天地わたるブログ

ほがらかに、おおらかに

菖蒲田に花ぽつぽつ

2024-05-28 05:05:07 | 身辺雑記

「ハナキササゲ」北アメリカ原産のノウゼンカズラ科。豪勢な花である。


土日、子守りで疲れた。疲れた体調を歩いて整えようと思い、東村山北山公園を訪ねた。東村山駅からせいぜい1キロ、散歩にふさわしい。気晴らしである。
花菖蒲が盛りになるのは6月。花は期待していなかった。

田に畑に菖蒲祭の幟立つ
もう菖蒲祭の幟があちこちに立っていて道がわからなくてもこれを辿っていけば着く。

橋涼し葉音水音分ちなく
川を渡って公園に入る。その橋は「善行橋」でいつも内心忸怩たる思いである。






北山公園の池が気に入っている。菖蒲田より池に興味があった。

青蘆を揺らし風神通りたる
きのうは曇天。いまにも雨が降りそうで風がときおり吹く。分厚い青蘆が動くのは壮観。いくら見ていても飽きない。

鵜も波も入るを許さず茂る葦
青蘆を砦と思う。水さえ入りにくいのではないか。網戸が風を通しにくいように。

ときに水輪ときにさざなみ葦青し
あめんぼの撥ねし水輪か二重三重
水面に生じる水輪の中心に何かいるのか。あめんぼが撥ねたことは1度確認したがほか
の水輪の正体が不明。空から何か降っているとも考えられるが雨滴ではない。
水輪をさざなみが消す。これはわかりやすい。水面の模様、綾も見ていて飽きない。





菖蒲田には若干人が来ている。小生も若干の一人。

木道のあちこち撓ふ花菖蒲
前来たときより板がたわむように思う。腐っている部分があるのかも。






祭が始まる前の菖蒲田に働く人が大勢いる。草取りである。田んぼだから田草取。ここでその季語に出会うとは思いもしなかった。
手も足も泥にどつぷり田草取
田草取泥摑み取るほかはなく
取った草を見ると泥と一緒くた。結にさせようかと思う。大人が好きな仕事ではない。お疲れ様。

田草取どろどろの手を嗅ぎもして

抜きし草土手に晒され泥匂ふ
近くにリヤカーを置いてあり最後はこれに草を乗せて搬出するようだ。







そう水量のない川が菖蒲田のわきを流れる。池同様ここも好きな場所である。いつもここで句を詠もうとして毎度失敗する。きのうも挑戦してみたがこの程度。
暗がりの水音しるき茂かな

竹林を抜けて風来る涼しさよ












よもや鴨がまだいるとは思いもしなかった。「残る鴨(春の鴨)」を過ぎて時はもう夏である。鴨は番なのか2羽いていつも一緒に行動していた。
行く先々我が物顔の通し鴨
飛ぶことを疾うに忘れし夏の鴨
夏の鴨は「軽鴨」を指すのかもしぬがそれではない。よくいる鴨である。


ここへ来て田んぼを見るといつもその畔が軟弱であることを危ぶむ。崩れて足が濡れそうな畔がかなりある。それも一興である。
花菖蒲風に吹かれて畔行けば





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大相撲に救世主出現

2024-05-27 05:56:07 | 大相撲

阿炎を圧倒する大の里(撮影:久冨木 修/スポーツニッポン新聞社)


新小結・大の里である。
きのう夏場所の千秋楽、阿炎をたやすく押し出して12勝3敗で優勝した。ほかに技能賞、殊勲賞も受賞した。初土俵から7場所目での幕内優勝をはじめ記録づくめの快挙である。

舞の海さんは来場所の成績次第では大関にしてもいいというし、八角理事長もラッキーの優勝ではない、実がある、と大きな期待を寄せる。
11勝11勝12勝なら次の場所10勝でも大関にしていいと小生は思う。4場所で44勝である。ついでに言うと、大関に上がる成績が直近3場所の勝星が31とか32とかで審査されるがそれがあてにならない状況。4場所で43勝みたいな基準に改めたらどうか。その初めを大の里にしてもいいだろう。

大相撲関係者また大相撲ファンは英雄の出現を待望している。
良くも悪しくも白鵬は英雄であった。彼が引退してから大相撲のピラミッドの上が欠けて落ちた感じがする。富士山のような大相撲ヒエラルヒーが崩壊してしまった。
大関に上がる力士が割に多いが横綱に上がるどころかその地位をキープすることさえ困難で落ちる力士ばかり。最近では霧島が落ちることが決まり、がっかりした。幕内力士の平均体重が161.7キロと大型化したせいかもしれないが、力士は大関になるまでにぶつかり合いで体ががたがたになっているのかもしれない。結果、大関になってからもはや発揮するエネルギーが残っていない。カド番大関ばかりでやがて落ちる。
けがをせず優勝をし続けた白鵬は凄かった。なぜかくも非難されなければならないのか世間の常識を疑う。大相撲はまず強くなければならぬ。少しくらい品性に欠けたにせよ強くあってほしい。だいたい大相撲に来る連中は常人のレベルを超えた猛者たちなのだ。変に道徳を押し付けたくない。荒ぶる神を見たいのだ。
白鵬級の強さをもつが大の里である。ほかの力士を圧倒する強さは本物だと思うが気は許せない。

逸ノ城の例がある。幕内に上がってきたとき来年は横綱だとみんな思った。評論家も言ったし小生もそう思った。けれど腰痛を理由に10年の力士生活で引退した。実はアルコール依存症であったと「週刊文春」がすっぱ抜いた。また、親方との不和で稽古拒否も伝えられた。心・技・体が正三角形になっていなかったのだ。
大の里に性格面の問題はなさそう。新小結でもそう緊張した素振りを見せずに3敗以後を闘い抜いた。勝負士として見事であった。立ち居振る舞いもよい。それは蹲踞、仕切り全般に見てとれる。最後の仕切りの前、塩を取りに行くときバタバタ走る力士がいて見苦しい。土俵を走るな! そんなところで気合を出さず、立ち合いのときに出せばいいじゃないかといつも思う。
大の里はどの局面でも悠然としている。
どっしりした大の里に横綱を期待する。


大の里の優勝に泣く父・中村知幸さん(撮影:藤山 由理/スポーツニッポン新聞社)

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桑の実を食い川の中を歩く

2024-05-26 07:44:31 | 身辺雑記

多摩川河川敷。是政橋そばの林、左は野球場とサッカー場。


桑の実の好きな結に手ずからそれを食わせたい。その一念できのう、多摩川へ繰り出した。一昨日は下見でひとり多摩川へ行った。うちから多摩川まで自転車で30分、およそ7キロの行程。子供を積んで自転車を駆るにはちと長い。15分を越える疾走はクルマや自転車と当たる確率が増える。いま事故を極度の恐れている。ぶつかりたくもぶつけれらたくもない。
細心の注意を込めて「行くぞ」と気合を入れた。
さいわい結は静かに乗っていてくれる子で助かる。




「ピンクツリー」と呼ぶ桑の実の変種。


途中公園で一息入れた。結を遊ばせるより小生が気を抜きたかった。
是政駅近くの都の遊休地の桑大樹が1本ある。「風に葉が揺れている木が桑」と結に教える。近づいて葉をかき分けて「これが桑の実」というと、結は葉の中へ手を入れて取っては食う。しゃにむに食う。1年前はおずおずしいていたがこの1年でがらっと変わった。





15分ほどこれに熱中した。人に言われず自分の中から桑の実をむしり取るという衝動が湧きそれを食うことに没頭した。この時間の結を見たことで今日はこれでいい、と思った。
人はいくら教えても教えたようにはならない。逆に教えられること指示されることに反発することも多い。自分の内面から湧き出る衝動こそ尊い。それが桑の実で果たせたことを天に感謝した。結と桑の実は得もいわれぬ関係なのだ。
結がこの日の桑の実のことを覚えているかどうかは知らない。たとえ忘れたにせよここで気持ちが輝いたことは結にとって大きなことだと思う。
嬉しい! 楽しい! すげえ! やった! やばい! といった一瞬のきらめきを体感することが生きていること。ほかに何があろう。そういう時間は現世にそうはない。ゆえにその時間はそれに没頭したい。





この桑の木の実はほかのものと大きく異なる。通常、桑の実は白が赤になり、赤紫になり、さらに黒みがかった紫、ないし漆黒になる。その色が口や手を汚す。
しかしこの桑は白か始まり、薄いピンクになり濃いピンクになり、明るい紫になる。薄いピンクのときから食べられるのである。この木を「ピンクツリー」と呼んでいる。ほかにこのような木を多摩川で見たことはない。。
この桑の木は地につくほど枝が垂れ下がっている。子供が取るには格好の木。
結に自由に食べさせ小生は持って帰るのを摘む。1リットルほど摘むことができた。









河川敷に国土交通省が残した林があり何本か桑の木が生息しているがピンクツリーほどの迫力はない。
結は原っぱを駆け回っていてついに川の縁に来た。落ちそうな気がしてテトラポットに立つ結の手を握る。結は「入りたい」と言うではないか。よもやと思った。濁っていて泡が散乱し流れがはやい。手を握ったまま結がドボンと入ると首まで水が来た。慌てて引き上げる。懲りてもう入らないかと思えば、「入りたい」と言う。この子がそう要求することはない。この衝動を封じてはならぬ。
浅くて行けそうなところを探しまわり、藪を5mほどかき分けて流れへ連れてゆく。





「これはなんだ」と結が言ったのが水底の水垢。どどどろ溜まっていて泥と見紛う。「どろじゃなくて、み・ず・あ・か」と教えたがおそらくわかるまい。
結は「はやい! はやい!」と水流に驚くも上へ上へと行く。支流を出ると本流。やばいと思い、「向こうへ行くな、流される」と制す。
流れた子を死ぬ前に救い出す自身はあるものの濡れたくはない。全身濡れて藪の中を歩いて崖を上る。崖は急。爺が結を抱き抱えて上へ放り投げた。

2024年5月25日は結にとっていい1日であった、と忖度する。桑の実をたらふく食い川の中を歩いた。
爺はくたくたに疲れて20時に就寝。婆は「また川遊びして洗濯がたいへん」と文句を言った。





多摩川の土手に多く展開する茅花、風が吹くと「茅花流し」

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湘子『黑』5月下旬を読む

2024-05-25 09:05:41 | 俳句




藤田湘子が61歳のとき(1987年)上梓した第8句集『黑』。荒行「一日十句」を継続していた時期であり発表句にすべて日にちが記されている。それをよすがに湘子の5月下旬の作品を鑑賞する。

5月21日
松風ときこゆるほどに夕涼し
松を吹く風音、杉を吹く風音、楓を吹く風音は違うのか。端居していて風が涼しい夕べ、作者は松に吹く風の音とそれを感じたのである。あるいは風の音が松の奏でるものと錯覚したという「きこゆるほどに」か。不思議な松風の攻め方である。
新月や松葉散りゐる砂の上
「新月」は秋の季語。「松葉散りゐる砂の上」は海辺の防風林か。この清涼感に「新月」は悪くないが月ならこの時期、「月涼し」でもいい。なぜ、秋の季語を敢えて使ったか訝しむ。
泥鰌鍋褒貶いまも定まらず
何の褒貶か、そこがあいまいで解釈に窮するが、「泥鰌鍋」の離れ方はいい。泥鰌を食いながら何かの良し悪しをうんぬんしている。

5月22日
うすもののひと出できたる末寺かな
「末寺」が効いている。それはは本寺に付属する寺でありやや下世話な語感。そこで「うすもののひと」に色香を思ってしまう。そう思わせるようにたぶん作者は仕組んでいるだろう。
たゝかふ血冥くあるべし青簾
冥い血潮と青簾、心象に色が交錯する。上五中七の想念を下五の確固とた物の季語が受け止めて形象化している。
五月盡枕燈に暈ある如し
「暈」は太陽または月の周囲に見られる光の輪のこと。枕辺の明かりに同様なものを感じている。繊細というか神経質というか。五月の終わる憂愁を詠んでいる。

5月23日
柚子の花過ぎて気づきし忌日あり
「過ぎて」が微妙。通り過ぎたという意味と、柚子の花時が終わったという意味、どちらでも読める内容である。後者のほうが自然だが前者でも悪くない。さて誰の命日を思い出したのか。
竹磨といふがごとくに皮を脱ぐ
「竹磨」がわからない。この場合「竹磨」は名詞であり光沢のある物でないといけないが。
病む母に修羅も奈落もいま涼し
母上が亡くなったのかと思ったがそうであるなら「母死す」と書くはずだから生きている。生きていて涼しいというのは痛みなど知覚がないということか。惚けてしまったということもある。「修羅も奈落も」というのは生きてきた道筋のあまたの苦難のこと。

5月24日
梅干を返していまも火傷の手
前の日の句は屈託が多くてわかりにくかったがこれはわかりやすい。梅干と火傷の手は引き合って両者がよく見える。心象を振り捨ててシンプルでいい。

5月25日
(かちわた)る脚高うしてあめんばう
川の中をじゃぶじゃぶ歩いて向う岸へ行くところか。登山などやむなくそうする徒渉がある。そこにあめんぼうがいた。臨場感があって心地よい。
松の花二人の尼の起居なる
ほとんど何も言っていない句。前の句は作者に水の清涼感など伝えたいというしかとした意思が「脚高うして」にあったが、この句は「二人の尼の起居なる」と伝えるだけである。しかしたんに報告でないのが季語「松の花」にある。季語が働いているので二人の尼さんの静かな生活を感じることができる。

5月26日
暑き夜の廻る時計はまはりをり
デジタル時計でない針の時計。「廻る時計はまはりをり」という打っ棄った表現が暑くて眠れない夜を存分に伝える。
桟橋を来る長身も夏景色
「桟橋を来る長身」でスカッと見える。男を思うがアンジェリーナ・ジョリーのような女でもいい。「夏景色」なる大雑把な置き方がこの場合、景色を大きくする。
瓜茄子死後のことみな覚束な
この句に小生はついていけない。だいたい死後のことなど考えない。「死後のことみな覚束な」と言う先生には地獄とか極楽といった観念があったのであろうか。「三日後のこと覚束な」ならわかるが。

5月27日
きのふから扇子出したる机の端
「机の端」まで言って見える句になった。机の真ん中は本を置いたり書き物をするのである。それを想像させて簡素でいい。
雲を踏むごとく筍藪を出て
筍の生える竹林は竹が密集していた。外で出て足がふわふわする。奇を衒った比喩の離れ方ではないが効いている。

5月28日
からまつの奥の灯が消え辰雄の忌
「からまつの灯」で「辰雄忌」は近過ぎないか。「消え」まで言ってしまうとべた付きではないのか。
青萩の中に手を入れなにもなし
何かいたとしたら毛虫は蛇か。「中に手を入れなにもなし」で青萩を際立たせている。

5月29日
冷奴江戸小咄を讀みさしに
「江戸小咄」が洒落ている。読みかけの本を置いて食べることにいま専念する。

5月30日
風知草故人はゆめに前(さき)のまま
夢に見た故人はいきいきとしていて若かった。「風知草」という音感が故人を引き立てている。
伴天連(ばてれん)をうつくしと見し門火かな
「伴天連」はキリスト教徒のむかしの呼び方。ほかに司祭の意味もある。たんにクリスチャンだと見えない句である。司祭としても見えない。作者の意図がわからない句である。

5月31日
酒飲まぬ夜や風鈴が階下(した)に鳴る
飲みたい気持ちがあって落ち着かないのか。階下の風鈴の音が気になる。酒飲みの句としておもしろい。
われに棲む道化もひとり梅雨入前
俺は俳句一筋に生きておる。本人がそう思いわれら門弟もそう思う。けれど真面目だけでないおどけた俺もおいるのだ、と作者は言う。はい、それもよくわかります。
梅雨めくや画廊に積んで無名の絵
絵画展はそこらじゅうで開催されるがだいたい美術史に残らない人々の絵。それは俳句も一緒である。「画廊に積んで無名の絵」と「梅雨めく」がうまく折り合った一句。


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西條奈加『隠居すごろく』

2024-05-24 05:27:14 | 
                   


 読書メーターでheslkstさんが以下のようにあらすじを紹介する。
仕事ばかりで家族からも浮きまくっていた主人公が孫可愛さゆえ、孫に翻弄されているうちに人の温かみや優しさを取り戻す物語。孫は優しさ溢れる人情の人でありながら、納得できるまで考え続けることができる8歳の少年。
主人公が隠居するところから物語はスタート。隠居しても話し相手もおらず寂しさを募らせていたところ、孫がやってくる。孫が様々な相談事を主人公に伝えてくる。主人公にとっては厄介事なのだが、孫のしつこさを知っているので、どうにかしようと解決策を探っていくうちに、感謝される喜びなどを知る。心が優しくなる本。
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隠居した徳兵衛は商売に明け暮れした人生にて、趣味がなかった。女性への興味もなくすぐ時間を持て余した。そこへ登場した孫は最初は厄介で面倒な存在でしかない。けれどその面倒と厄介へ対処するうちに、いままでと違った人生の味わいが見えてくる。気持ちが温かくなる。それに関しては以下にYUUUUMIさんも言及する。

素敵な作品と出会えるのが読書の醍醐味もであるが、この作品はとても温かい気持ちとほっこりした気分を味わえる作品だ。隠居して静かに余生を過ごそうと思っていた主人公・徳兵衛であるが、孫である千代太が訪ねて来てから、今まで築くことのなかった人との関わりという、面倒な事に巻き込まれながらも充実した毎日を過ごすという、日常の穏やかながらも慌ただしくもある姿が描かれていく。物事を解決するよりもその過程を孫と考えたり導いたり教えられたり、素敵な関係を垣間見る事ができた。
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徳兵衛にとってそっけなかった妻が意外な変化を見せて徳兵衛の「事業」に加担するのもおもしろい。作者は作品をおもしろくする手を次々に繰り出す。運動会の大玉送りを見るかのようにテンポよく話が進み、心地よい。
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