天地わたるブログ

ほがらかに、おおらかに

「かな」の句を美しく書きたい

2024-05-31 04:44:41 | 俳句

「青胡桃」といえど紅ほのか(多摩川)


最近、ネット句会で以下のような句が出て啞然とした。「以下のような」というのは作者を慮って若干文言を変えている。
  炊きあがる飯待つ時間新樹かな
  ゆるやかな追ひ越し車線新樹かな
実は文言を変えようとして原句のだめさ加減をそのままにするのに苦慮した。正しい、美しい立ち姿の「かな」の句を書くことに習熟してしまうと。形の悪い未熟な形にするのが逆にむつかしいのである。
これらの句に対して小生は、「かな」の句の基本ができていないと叱咤した。
中七を「時間」や「車線」と体言にしたらそこに切れが生じて大下五へ流れない。現状を生かすなら取り合えず、「炊きあがる飯を待ちをる新樹かな」とすべき。
新樹の句には詩心があったので現状よりよくすることが可能だが、車線の句は添削さえ困難。その理由は、追い越し車線に作者がどう関わっているのかまるで見えないから。物を見せようとするのはいいがその物でもって作者は何を訴えようとしたいのかまるで伝わって来ない。一句はつまるところ詩情なのだ。

これに対してYSさんが以下のように抗弁した。
型・その3の「かな」については承知していますが、例えば
 「白粥はおかか梅干日永かな 石川桂郎」、
 「山の蟇二つ露の目良夜かな 森澄雄」、
 「うらうらと海上三里接木かな 宇佐美魚目」
などを参考にチャレンジしてみました。
呆然とした、名だたる先輩諸氏の無神経な作句態度に。
初心者が真似をしては困るような句を発表しないいで欲しいと切に思った。
YSさんのように勉強する人は有名な先輩なら大丈夫と信じてしまう。それが怖いのである。どんな大家の句でも批判的に読まなければいけない。

「かな」の句は流れる川が滝になる構造である。そこに至るまで水は飛んだり跳ねたりしてほしくない。静かに平たんに流れて行っていきなり落下することが望まれる。
野球でいうとフォークボール。直球のスピードで行って打者の手元でストンと落ちる。「かな」の句の奥義は滝とフォークボールで理解するのが手っ取り早い。俳句を理解する場合にほかのジャンルの極めつけのものを探すのも有意義である。そういう閃きも磨いてほしい。
最後に一度落ちるのが「かな」であるからその前で切れたり凸凹してはいけないのは当然である。俳句の切れは一句に一回が原則である。

「鷹」俳句会は「かな」を積極的に使うが結社によっては現代に合わないとの理由で「かな」を意識敵に避けるところもある。「海」に長くいた中川郁によれば、そこでは「かな」が排斥されていたという。
けれど、「かな」が現代にマッチしないどというのは不可思議な言説である。小川軽舟は「俳句は現代詩」としたうえで「かな」の句をかなり書いている。
  職人の割く竹青き初音かな(鷹5月号)
  灰色に自衛艦浮く柳かな(鷹4月号)
  めらめらと氷にそそぐ梅酒かな(句集『朝晩』)
  能衣裳暗きに掛かる虚子忌かな(同)
  人死んで犬もらはるる小春かな(同)
これらは見本にしていい「かな」の精華である。藤田湘子から小川軽舟に至る「かな」の流れに淀みがないのがうれしい。
「かな」の美しい形を体得してほしいと切に思う。「鷹」のトップクラスは「かな」がむろん書けるが、できない同人がごろごろいて小生はしばしば嘆きかつ叱る。四つの型の中で一番書けないのが「かな」かもしれない。なぜかくも美しい型になじめないのか理解に苦しむ。
コメント (5)
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鷹6月号小川軽舟を読む

2024-05-29 07:24:10 | 俳句
 
マニ宝珠


小川軽舟鷹主宰が鷹6月号に「宝珠」と出して発表した12句。これについて山野月読と天地わたるが合評する。山野が〇、天地が●。

入門破門風呂敷一つ門柳 
●「入門破門風呂敷一つ」えらく時代がかっています。江戸時代を題材にした短編小説を読む味わいです。 
○「入門破門」と「門柳」は「門」繋がりでの発想かなと思います。入門するときも破門されるときも「風呂敷一つ」だという矜持とも言えるし、そうした身軽さこそが時々の風に身を委ねる「門柳」の姿と通じ合うようです。 
●おっしゃったように「門」で韻を踏んだのは技術です。俳諧味を出そうとしたのでしょう。句集『朝晩』における「家事たのし鼻に浮きたる汗小粒」の生活感から大幅に転じていています。

家で靴脱ぐ民なればひなまつり
○日本人を「靴脱ぐ民」と捉えている視点はわかるのですが、「靴脱ぐ民」が日本人に限られるわけではないという意味では、中七から下五への展開にはやや無理がありそうだと思います。 
●家で靴を脱がない人たちが世界にいるのでしょうか。裸足で暮らす人は脱ぐも脱がないもないでしょうが。欧米人を念頭においての発想だとして、彼らも寝るときは靴を脱いでベッドに上がります。したがって「玄関」ならわかるのですが「家」は大雑把じゃないですか。
○厳しいですね(笑)。わたるさんなら指摘しそうなことだというのはわかります。要は「家(の中)」であることが靴を脱ぐ十分条件なのか必要条件なのかの違いで、日本人の場合は前者。この十分条件であるという視点を「家で」という言葉だけで示し得ているのか、ということですね。その判断はにわかにはつけ難いなあ。
●厳しくないですよ、当然の指摘でしょう。この句を読んだ瞬間に「玄関に靴脱ぐ民やひなまつり」と添削していました。「なれば」というゆるやかさを消しても物に厳格に対処すべきではないかと。

陶土練る板の厚みや桃の花 
●「板の厚み」を言ったことで作陶がよく見えます。この場面で季語はいろいろ考えられますが作者は「桃の花」を選択しました。悪くはないですね。
○作陶の現場がどこかは定かではありませんが、「桃の花」がこれを補って余りあるほどの効き。 
●はい、季語は抜群にはたらいています。さすがです。

若柴に息を尖らすホイッスル 
●単純な句に見えていて「息を尖らす」を面妖と感じました。笛は吹くのであって「息を尖らす」わけじゃないですよね、どう思いますか。 
○「息を尖らす」には、やられたと思いました。動きとしては「口を尖らす」&「息を吹く」なんでしょうが、うまく融合して新しい表現になっていると思いました。わたるさんの好きなラグビーでしょうかね。 
●なるほど、複合技ですか。操作を一緒くたにしたことの違和感より巧さを感じさせたとすれば高度なテクニックです。この作者の原点というべき巧さ。

種芋や畑にまじる火山礫
●火山灰は桜島だとすればこの種芋はサツマイモでしょうか。
○日本なら鹿児島を思いますね。シラス台地はサツマイモの生育に好条件と聞いたことがあります。 
●湘子が言った「型・その1」。作者も「俳句のふるさと」と呼んで尊重している形です。凝ったところはどこにもありませんが「種芋」が効いた落ちついた風情の句です。

牛角力逃げるが勝ちと負けにけり 
●笑いました。 
○「牛角力」は、昔ながらの賭けの対象にもなっていそうなイメージもあり、そう意味で真剣勝負だと思うのですが、句中の「負け」牛は負けても温かく見守られていそうで安心しました。 
●展開が小気味よくおもしろい。すぐ暗記できる句は素晴らしいです。

芳草の雨粒のみな宝珠なす 
●宝珠とは、十字架が上に付いた球体、一種の装飾ですね。 
○わたるさんの言う宝珠は、私の思っていた宝珠とは違いそうなので調べたら、西洋の王冠とかにあるアレも宝珠と言うんですね。ただ、句中の宝珠は、仏像とかによく付属している宝珠の方でしょう。形状的には、武道館の屋根についていたり、欄干とかを装飾している擬宝珠と同じようなやつで、一言で言えば水滴の形状(上部が尖ったような球体)。ですので、この句の「宝珠なす」は至極納得のいく把握かと。 
●小生はそう納得していません。「雨粒のみな宝珠なす」は見立て。一種の比喩ですがあまりに知的にはからっているように思えます。悪くいえば、知的操作。俳句はもっと感覚的にやってほしいと思います。
○私的には、すごく感覚的な把握に思えました。
●知的操作と感じたのは比喩である「宝珠」が人の作った物であること。その発想のもとに何か自然の物が存在しているように思うからです。むしろ雨粒からインスピレーションを得て宝珠を考案したのではないですか。だからつまらないのです。たとえば巻貝と銀河の渦との取合せなら天然自然同士ですから知的操作とは思いません。

花冷や南蛮船に北斗星 
●「南蛮船」、えらく時代的な物を取り上げましたね。ヨーロッパで15世紀ころ遠洋航海を前提に開発された帆船です。鉄砲とともにキリスト経を持ち込んで来た船。南蛮貿易の推進役となったあれです。 
○「南蛮船に北斗星 」とくれば、大海原を行く大航海のイメージが広るのですが、句中の「南蛮船」はどこにいるでしょう? 大海原にいて「花冷」はないだろうと思ってのことですが。 
●この句もそう評価しません。あなたの指摘するように季語も不適切だし、船がどこにいるかも見えません。 生活実感から遠ざかったという点で、「入門破門」の句の路線ですが小生は支持しません。生活実感路線から何かを変えたいのは理解しますが……。 
○わたるさんのご指摘はわかるのですが、季語が働くとしたらどういう場面なのかという視点からの読みも大切かなと思います。季語からしてこの「南蛮船」は大海原にいるのではないとしたら、ひょっとして伊万里焼とかの図柄なのではないのかと思うのですが。
●それは小生も考えました。実際の海ではなくて陶器の絵柄を。しかしそこまで読み手を惑わせる句をなぜ12句に入れて発表するのか訝しみます。句はたくさん書いているわけでしょう。

春窮や光背失せし仏の背 
●「春窮」という耳慣れぬ季語に注目しました。この言葉はもともとは、李氏朝鮮で「春窮(チュングン、ch'ungung)」と言われたものだとか。日本が朝鮮を支配したとき日本語化したらしいです。春季の越境期に食料が無くなり、山野の草根や木皮を食べて延命した状態を言います。つまり、前年に収穫した食糧が欠乏してくる4月から5月にかけての窮乏を指します。 
○「光背」は大抵薄い板とかで設えられているので、壊れやすいのは壊れやすいのでしょうが、これが「失せ」たままの「仏の背」は、わたるさんに解説いただいた「春窮」に通じるものがありそうです。 
●あなたは「光背」が自然に壊れてなくなったというふうに考えていますね。そうではなくて、困窮した人にむしり取られたということはありませんか。光背は金などでできているので売ればお金になる。 
○ あー、そうですね! それは思いつきませんでした。「光背」は金箔が施されていることが多いので、盗まれることは十分に考えられますね。

春泥に轍を残し離村せり
●今月の句は物語性がありますね。 
○この「轍」、車のタイヤの跡とは思えぬ雰囲気を醸す「離村せり」ですね。ここまでの句からの想像として、東南アジアでも旅したのでしょうか。
●いや日本でしょう。轍は自動車の車輪でしょう。だから日本の風景でしょう。いま日本には限界集落と呼ばれるような僻村があちこちにあります。その一つを活写したと思います。
○ここまでの句の雰囲気に引きずられ過ぎた読みだったかも知れません。

げんげ田にかがめば蜂の音しきり 
●実直なとらえ方です。
○「蜂」がいるとわかっていて屈みはしないでしょうし、まさに「げんげ田にかが」むことによって「蜂」や「蜂の音」の存在に気づいたのでしょう。 
●俳句はこれでいいと思います。「芳草の雨粒のみな宝珠なす」のほうへ行かないでほしい。

群衆に目的地あり春の暮 
●この句はわかりません。「群衆に目的地あり」でどんな人たちを思えばいいのですか。 
○「群衆」が「団体」だったら団体旅行かなくらいで終わりそうですが、「群衆」となると一筋縄ではいかない感じですね。「目的地」についても、具体の地理的場所なのか、思想的な境地、ユートピアなのかなど、可能性は色々ありそうですが、私が初見でイメージしたのは、メーデーとか、社会的政治的動機で集まった「群衆」でした。 
●具体的なものが何一つありません。「群衆」も「目的地」もまるで胡乱じゃないですか。「ひとりづつ歩きダービー後の群衆 熊谷愛子」の「群衆」は見えます。鷹主宰に「もっと見える句を」と言うのもおこがましいのですが。困惑するばかりです。 
○胡乱というのは、ここでは抽象性が高いということだと思いますが、確かに抽象的な言葉のみで構成されると読みの手がかりが掴みにくく、景がぼんやりしてしまうきらいはありますね。ただ、私的には本句の措辞そのものは嫌いではないので、季語を確固たるモノにして句の鮮明度の高くしたくなります。
先程は、メーデーをイメージしたといったのですが、季語「春の暮」中心で考えると、家路を急ぐサラリーマンの群れともとれそうですが、絞りきれない可能性のひとつですかね。
●今月、作者は従来の俳句路線を変えるべくいろいろな試みをしています。その中に小生から見て失敗もありおもしろかったです。作者が何を目指すか注目したいところです。


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菖蒲田に花ぽつぽつ

2024-05-28 05:05:07 | 身辺雑記

「ハナキササゲ」北アメリカ原産のノウゼンカズラ科。豪勢な花である。


土日、子守りで疲れた。疲れた体調を歩いて整えようと思い、東村山北山公園を訪ねた。東村山駅からせいぜい1キロ、散歩にふさわしい。気晴らしである。
花菖蒲が盛りになるのは6月。花は期待していなかった。

田に畑に菖蒲祭の幟立つ
もう菖蒲祭の幟があちこちに立っていて道がわからなくてもこれを辿っていけば着く。

橋涼し葉音水音分ちなく
川を渡って公園に入る。その橋は「善行橋」でいつも内心忸怩たる思いである。






北山公園の池が気に入っている。菖蒲田より池に興味があった。

青蘆を揺らし風神通りたる
きのうは曇天。いまにも雨が降りそうで風がときおり吹く。分厚い青蘆が動くのは壮観。いくら見ていても飽きない。

鵜も波も入るを許さず茂る葦
青蘆を砦と思う。水さえ入りにくいのではないか。網戸が風を通しにくいように。

ときに水輪ときにさざなみ葦青し
あめんぼの撥ねし水輪か二重三重
水面に生じる水輪の中心に何かいるのか。あめんぼが撥ねたことは1度確認したがほか
の水輪の正体が不明。空から何か降っているとも考えられるが雨滴ではない。
水輪をさざなみが消す。これはわかりやすい。水面の模様、綾も見ていて飽きない。





菖蒲田には若干人が来ている。小生も若干の一人。

木道のあちこち撓ふ花菖蒲
前来たときより板がたわむように思う。腐っている部分があるのかも。






祭が始まる前の菖蒲田に働く人が大勢いる。草取りである。田んぼだから田草取。ここでその季語に出会うとは思いもしなかった。
手も足も泥にどつぷり田草取
田草取泥摑み取るほかはなく
取った草を見ると泥と一緒くた。結にさせようかと思う。大人が好きな仕事ではない。お疲れ様。

田草取どろどろの手を嗅ぎもして

抜きし草土手に晒され泥匂ふ
近くにリヤカーを置いてあり最後はこれに草を乗せて搬出するようだ。







そう水量のない川が菖蒲田のわきを流れる。池同様ここも好きな場所である。いつもここで句を詠もうとして毎度失敗する。きのうも挑戦してみたがこの程度。
暗がりの水音しるき茂かな

竹林を抜けて風来る涼しさよ












よもや鴨がまだいるとは思いもしなかった。「残る鴨(春の鴨)」を過ぎて時はもう夏である。鴨は番なのか2羽いていつも一緒に行動していた。
行く先々我が物顔の通し鴨
飛ぶことを疾うに忘れし夏の鴨
夏の鴨は「軽鴨」を指すのかもしぬがそれではない。よくいる鴨である。


ここへ来て田んぼを見るといつもその畔が軟弱であることを危ぶむ。崩れて足が濡れそうな畔がかなりある。それも一興である。
花菖蒲風に吹かれて畔行けば





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大相撲に救世主出現

2024-05-27 05:56:07 | 大相撲

阿炎を圧倒する大の里(撮影:久冨木 修/スポーツニッポン新聞社)


新小結・大の里である。
きのう夏場所の千秋楽、阿炎をたやすく押し出して12勝3敗で優勝した。ほかに技能賞、殊勲賞も受賞した。初土俵から7場所目での幕内優勝をはじめ記録づくめの快挙である。

舞の海さんは来場所の成績次第では大関にしてもいいというし、八角理事長もラッキーの優勝ではない、実がある、と大きな期待を寄せる。
11勝11勝12勝なら次の場所10勝でも大関にしていいと小生は思う。4場所で44勝である。ついでに言うと、大関に上がる成績が直近3場所の勝星が31とか32とかで審査されるがそれがあてにならない状況。4場所で43勝みたいな基準に改めたらどうか。その初めを大の里にしてもいいだろう。

大相撲関係者また大相撲ファンは英雄の出現を待望している。
良くも悪しくも白鵬は英雄であった。彼が引退してから大相撲のピラミッドの上が欠けて落ちた感じがする。富士山のような大相撲ヒエラルヒーが崩壊してしまった。
大関に上がる力士が割に多いが横綱に上がるどころかその地位をキープすることさえ困難で落ちる力士ばかり。最近では霧島が落ちることが決まり、がっかりした。幕内力士の平均体重が161.7キロと大型化したせいかもしれないが、力士は大関になるまでにぶつかり合いで体ががたがたになっているのかもしれない。結果、大関になってからもはや発揮するエネルギーが残っていない。カド番大関ばかりでやがて落ちる。
けがをせず優勝をし続けた白鵬は凄かった。なぜかくも非難されなければならないのか世間の常識を疑う。大相撲はまず強くなければならぬ。少しくらい品性に欠けたにせよ強くあってほしい。だいたい大相撲に来る連中は常人のレベルを超えた猛者たちなのだ。変に道徳を押し付けたくない。荒ぶる神を見たいのだ。
白鵬級の強さをもつが大の里である。ほかの力士を圧倒する強さは本物だと思うが気は許せない。

逸ノ城の例がある。幕内に上がってきたとき来年は横綱だとみんな思った。評論家も言ったし小生もそう思った。けれど腰痛を理由に10年の力士生活で引退した。実はアルコール依存症であったと「週刊文春」がすっぱ抜いた。また、親方との不和で稽古拒否も伝えられた。心・技・体が正三角形になっていなかったのだ。
大の里に性格面の問題はなさそう。新小結でもそう緊張した素振りを見せずに3敗以後を闘い抜いた。勝負士として見事であった。立ち居振る舞いもよい。それは蹲踞、仕切り全般に見てとれる。最後の仕切りの前、塩を取りに行くときバタバタ走る力士がいて見苦しい。土俵を走るな! そんなところで気合を出さず、立ち合いのときに出せばいいじゃないかといつも思う。
大の里はどの局面でも悠然としている。
どっしりした大の里に横綱を期待する。


大の里の優勝に泣く父・中村知幸さん(撮影:藤山 由理/スポーツニッポン新聞社)

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桑の実を食い川の中を歩く

2024-05-26 07:44:31 | 身辺雑記

多摩川河川敷。是政橋そばの林、左は野球場とサッカー場。


桑の実の好きな結に手ずからそれを食わせたい。その一念できのう、多摩川へ繰り出した。一昨日は下見でひとり多摩川へ行った。うちから多摩川まで自転車で30分、およそ7キロの行程。子供を積んで自転車を駆るにはちと長い。15分を越える疾走はクルマや自転車と当たる確率が増える。いま事故を極度の恐れている。ぶつかりたくもぶつけれらたくもない。
細心の注意を込めて「行くぞ」と気合を入れた。
さいわい結は静かに乗っていてくれる子で助かる。




「ピンクツリー」と呼ぶ桑の実の変種。


途中公園で一息入れた。結を遊ばせるより小生が気を抜きたかった。
是政駅近くの都の遊休地の桑大樹が1本ある。「風に葉が揺れている木が桑」と結に教える。近づいて葉をかき分けて「これが桑の実」というと、結は葉の中へ手を入れて取っては食う。しゃにむに食う。1年前はおずおずしいていたがこの1年でがらっと変わった。





15分ほどこれに熱中した。人に言われず自分の中から桑の実をむしり取るという衝動が湧きそれを食うことに没頭した。この時間の結を見たことで今日はこれでいい、と思った。
人はいくら教えても教えたようにはならない。逆に教えられること指示されることに反発することも多い。自分の内面から湧き出る衝動こそ尊い。それが桑の実で果たせたことを天に感謝した。結と桑の実は得もいわれぬ関係なのだ。
結がこの日の桑の実のことを覚えているかどうかは知らない。たとえ忘れたにせよここで気持ちが輝いたことは結にとって大きなことだと思う。
嬉しい! 楽しい! すげえ! やった! やばい! といった一瞬のきらめきを体感することが生きていること。ほかに何があろう。そういう時間は現世にそうはない。ゆえにその時間はそれに没頭したい。





この桑の木の実はほかのものと大きく異なる。通常、桑の実は白が赤になり、赤紫になり、さらに黒みがかった紫、ないし漆黒になる。その色が口や手を汚す。
しかしこの桑は白か始まり、薄いピンクになり濃いピンクになり、明るい紫になる。薄いピンクのときから食べられるのである。この木を「ピンクツリー」と呼んでいる。ほかにこのような木を多摩川で見たことはない。。
この桑の木は地につくほど枝が垂れ下がっている。子供が取るには格好の木。
結に自由に食べさせ小生は持って帰るのを摘む。1リットルほど摘むことができた。









河川敷に国土交通省が残した林があり何本か桑の木が生息しているがピンクツリーほどの迫力はない。
結は原っぱを駆け回っていてついに川の縁に来た。落ちそうな気がしてテトラポットに立つ結の手を握る。結は「入りたい」と言うではないか。よもやと思った。濁っていて泡が散乱し流れがはやい。手を握ったまま結がドボンと入ると首まで水が来た。慌てて引き上げる。懲りてもう入らないかと思えば、「入りたい」と言う。この子がそう要求することはない。この衝動を封じてはならぬ。
浅くて行けそうなところを探しまわり、藪を5mほどかき分けて流れへ連れてゆく。





「これはなんだ」と結が言ったのが水底の水垢。どどどろ溜まっていて泥と見紛う。「どろじゃなくて、み・ず・あ・か」と教えたがおそらくわかるまい。
結は「はやい! はやい!」と水流に驚くも上へ上へと行く。支流を出ると本流。やばいと思い、「向こうへ行くな、流される」と制す。
流れた子を死ぬ前に救い出す自身はあるものの濡れたくはない。全身濡れて藪の中を歩いて崖を上る。崖は急。爺が結を抱き抱えて上へ放り投げた。

2024年5月25日は結にとっていい1日であった、と忖度する。桑の実をたらふく食い川の中を歩いた。
爺はくたくたに疲れて20時に就寝。婆は「また川遊びして洗濯がたいへん」と文句を言った。





多摩川の土手に多く展開する茅花、風が吹くと「茅花流し」

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