉樹林こそわが国本来の植生という説もありように楠には神道的エネルギーを感じる。相撲道の意識を強く持つ白鵬がこの句にどう反応するか。日常の日本語をかなり操ることのできる外国人が日本の奥義に至っているかみるための試金石のような内容である。

ざぶざぶと水が精出す五月来ぬ 川名 将義
「銀花」七月号より。
「ざぶざぶ」という擬音は平凡と思いきや「水が精出す五月来ぬ」という流れの中でどんどん力強くなっていき「五月来ぬ」で動きがたく決着させている。言葉相互の連関のよさが一句を貫いている。

薔薇の香を来てコーヒーの香に憩ふ 高橋 悦男
「海」八月号。
薔薇もコーヒーも芳しい香り。両方を満喫する至福の時間でありコーヒーの味もいや増すだろう。二種類の香を詠んだ句<アマリリスまでフリージアの香りかな 高野素十>は時間の流れを断って一点に凝縮させている。高橋句はその点ぬるいが素十句にある多義性はなく、時間の流れを豊かさに転じている。

薔薇園の三歩目以降もう匂はず 片山 いづみ
「街」第102号。
この香りの句もおもしろい。「三歩目以降もう匂はず」は大胆な誇張だが場所が薔薇園だと納得する。ずっと奥まで続く多種多様な薔薇が見えて豪華絢爛である。

出払つて馬濃く匂ふ橡若葉 檜山 哲彦
「りいの」七月号より。
「出払つて」でがらんとした厩舎が奥まで感じられる。馬がいないことで匂いを強く感じるのはうなずける。外に明るい橡若葉を配して厩舎の薄暗さが印象的。

のろのろと生きて深紅の罌粟の中 平松 彌榮子
「小熊座」七月号より。
女性の書くナルシズムは枚挙にいとまがないがこれは不思議な感性。最初からナルシズムに溺れるのではなく序盤は卑下しているのが興味深い。これが効いて「深紅の罌粟の中」が浮き上がることなく所を得ている。

メコン川永久に濁りて永久の夏 高野 ムツオ
同号より。
かの地へ行くと春夏秋冬というはっきりした四つの季節はまさに日本の自然であり、また文化の根源であると痛感する。中七下五は当地の宿命を言い留めていて物悲しい。マルクスが揶揄的に言った「アジア的停滞」とこの句は通底しているように思われる。川は流れていても夏が動かないことに作者の諦観が極まる。

畳み来る波を眼下に青き踏む 水口 楠子
「たかんな」七月号より。
作者は高台の上から海を見下ろしている。断崖に波が来てはぶつかる。「畳み来る波」の情緒が今いる上の大地の春の草に響いて雄壮な春の一景となっている。

草笛のことば紡いでゐるような 森川 淑子
「鴻」七月号より。
草笛のあの音色を「ことばを紡いでゐる」とみたのが出色の感覚。苦心して鳴らそうとしているのだが確かに言葉を編み出しているかのように感じられる。

脱ぎかけの竹の皮なり脱がせたし
 橋本 公子
「対岸」八月号より。
そう竹の皮はたいていぐずぐずしている。風に耐えていつまでも皮のどこかがくっついている。筆者もこのように感じていらいらするあまり、つい身近にある手のかさぶたを早く剥がして血を見てしまう。

告げられし余命のひと日新茶汲む 川添 フミ
同号より。
上五中七重たい事実をさらりと述べている。はらわたに沁みわたるような新茶の味は格別。余命を告げられたとき自分は何を真っ先にしたいのか、またかくも清新な境地に至ることができるのか深く考えさせられる。
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多摩川そぞろ歩き

2013-10-28 15:50:24 | 身辺雑記
土曜、日曜つづけて外出して人込みに入った。人疲れした月曜、東京の空気が乾いた。「爽やか」なる季語がふさわしい。
多摩川をひとしきり歩く気になった。
多摩川はそうとう水嵩が増したようだ。川端まで水が来てとどまっている。

川端の動かぬ水や秋日和

川歩きは意外におもしろい。石ころ道もあれば砂利もある。やわらかい草の道もあれば荒草を踏むこともある。芒の中は要注意。いい道だと思ってずんずん行くと水たまりが待っている。
花芒浮かれて行けば水を踏む

荻芒川は水辺を無くしけり
荻、蘆、芒、背高泡立草、その他イネ科の背の高い植物などで川はどこまで本流が来ているのか遠望していてはわからない。
川の植物の強さを思う。彼らは洪水を浴びても泥まみれで生きている。


広い河川敷は植物だけでない。とある道をたどると彼らの村へ行きつく。男に「こんにちは」というと「こんにちは」が返る。うん、これでいい。
さて煮炊きの水はどこから汲んでくるのか。公園の水道はそうとう遠い。多摩川の水か。

川の音鉄橋の音秋高し

海恋ひ本流はやし爽かに
秋の川一途に紺を深めけり



仲宗根美樹に「川は流れる」(1961年)という楽曲がある。
これを聞いた10歳のころから「川が流れる」のではなく、川というのはどかんとそこにあって、水が流れるのではないかと思ってきた。日本語って変だよなと……。
そしてこの重箱の隅をつつくようなみみっちさが小生の詩の発育を阻んでいると反省したりするのだが、
多摩川は勢いよく流れている。
日本語文法など思わないとこよなく気持ちがいい。
うん、川は流れている。

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添削講師打合会

2013-10-28 04:23:13 | 身辺雑記


きのう中野サンプラザでNHK学園俳句講座、添削講師打合会が行われた。
全国133名の添削講師のうち71名が参加した。
学園側から、俳句講座について、添削指導内容について、リポートについて、われわれ添削講師に対して詳しい説明と要望が述べられた。
各添削講師の自己紹介など含めてこれで約3時間を消費。
われわれ添削講師の方から日ごろ抱えている疑問、悩んでいる問題、困っていることなど述べる段になったとき時間は30分ほど。
添削講師に与えられた時間が少なくて残念であった。
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