天地わたるブログ

ほがらかに、おおらかに

報道に比喩表現は要らない

2024-08-05 05:25:10 | 身辺雑記




写真は何日か前のNHKテレビのテロップ。
老人の繰り言でこの話題を繰り返すが、「台風の爪跡」「地震の爪跡」といった報道における「爪跡」にはうんざりしている。どこに爪の跡があるのかと思ってしまう。事件・災害が残した被害や影響を比喩的にそういうのであるが、報道から比喩的な要素を削り取ってほしい。ここは「惨状」という言葉でいい。比喩が介入すると真相の伝達が甘くなる。比喩が威力を発するのは俳句、短歌など文芸ものである。

倒木に爪跡三筋涅槃雪 わたる
これは「爪跡」を文字通りの意味で使った句である。この句を書いたとき報道機関の使う比喩的な「爪跡」に対抗する気持ちがすこしあった。
俳句における写生は言葉をもとの意味で使う意識がある。言葉の原点に立ち返る意識で言葉を凝視する。
先日、
盤石に切り立つ崖やほととぎす わたる
という句をある句会に出した。採った人は雄々しい景色が見えるといったが採らない人の意見がおもしろかった。「盤石」がわからないという。その人の意識に「横綱の強さは盤石である」があったらしい。つまり比喩的な「盤石」を思ってしまったようだ。しかし文脈は比喩ではなく盤石という物を書いているはずである。
言葉というのは原義からそれてどんどん比喩的な方向へ流れていく。報道機関がそれに拍車をかけているのではないか。「爪跡」「爪跡」と何度も聞いているうちに人はその本来の意味からはるかに遠いところへ連れて行かれる。「盤石」も同様である。

「風物詩」という言葉も報道でよく聞く。原義は風景や季節をうたった詩のことであるが、意味が転じて、今は季節感をよく表ししている物事である。これはそう害がないと思いきや、耳障りがよく使い勝手がいいということが本質を見る意識を鈍くさせる。頻出する慣用語は人の意識を鈍くするのである。
先日ある句会に、「螺子溝がつぶれて」というМの句が出て目を見張った。ここに小生と同じ感性の仲間がいると手を叩いた。けれど世間や辞書はこれを「螺子山」という。広辞苑は「ねじの凸部」と説明する。違うだろう。凹部のことを「螺子山」と呼んでいる。残念ながらМと小生は多勢に無勢で世間や辞書に勝てないが、言葉の原点に立ち返ることが俳句をやることの大いなる意義ではないかと思っている。
「盤石に切り立つ崖やほととぎす」について「盤石を岩盤に置き換えたらわかりやすい」との意見が出て乗ろうかと思ったがやはり「盤石」という響きを原点で使うのが小生の行き方であると思っている。

報道機関は「強姦」という言葉をあらわ過ぎると見たか「性的暴行」とゆるくした。それはまあいいかと思っていたら最近、「不同意性交」という言葉を使い始めた。これは工夫があって本質を的確に表している。「性的暴行」よりはるかにいい。
物事をしかと見据えた言葉を意識してほしい。ゆるくなってないけない。報道も俳句も。

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猛暑の緑陰を歩く

2024-07-31 06:28:58 | 身辺雑記




西国分寺駅近くの姿見の池はあおみどろが繁茂し深い色あいである。緋鯉と白鯉がいてあおみどろに潜って泡を立てる。

6月ころ猛暑日に歩くことができるか、いいか悪いか、考えていた。今そうなって週4日歩いている。池の向こうの森を。
8時からの清掃勤務をする前7時半にここへ自転車で来る。約30分3400歩をあるく。
気温は30℃を越さないだろう。暑いと感じない。木々の葉が日光を防いでくれる。緑陰から出て日光を浴びるととたんにめげる。
葉はなんと日光に強いのか。たくさんの葉を見ながら歩く。今月鷹主宰が発表した「どの樹にも智慧が若葉の形なす」はいいところを狙ったなあと感心する。主宰は屋内の生活が多いとみるが自然への感覚が鋭い。さすがだ。






どこにもコンクリートがない。土の上。しかし土には苔があったり黴が生えたりしている。白い黴は見物である。踏まれてもなんともないみたいで毎日そこにある。強い。見習うべきである。






黴があるかと思えば落葉の堆積がある。ここはふかふか。足が沈んで気持ちがいい。歩道ではないみたいだが歩いて気持ちいいところはどこでも歩く。









79歳の吉永小百合が体がもたないと映画に出られないとスクワット60回やっているという記事を読んだ。
それでスクワットをやめていたがまた復活させた。登りの途中でスクワットをする。歩く途中のスクワットは効く。
腕立て伏せもときおりやる。きつい。
あまりきついと続かないのでほどほどにしている。

11時にここへ来て歩いたこともあるが暑かった。葉っぱもこの時間は暑さを遮断できない。やはり7時半である。
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何度も返信いたしません

2024-07-30 04:21:45 | 身辺雑記

青い銀杏


ブログを書き始めて13年たつでしょうか。大勢の方が読んでくださいます。
中にはコメントをくださる方がいて励みになっています。コメントの内容はエールであってもブーイングであっても謹んで承っています。
人の俳句を間違って掲載するのはご法度ですがしばしば間違えてしまいます。それを指摘してくださることに衷心より感謝しています。また、植物の名称を教えてくださる加藤さんはじめ有識者の方にお礼申し上げます。そういうコメントには返信いたします。
最近コメントくださったサチさんは30年前の旧友とわかり驚きました。
彼女は、「高尾山ひとり吟行」にコメントくださいました。そのとき北岳の話題があったので山つながりで納得し、返信しました。
旧交をあたためたのはいいのですがその後、今日は何をするというような彼女の事情を伝える場にし始めこれに返信を求めるようになりました。
困惑しました。
そういうやりとりはブログではなく別のツールでするものと考えます。
ブログの内容に関することについてコメントするのがコメントしたい人のマナーと考えます。
誤字・脱字、事実の誤りなどの指摘は慎んで承り、お礼の返信をします。けれど記事に関係ないことに言及されても困ってしまいます。
俳句のことに関してしばしば伊勢史朗さんからコメントをいただきました。
それはありがたいのですが、それにこちらから返信するのは1度。見ましたよ、という意味です。
ブログ作者はピッチの中でプレーする選手でありコメント者は観覧席にいる見物人です。
ホームランを打った外野手に観覧席から拍手が来て選手は帽子を取って応えます。それとブログ作者がコメントに応えるセンスは同じです。何度もやりとりいたしません。プレー中にピッチと観覧席とでやりとりを続けませんよね。
「鷹〇月号小川軽舟を読む」という企画を月読さんと長い間やっています。ピッチの観覧席とのやりとりは場違いですが、当ブログにおいて新しいテーマを立てて俳句を論議したいということであればそれは受け取めます。観覧者がピッチに降り立って小生と一緒にブログ作者になることは歓迎します。
ブログは本流です。沿岸に手を振る人をコメントと考えます。本流に乗ってカヌーを操る小生は手を振る人をちらと見てひたすら先へ進みます。
会釈は1度です。どうぞ、よろしく。


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酷暑お見舞い申し上げます

2024-07-27 12:32:55 | 身辺雑記


国分寺市最北の窪東公園の循環河川。
結が湯のように寛いだので爺もそうしてみた。
ハワイ・ワイキキビーチとはいかないが気持ちがいい。









結がワニみたいに這いまわる。
爺もそうしてみた。ワニのように元気でいよう。










爺の年まで68年。水死せずに生きろ。
水は楽しい。5歳も73歳もばかなことをして生きようぜ。

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100点は気持ちいい

2024-07-25 05:04:26 | 身辺雑記
 


長男の遺した家族3人と犬2匹がうちへ来て2カ月になる。
下を彼らが占領した形、爺婆は2階に住んでいる。ゴミがたくさん出る中に答案用紙があり全部〇。気持ちのいい見物ゆえ写真に撮った。
6年生の漢字テストであり50問正解。爺でもひとつくらい間違えそう、よくできたとしばし眺めた。上の子は中学3年生で受験勉強している姿をよく見る。下の子が勉強するところを見たことがなかったが読み書きは悪くなさそう。
小6と中3の女の子は妙な存在である。俳句にすると
青無花果破瓜期の娘父を避く
という感じで扱いがむつかしい。女同士どうし息が合うのか婆は2人のよい話し相手になっているが、爺は路傍の石かもしれない。少女でも婆さんでも女はむつかしい。手なづけようとは思わない。それでも100点が気に入ったので小6に1000円やった。中3はよく勉強するので同額をやりバランスをとった。
1000円でも喜ぶからまあよい娘かもしれない。
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