天地わたるブログ

ほがらかに、おおらかに

十全に翅をひらいて白蛾死す

2016-08-31 15:20:16 | 自然


8月は毎日、蟬、黄金虫を掃いた。
1階は地に近く蜘蛛が多いが2階以上の廊下は蟬と黄金虫を掃いた。
どちらかというと黄金虫が多い。
ぼくの清掃するアパート、その廊下は外へ開かれていて風雨にさらされている。雨が降れば濡れ、晴れると砂塵が舞い込む。
濡れた雨は自然に乾くが砂塵はたまる。
砂塵に地に棲む蜘蛛の巣がからまって綿埃のような面妖な状態になる。これは掃くと箒にまつわりついて難渋する。
埃関係は実体がうろんで掃き掃除はとても厄介。
これに比べて蟬と黄金虫はころころしていて死んでも好ましい。個体はとてもいい。
地にいる彼らは半分ほどまだ命があって掃くと飛んだりする。
塵取の中でもぞもぞする。

台風の雨の夜の出来事だろう。
朝アパートへ行くと廊下に白い蛾が来ていた。はじめての白いお客さまである。

濡れもせで白蛾飛び来し夜の雨


箒を近づけると一間ほど飛んだ。面倒なのでそのままにしておいたら翌日そこにいた。
手で翅にさわっても動かなくなっていた。
みごとに翅の張った屍であった。

十全に翅をひらいて白蛾死す

死んでから翅の色に碧が加わったような気がする。
白蛾が死んで8月が終わった。


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自衛隊の展示演習を見る

2016-08-30 04:55:36 | 世相


8月28日、日曜日、つれづれにテレビ番組表を見ていてチャンネルNECOの次の番組に注目した。

2:00 ウェポン・フロントライン 航空自衛隊
3:30 ウェポン・フロントライン 海上自衛隊
5:30 ウェポン・フロントライン 陸上自衛隊


はじめは『戦国自衛隊』のような劇映画かと思った。現代と戦国時代が交錯するファンタジーは好きであった。
その種の劇映画かと思ってテレビをつけるとドキュメンタリーであった。

劇映画とは違う迫力にひきこまれた。
テロップが出るとともにていねいな解説がされるがドッグファイト演習で何が要点であったかわからなかった。
また、海上自衛隊編でイージス艦に必ず護衛艦が付き添うことも知らなかった。護衛艦の対潜水艦対策のノウハウの複雑さ、それを鍛錬する方々の集中力などの凄さに敬服する心境であった。
陸上自衛隊の10式戦車の高性能に驚くとともに橋を短時間に作る工作機に目を見張った。

市中を走るクルマの銘柄にほとんど興味のないぼくは軍事にかかわる飛行機、船、戦車などのことをもっと知らなかった。
軍事の基礎を知らないで日本の平和も安全保障も語れない気がした。
インタビューに答える自衛官の方々の毅然とした対応に好感を持った。
自衛隊広報部が中心となって作った番組であろう。
F-4ファントム機はそうとう古く近代戦には後れを取るようなニュアンスがあり新機種導入を図る意思を強く感じた。
そういった自衛隊の意図はあるのだが兵器は新しくないと自分たちが死ぬというのはわかる。

自衛隊の諸君はいざ戦闘となったら逃げだす人がそうとう出るのではと思っていたがここに出る自衛官の方々の発言を聴いていると身を粉にして任務に当る気がして心強い。
そういう人を選抜して答え方をマニュアル化していたにしても日本人特有の論理観とまじめさが出ていた。

しかし海上自衛隊員にかなりの数の女性がいて乗船して活躍しているのを見て奇異な感じがした。男女平等といっても国の戦闘行動に女性が加わるのは妙な感じがしてならぬ。女子プロレスラーが我を忘れてことに邁進するように彼女たちも戦闘に参入していくのだろうか。

軍事演習を日々するのが仕事というたいへんさ。その訓練はほんとうは実現しないほうがいいのである。
これはオリンピックという晴れの場で力を出し切るための訓練とはまったく異なる。
オリンピックは必ずその時が来るが、自衛隊員にその時は来てほしくないものである。来てほしくない事態のために過酷な訓練に明け暮れ戦闘に習熟する人生とはなんだろう。

軍事の展示演習は考える糸口をたくさん与えてくれた。
水と平和はどこかからやってくる、ただである、というのが一般的な日本人の考えである。北朝鮮のミサイルがいつ来るかわからぬ情勢になってもそれは誰かが、自衛隊かアメリカ軍が打ち落としてくれるだろう、と漠然と考えている。実際に日本の陸に着弾することをほとんどの人は想像していないだろう。
しかし撃たれたミサイルを迎撃するのはそうとうむつかしいらしい。
迎撃のためにどんな武器がありどこまで守備できるかを具体的に知らなければ安全保障は語れないだろう。
抽象的平和論では国が危ないと思う。
政権を担っていない国会議員は軍事を知らずに平和平和と唱えている風潮がある。

平和平和と唱えている隙間に戦争が忍びこむ、といったのが小室直樹であった。
軍事の基礎を教えてくれるこういった情報はそれがどこの筋のものであろうと知るべきだろう。
市民と自衛隊員が近づくことが国の安全保障にとってきわめて重要であると思う。
大手テレビ局は馬鹿笑い番組を減らしてもこの種の軍事情報を伝えるべきではないか。抽象的平和論は戦争をもたらす。
とにかく物事は具体的に押えるべきだろう。
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俳句はいつもポケモン捜し

2016-08-28 16:20:45 | 俳句
きのうの讀賣新聞の「時の余白に」というコラムに編集委員の芥川喜好氏がポケモンのことから書きはじめている。

街のあちこちにひそむという架空の生き物を求めて、膨大な数の人間が捕獲器を手に一斉に歩き回っています。
ひと月前、テレビのニュースに初めて映し出されたその光景は、驚くべきものでした。
現実の風景とゲームの画面を融合させた拡張現実(変な言葉です)という技術への、驚きと称賛があります。


ポケモンをニュースの画像で見てぼくはゲーム界が俳句を追いかけてきた、と直感しました。
現実の風景の中でポケモンを捕獲するという営為は、俳句のおける嘱目のエッセンスにかなりに通っています。
たとえば以下のような私鉄沿線の風景を見て俳句をつくろうとする場合、ぼくらは何を季語にするか考えます。



そう、この風景の中にポケモン(季語)を捕獲しようとします。
朝顔がはっきりありますからある人は「朝顔」をポケモンとしてつかまえるでしょう。それをポケモンにしたくない人は空の青さに注目して、「秋の空」「秋高し」というポケモンを探し出すかもしれません。
または、朝顔をかこむ「秋草」、そこに生きる「蟷螂」(かまきりのこと)を自分のポケモンとする人もいることでしょう。
爽やかさより暑さを感じる人は「残暑」「秋暑し」をキーワードとするでしょう。
ゲームと違うのは風景の中に現れるポケモンは一種類ではなくていろいろあることです。

風景はいろいろなポケモンを含んでいます。
ゲームではどうやって捜すのか知りませんが、作句では「いける!」とある季語に電流が走ります。この季語を核に風景を再生産するのが俳句の妙味といっていいでしょう。
体調や気力の状態により季語を中心とした世界は複数発見できることになります。
同じ場所へ複数の人が繰り出して俳句を書いておもしろいのはめいめいがまったく異なる世界を創り出して見せるからです。

讀賣新聞の芥川氏の記事はどうやらポケモンの流行を危ぶむという論旨のようです。
現実と虚構の区別がつかなくなった行動、前後の見境ない無神経な振る舞いへの、驚きと憤りがあります。ついては交通事故も起きました。
…………
人間はこれほど簡単に、やすやすと、何かに操られてしまうものか、これほど無防備に、疑いもせず、一斉にはまってしまうものか、という驚きです。その薄気味悪さです。


このあたりを読むと小生のように俳句をする輩にも通じるところが多々あり、ぼくらは薄気味悪い人種かもしれないとすこし反省します。
たとえば吟行で大勢の人があちこちに散って同じような小さな手帳に字を書いています。そんな光景は一般の人から見てそうとう違和感があるのではないでしょうか。
しかし交通事故を起こす確率は低いのでまあよしとしましょうか。

いずれにせよ芥川氏の「時の余白に」を読んで、俳人はゲーム業界より先んじて季語というポケモン捜しをしてきたのだなあと感じた次第です。
俳人はシーラカンスのように時代から取り残された存在かと思っていましたが意外に先頭を闊歩しているのかもしれません。
ゲームのポケモン好きの方は言葉のポケモンである季語を捜すこともしてみてはいかがでしょう。もっとこころゆさぶられる時間が出来するかもしれません。

さあこれから季語というポケモンを探しに行きませんか。
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俳句甲子園松山大会●いざ審査

2016-08-28 12:21:52 | 俳句
8月24日に書いたぼくのブログにおいて、高野ムツオ先生の名前を間違えてしまいました。教えてくださる方がいて冷や汗をかきました。
高野先生にはお詫びするとともに修正して掲載しなおす次第です。




選手入場

審査員決起集会
8月20日(土)、審査員全員8時に本部集合。
一般審査員48名と審査員長12名が合流して全60名の審査員の配属が発表される。
「長」と名のつく者が12名もいるのはこの方たちが12ブロックに1名ずつ散り各ブロック5名の審査員団をつくりその長を務めるという意味である。
1ブロック審査員長を含む5名の審査員の旗上げ判定により勝ち負けを決める。長とヒラの権限の差はない。



夏井いつき審査員長から審査の心得について具体的に説明がされる。
俳句の見方はいろいろあるのが当然である。おどおどしていてはいけない。自信を持って判定すること。自分の判定の根拠をはっきりわかりやすく語って納得を得ることが大事。
価値を点数化するという乱暴なことに対してきちんと話ができることが不可欠である、というような内容。
ことごとく納得した。地方大会でもいつきさんのいうようにやってきた。


次に小澤實審査委員長。
小澤さんは開口一番「この大会は俳句存続の命綱である」と老年化していく俳人のことに触れ、高校生と俳句交流をすることの意義を強調。「高校生は毎年進化しているのに審査員が進化していないのではないか」と転じた。
「この場で現実から自分を切り離して審査員になるんだという意識をはっきり持つことが大事。そのために今年から審査員決起集会という時間を設けた」。
こちらは意識を強調した観念論であったが、夏井さんの具体的を要素を補強する効果はあっただろう。

高野ムツオ先生を長と仰ぐ
選手入場、選手宣誓、あいさつなどの儀式が終って試合が開始したのが9時20分。
ぼくはLブロックを担当した。
聖マリア女学院高校(岐阜県代表)、就実高校(岡山県代表)、徳山高校A(山口県代表)のリーグ戦を午前中行なう。
アーケードの一番端で比較的風を感じた。背中に扇風機が回って中のブロックより過ごしやすいかもしれない。
審査委員長は高野ムツオさん。ぼくの隣である。あいさつすると「鷹を見て天地さんは知っています」とほほ笑まれる。
あらかじめ配られる対戦オーダー用紙。審査員はここにある出場全選手の全句を一気に読み、試合の始まる前に点数をつけてしまう。夏井さんがそうアドバイスしたことを地区大会からぼくもずっとやっている。
採点して3チームの力が拮抗していることを知り審査は紛糾するだろうと思った。

高野さんとの仕事は楽しかった。
俳句は大きくみてリアリズム派とファンタジー派がある、ぼくはリアリズムを重んじるタイプであることを講評のとき選手、観客のみなさんに伝えた。
高野さんはぼくの発言を補強して自分はファンタジー派であるが、どちらがいいとかいうことではないとさらにこの論を進めてくださった。
高野さんには盤石の信頼感を抱くとともに一緒に仕事できる充実感にひたった。

最低採点は6点か5点か
高野さんが初期の対戦で平然と6点をつけた。驚いた。地区大会で6点を一度つけたとき清水の舞台から飛び降りるような覚悟をしたものだ。
6点がはやばや出たことで自分の採点を見直す。
いやいや7点をつけた4句を6点に下げた。6点はよほどのことがなければつけられない点数と思っていたが松山の審査員長たちは平然と出している。これを知ったことがここへ来た最大の収穫であった。
朝食の際、小澤さんと一緒した。
点数のことを話題にすると「甘いよ」と言われた。「開成にも6点をつけたよ」と小澤さん。
また昼食の席で一緒した今井聖委員長が5点を出したことで座が熱狂した。
ぼくが「それはないでしょう。なぜ側近がいさめなかったのですか」というと当の今井さんが「5点という評価が(紙に書いて)あるんだから」とまったく悪びれなかった。
5点は教育的観点からつけられない点数であるというのが今井さん以外の審査員の考えであろう。

午後の審査は地獄
Lブロックは接戦で就実高校が勝ち上がった。
午後はKブロックを制した広島高校と就実高校のどちらを上に上げるかの審査をした。
午前9回、ここで6回旗を上げたのだが旗は3-2に割れることが多くきつかった。作品点がほぼ一緒ゆえ鑑賞点(ディベート)で決まる。
それも似たり寄ったりで高野さんが「広島の弁を聞くとこちらがいいかなと思うが就実の話を聞くとこちらかなあと揺れ動く」といったことにぼくも深く共感した。
就実が上へ行ったのだが、箸の倒れたほうでいいやというデカダンな気持にさえ陥る接戦であり、俳句を点数化することの残酷さを痛感したのである。

仕事が終わったあと誰とも合わずホテルで寝っころがった。疲労困憊。


Jブロックの対戦風景






松山市民は俳句好き

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直木賞荻原浩を読む

2016-08-26 04:31:07 | 

図書館の書架と書架の間を散策するのが好きである。
四、五日前、漫然と歩きながらホラーと恋愛と歴史以外のものを探していた。
最近特にはまっている作家がいないので自由きまま。テキトーに手に取ったのが荻原浩の『四度目の氷河期』であった。
最近直木賞を取った名前だがこの本の中身は何か。非現実的な表紙の絵にひかれた。

主人公・南山渉は母子家庭。父は死んだと聞かされたワタルは博物館でアイスマンを見てから自分の父がクロマニヨン人だと思い込む。
このへんが奇想天外でストーリーに引き込まれぐんぐん読んだ。先へ先へと駆り立てる技量がある。
やや多動性障害のあるワタルが成長していきやがて父を求めて寒い国へ旅立つ展開。
知り合ったサチとの恋物語もうきうきする。恋愛が入っていたがういういしいから許す。

こういうタイプの小説をドイツ文学ではEntwicklungsromanと習った。ゲーテの『ヴィルムマイスターの修行時代』が代表的なもので、主人公の精神的成長をテーマとする「発展小説」などと邦訳されているようである。
『四度目の氷河期』はまさに日本版Entwicklungsromanであった。

作品の成り立ちは大きくてリアリズムとファンタジーに分かれる。
荻原浩という人はファンタジー系。ロシアでワタルとサチが出会うのはかなりリアリズムを欠いているのだがぼくは許すことができた。
こういう甘さは荻原さんが拠って立つところであり、彼は向日性とユーモアを基調にしている。性善説に立ちマイルドにあたたかく人間を見られるのが彼の持ち味だろう。
スリリングな展開だが転落、悪意、破滅、死の方向へ話が行かず希望で高揚するところが味である。

クロマニヨン人というユニーク発想が本書の柱をなしていて堅固である。そうとう楽しめた。

2006年『あの日にドライブ』で第134回直木三十五賞候補。
2007年 『四度目の氷河期』で第136回直木三十五賞候補。
2008年 『愛しの座敷わらし』で第139回直木三十五賞候補。
2011年 『砂の王国』で第144回直木三十五賞候補。
2016年 - 『海の見える理髪店』で第155回直木三十五賞受賞。


4度直木賞候補になったうちの一つを読んだわけである。
このレベルの優れた作品が直木賞受賞作品も含めてまだ4冊もあると思うとうれしい。これからかなり楽しめそうな作家と遭遇したことになる。
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