小川軽舟鷹主宰が鷹8月号に「蟠る」 と題して発表した12句について、山野月読と意見交換する。山野が〇、天地が●。
ばいきんを洗ふ幼や柿の花
●「ばいきん」は親や周りの大人が言います。幼児は内容は知らないものの「手を洗ってばいきん落とすのよ」と繰り返し言われることでその言葉を覚えます。それを幼児の感覚で取り込んで臨場感ある風景にしました。
〇「バイキンマン」もいて、こどもにはますます親しみのある言葉ですが、これを俳句に持ち込むとは、本当に油断なりません。作者の「幼」への近しさが感じられます。
●芭蕉が俳句は三つの子どもの感性で書け、と言っていますがまさにそれですね。
徳川の昔も近し牡丹園
〇 名古屋に徳川園という牡丹園がありますが、そこに行ったのかな。徳川家所縁ということで、そうしたイメージの様々が頭を過ったのでしょう。
●中七の「昔も近し」なる逆説的な言い回し、おもしろいと思いました。300年ほどの昔は季語の時間から見れば束の間です。作者は地球の成立してから今に至る時間も念頭にありますね。時代劇の一シーンが立ってくるような錯覚に陥ります。
良港は山陰深しほととぎす
●「山陰深し」で深く切り込んだ湾を想像します。水深もありそう。
〇風を避けられるのは良港の必須条件ですからね。この措辞の内容そのものはよく言われることで特に新鮮でもないのですが、下五に「ほととぎす」と措かれると、この何でもない措辞が俄然色を帯び始めます。
川底の石蹴立て鮎のぼりけり
●鮎は魚で足はないのですが「石蹴立て」に矛盾をあまり感じませんでした。ぎりぎりですが。
〇「川底」に腹を擦るほどの遡上の様子は目に浮かびますね。「蹴立て」るというは、必ずしも足で蹴ることが必要条件ではないのではないですかね?「波を蹴立てる高速船」とか言うように、荒々しさを含意した表現かと。
●「波を蹴立てる高速船」はニュースによく出てきて嫌です。このあたりに擬人化を使うむつかしさがあると考えます。擬人化が慣用になってくると嫌ですが、この鮎は擬人化の許容範囲かと思いました。
○「波を蹴立てる」はダメですか。なかなか厳しいラインですね。
明星に闇うるほふや河鹿鳴く
●闇に湿りを感じています。「河鹿鳴く」もこの情感を支えています。
〇「明星に」の「に」は、「明星」があることによって、といった原因を示していると思うのですが、これだけでは中七になかなか付いて行きにくいところかと。それを作者もわかった上での季語の斡旋ではないかと。私なんかはこの下五まできて、初めてこの措辞への共感をもって味わうことができる感じです。
●そうです。下五の季語ゆえふくらんでいます。
山毛欅芽吹き山梳る沢あまた
●「川底の石蹴立て」のこの「山梳る」の作者得意の擬人化です。髪を梳くときの感覚で自然の造型を見ています。容易に登れないV字谷を思います。
〇「あまた」の「沢」ひとつひとつを櫛歯として見立てたわけですね。作者は、この「梳」られた山面とは別の地点から、この景を捉えたのですかね。
●山頂かどうかはわかりませんが高いところから俯瞰しています。山毛欅芽吹いている山を髪の毛と見ています。
水音の広き夜明や水芭蕉
●「水音の広き夜明」で尾瀬の平原を思いました。
〇 ほー、そうですか。私は下五の「水芭蕉」まできてようやく尾瀬を思いました。でも、尾瀬をイメージできた後だと、上五・中七の「水音の広き夜明」という措辞は、まさに尾瀬に相応しく、尾瀬以外考えられない気さえしてきますね。「夜明」であることで、その時間帯の独特の色、ドーンパープル的な色に染まった水面も思わせます。
湖は満ちてあふれず桐の花
●通常の湖はこういった状態です。それに敢えてこういった言葉をあてがうと湖が神々しく変身します。無から有を引き出すテクニックが冴えました。
〇実際には琵琶湖含めて、氾濫することもあるのですが、そうした事象とは無縁の把握で、それでなお一定の納得性がある微妙なラインです。作者が今見ている「湖」は普通にの状態であるだけなのに、それを敢えて「あふれず」と否定形でもって表現すること。これがわたるさんのいう無から有を引き出すことだと思いますが、まだまだ可能性のあるレトリック領域ですね。
●この技を使うと俳句で描ける領域はぐんと広がるでしょう。作者は鷹の主宰ですから常に新たな技を駆使しようとしています。ただしその技に全員が気づくとは言えません。気づいて感動する、次にそういう手を自分自身も編み出す。「私は手本を示しています」という主宰の声が小生には聞こえます。
○私もここで門前の小僧になりたいです。
梅雨近き雲に白山蟠(わだかま)る
●「蟠る」は、渦状にまがる、蛇などがとぐろをまく、といった意味です。五音もある動詞を大胆に使っています。
〇五音と言えば先程の句の「梳る」もそうですね。この句は、静と動を反転させた面白さですかね。常に動いているであろう「雲」ではなく、不動であるはずの「白山」に「蟠る」という動作を宛がっていて、これによって、私が言ったような不動である山という認識の一面性を示しているようです。
●俳句は名詞に比べて動詞の使い方がむつかしいとずっと思っています。特に五音にあるような動詞は。下五に「蟠(わだかま)る」を置くのは覚悟が要ります。作者は白山が蟠っている、と書いていますが、ほんとうは雲が蟠っているのです。雲と白山をすり替えるという技を見せています。このすり替え技法を駆使した有名な先行句は「荒海や佐渡によこたふ天河 芭蕉」でしょう。ここで芭蕉は天の川が横たわっていると書いていますが横たわっているのは実際には佐渡です。しかし読み手は錯覚に陥って異空間を楽しみます。鷹主宰がこの芭蕉句を意識したかどうかは知りませんが、熟達者は読み手を錯覚のなかで楽しませてくれます。
○ここで、「荒海や」の句を並べ示してくれるとは、わたるさん流石です。理解が進みました。
一堂に信徒蒸さるる走り梅雨
●梅雨時、大勢の人が集まっていて蒸し暑い。
〇面白い措辞です。「蒸さるる」のは「信徒」であると同時にその原因も同じ「信徒」ですからね。
殷々と念仏うねり汗滲む
〇 先の句との繋がりで言えば、集まった信徒一堂、「念仏」を続けるうちにいよいよ気分も高まるのか、「念仏」のリズムに応じてか、身体も「うねり」始めるのでしょう。
おかしいような、怖いような。
●宗教に詳しくないのでどこの宗派か知りませんがこの句は押して来ます。
川見えで川音高き青葉かな
●最近、小生は「万緑や音して水の見えぬ渓」というフレーズに執着していました。中七の言い回しがいまいち納得できなかった折、これを見て、やられたと思いました。
○こうしたことって、特に川音ではよくありますね。四季問わず地形的理由などでも起こり得るのですが、下五「青葉」ゆえの「川見えで」を味わいたいです。
●山へ行けばよく感じる風景です。ゆえに小生も狙ったのですが主宰に模範解答を見せられた思いです。これでこのシーンから撤退せざるを得ません。「川見えで川音高き」は無理なくできていていいです。簡潔にして本質を描く、ということを毎月、鷹主宰から教えられています。