天地わたるブログ

ほがらかに、おおらかに

精子提供サイト

2014-02-28 04:39:18 | 世相
昨夜NHKテレビの「クローズアップ現代」を見た。
インターネットに個人(男)の精子提供サイトが40あまりあって活動しているという報道であった。

精子を欲しがる女性の理由はわかりやすかったが男性のほうは常識ではわかりにくい複雑な心理を感じた。
当然男はお金を取っているのだろうと思ったらそうでもない。諸経費をいただくくらいで無償のものが多いらしい。
お金を取らないのなら性行為がその代償かと思いきやそうでもない。
精子提供男性は女性との交渉が成立すると最寄のトイレで自慰的に精子を出しそれを容器に入れて女性に手渡す。
有識者という人が感染症や倫理性に言及したあと、男性が親権にあとから介入することが心配だと言ったが、ぼくもそのへんが興味の中心となった。

お金と性行為という二つの欲望を目的としない場合、ちょっと不気味だ。
人のために働くのはわかるが女性に触れもせずに寒いトイレで精子を放出するなどぼくはしたくない種類の奉仕活動。
むかししばらく妻が妊娠しなくてぼくが病院で精子検査をしたことがある。そのとき精子を採るためトイレで陰茎をしごいた。それは古代人が火を取るために摩擦するような感じの痛い営みであった。

そんなことをほぼ無償で行うとは……自分の種の子がどこかで育つというのは喜びである。自分は子をつくれたんだぞ、という気持ちはよくわかる。
そういう欲求は女性から出生したという知らせを受け取るだけでかなえられるのだろうか。抑制の効いた欲求なのだろうか。
そのあたりの親権のことで発生しそうなごたごたを有識者が憂慮するのである。

若い世代の男のありようがわかりにくくなっている。
女性への関与のしかたが複雑すぎていないか。心理が複雑すぎてついていきにくい。小説の新しいネタになるような生き方は不気味だ。
男はもっとシンプルに女を抱きたいと思うくらいでいいのではないか。
欲望はわかりやすいほうが健康だろうな。
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府中市生涯学習センター俳句教室最終回

2014-02-27 05:08:05 | 身辺雑記
きのう府中市生涯学習センター俳句教室6回目(最終回)に臨んだ。
副館長も参加して12名、目標であった句会をひらくことができた。
藤田湘子の『20週俳句入門』をテキストにしてそのエッセンスを5週間でこなし最後に句会をやるというのは無謀であったかもしれない。
けれど思いのほか受講生のかたがたは熱心で離脱者が出なかった。短期間でこれだけ俳句が書けるとはたいへんなもの。とにかく句会という体験をするまでにいたった。

キャンバスを青く染めおり春の丘 宏
工事中鴉が笑う日永かな 隆徳
春風やカメラ仲間の食事会 一視
初蝶や夫呼ぶ声のキー高し 正男
リハビリの重き尻上ぐはこべかな 律子
土踏まず揉みほぐしをる野蒜かな 雪江
灯の入りて画廊通りや猫の恋 ふゆ
大道芸囲む人垣日永し みつ子
斑雪梢に細き月光る 洋子
祝い酒注ぐグラスや風光る 満喜子
ヘルメット抱へ黙祷はだれ雪 泰子
初桜女に金をつかひけり わたる
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結婚38年目の珍事

2014-02-26 00:11:03 | 身辺雑記

きのうのわがはいの63歳の誕生日にその珍事は起こった。
妻が藤田湘子の『20週俳句入門』を読みたいというので貸しておいた。「××を読みたい」なんていうことは太陽が西から出るほど考えられぬこと。だいたい新聞もとるのよそうかというような非活字系人間なのだ。
それでも思春期のころノートに綴った丸っこい字の詩のようなものは見たことがあるにはある。

筋肉を傷めてバレエレッスンを休んでいるせいかもしれないが、何か本を読みたい、バカになりたくないから、というのだ。
一度に3ページほどしか読み続けられない妻が「藤田湘子という人は人間愛の豊かな人」だという。
たった3ページ読んでそんなことがわかるのか!
さらに「俳句って<わびさび>じゃないのね。もっとおもしろいものなのね」とのたまうではないか。
38年も一緒に暮らして、互いにもはや発見などないと思っていたのだが、まだかの者の中に未知の鉱脈があったとは……驚いた。

さらにまだ最初の部分しか読んでいないのに、俳句をいくつか書いたから見てくれという。
ひぇっ! ほんとに太陽が西から上がる…あるいは隕石が東京へ落下する…はたまたうんこが口からあふれ出る…そんな事態が出来しないだろうか、心配になった。
あなたは荒っぽいとかていねいじゃないとかとかく批判的だった妻がぼくに教えを乞うている。それも柔和な笑顔で。

仕事でやる添削と同じ意識で妻の俳句らしきものを見る。
それが型・その1になっている句もあって驚いた。
「俳句って字が足りなくて困ると思ってたんだけどむしろ余ってしまって穴埋めしなくちゃいけない感じね」
妻の口からこんな20年選手みたいな感慨が飛び出すとは…。
そう、俳句をそうとうやってくると言いたいことは15音くらいで言えてしまうことがよくある。あと2音をどうやって埋めるか、水増しと感じさせないで満たす方ができるか。そういうことはままある。湘子もその穴埋めの技術こそ修練するものであると酒の席でよく言ったものだ。
でもそれは猛烈な修練を積んだ挙句のはてにやっとわかってくることなのだ。

俳句をやりたいといえば誰にでも教える。
だがそれが妻となると思いは複雑。同じ屋根の下で同じことをする獣が二匹いると家が傾く。俳句は一種の病なのだ。まっとうでないから面白いものが書ける<かぶき>の鬼道なのだ。
この珍事はいっときのものであってくれ。
夫と妻は一緒に飯を食うくらいで十分ではなかろうか。竹に花が咲いたような不気味さがただよっている。
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『妖星伝』ハードカバーを探そう

2014-02-25 04:41:04 | 
奥坂まやの『鳥獣の一句』(ふらんす堂)は、著者の博識ぶりが句の鑑賞の随所に見受けられる。特に文献の引用が巧みである。
たとえば
4月20日 天日のうつりて暗し蝌蚪の水 高浜虚子
に対して次のような鑑賞がなされている。

半村良の傑作SF小説「妖星伝」は、宇宙人の視点から地球の生命の暗黒面を抉った。あまりにも満ち溢れた命は、お互いに喰らい合わなければ生きてはいけず、このような醜い星は、宇宙に他に存在しないというのだ。「妖星」とは地球のこと。水面が黒く見えるまで犇めいている蝌蚪もまた、池の中に存在する命を喰らい、また喰らわれ、ごく僅かなものが生き延びて蛙になることが出来る。


半村良原作の映画「戦国自衛隊」はおもしろかった。自衛隊が戦国時代の戦に加担するという発想がよかった。だが、『岬一郎の抵抗』を読みかけてほったらかしにして以来、この作家は一冊も読んでいない。
SF、伝奇ものはそう好きでないということもあるが奥坂のコメントを読んで『妖星伝』を読むことにした。

奥坂のいうように「あり余る命が互いに殺し合ってしか生きられぬ地球」が本書のテーマである。そのことを登場人物のひとり、お幾が「鬼道の奥義」という。お幾は鬼道を行う蠱惑的な年増。お幾に奥坂まやのイメージがかぶさってきて困る。
借りてきた一巻目は文庫であった。
なんとかまだ文庫の小さい字が読めた。ということは「妖星伝」はおもしろいのだ。


府中市の図書館はハードカバーを持っているのではないか。
ハードカバー版を探すことと、お幾から奥坂のイメージを払拭することが課題。
「7巻目は蛇足だから読まないように。未完は未完でいいのよ」というのが奥坂のアドバイスであった。
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初心者は一より二を

2014-02-23 09:08:34 | 俳句・文芸

小生の講演「新春・背筋しゃんしゃん俳句道中」に来てくださったLさん。
彼女に藤田湘子の『20週俳句入門』を紹介した。「それを読んで混乱している」という便りが届いた。
俳句というものを知らずに俳句を作りはじめると、普通の人はたいてい季語について書くところからはじめる。俳句は季語にまつわる詩であるから。
しかし、季語を書こうとすれば十中八九は季語の説明に終わるだろう。以下のような句。
銀杏散る鮮やかな黄に日の差して
雪溶けてまだまだ寒き峡の風
氷柱下がる寒い心を刺すように
春一番ビラを海まで飛ばしけり


湘子が『20週俳句入門』を書いた動機は季語の周辺で勝負する一物俳句は初心者には無理というところであっただろう。
したがって本書は、俳句を二物を衝撃させてつくろうという意図が通っている。すなわち一ではなくて二で行こうという趣旨である。

型・その1
花冷やちぢみて止まる鼓笛隊 小川軽舟


型・その2
メール待つ無明長夜や鹿の声 天地わたる


型・その3
河原まで十四五段の秋思かな 加藤静夫


型・その4
ちちろ虫乳房小さくなりにけり 植竹京子

 
季語に対してそれとは関係ない文言をぶつけると隙間が出来して空気が流通する、空間ができて火花が散る、それが構造を意識した俳句の作り方であると湘子は説いた。
一はむつかしいが二は比較的やりやすい。型と切字が詩を創出する重大な手立てであるということを湘子は提唱したのだ。
二物を衝撃させる訓練を積み重ねていくと難易度の高い一物俳句(これは教えることができない)をつくる能力も次第についてくる。
二物を十全にこなしていくうちに一物への集中力がついてくる。そうなったとき以下のような傑作もできるだろう。

をりとりてはらりとおもきすすきかな 飯田蛇笏

へうたんのくびれの上と下とかな 影山而遊

よろこべばしきりに落つる木の実かな 富安風安

冬蜂の死にどころなく歩きけり 村上鬼城


混乱しているLさん、とにかく句会に出てきてほしい。一は教える術がない。二はある程度教えることができる。二における季語の飛ばし方は日本人であれば割とわかっていく。いまの混乱を乗り越えて二の世界を理解するほうが一の泥沼であがくよりはるかに有意義だと思うのである。

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