天地わたるブログ

ほがらかに、おおらかに

紅葉の御岳渓谷へ

2023-11-30 05:27:47 | 俳句


おととい御嶽駅で下車してすぐ下の渓谷へ下りた。久々にちょっと遠出した。紅葉の季節。いままで書いたことのない紅葉に挑もうと思った。河岸の木は紅葉するものが多かった。

枯草を摑みて下りる激流へ
流れは勢いがよく見るだけで爽快である。



幾万の紅葉揉まれて流るるや
水中にものすごい数の落葉や紅葉がある。府中あたりだとそう感じない葉っぱの寮である。そういえば川はいろいろなものを海へ運んでいる。結局すべては海底へ行くのだろう。




紅葉且つ散るや早瀬の渦巻ける

暗がりへ水の落ちゆく紅葉かな



すべからく風にゆだねて枯芒
いまごろの芒はかの歌謡曲「昭和枯れすすき」を思い出させる。




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湘子は11月下旬どう詠んだか

2023-11-28 05:35:31 | 俳句



藤田湘子が60歳のとき(1986年)上梓した句集『去來の花』。「一日十句」を継続していた時期にして発表句にすべて日にちが記されている。それをよすがに湘子の11月下旬の作品を鑑賞する。

11月21日
炬燵して鳥獣戯画の兎に似
炬燵に入っていたら自分が鳥獣戯画の兎になったような気がした、というのである。炬燵からの展開がおもしろい。
われもまた瞼一重や風鶴忌
風鶴忌は石田波郷の忌日、11月21日である。湘子の兄弟子でともに水原秋桜子に師事した。波郷から造形力不足を指摘されたことが湘子の後の「一日十句三年」の荒行につながった。二人とも一重瞼であったのか。
宮城野といへど町竝手毬唄
宮城野という語感は広野を連想させるが実際は町である。言葉を手玉に取った感じの句。

11月22日
冬凪や胸にながれて芒かげ
芒の淡い影が胸にきた。それを「胸にながれて芒かげ」と言ったのは作者ならではの抒情。

11月23日
秋水と行かむとせしがすでに倦む
「秋水と行かむとせし」は、川の流れる方へ歩こうということか。しかし飽きてしまっていた。摑みどころのない句である。
人の嗅ぎし冬薔薇なれば嗅ぎにけり
人がそうしなければ薔薇に興味はなかった。いかにも冬薔薇らしい捉え方である。

11月24日
絶壁に来て枯木山終るなり
武甲山は人為的に片側が削れているがそのような地勢の枯山である。見える句でありきっぱりしている。

11月25日
おほかたは落葉終りし四十雀
雑木林に四十雀が鳴いている。声がはっきり聞こえるのは木の葉がほとんど落ちてしまったせいである。空が見えて木の枝が寒そうに揺れている。
木枯にくづるゝことを畔の土
風で畔の土が崩れることはめったにない。しかし木枯が吹くのを見ると崩れるように感じるのである。中七が凝った表現で崩れることがあり得るかも、と思わせる。

11月26日
刃物みな暗きに蔵ひ毛絲編む
刃物は光り毛絲は色に富んでいる。両者の質感、光沢の差がいい対照となって句がふくらむ。
木の家に木の霊あそぶ十二月
木材は木の体である。切り倒されて時間がたっても息をしているように感じるときがある。

11月27日
戦争が過ぎ凩が過ぎにけり
この戦争は何であろうか。太平洋戦争と読んでもいいだろう。戦争を凩と見ている。

11月28日
一本の藁拾ひ年つまりけり
いま都会で藁は1本でも見るのは困難。特別な商売をしているところで梱包に縄を使いその関連で藁に遭遇するか。貴重な思いで1本を拾ったのではないか。
寺に寄り藁塚に寄りもがり笛
寺の前に田んぼが広がっている村。寺は山にありそこで風の音がするし田んぼでも音がする。冬である。

11月29日
冬紅葉誓子は老を詠はざる
誓子に老いの句がないことは知らなかった。老いを詠まない俳人を尊敬する。八十路がどうだ、白寿がどうだ、という句は確かにそれに凭れかかっている気がする。
佳きことのつづかぬ銀杏散りにけり
この季節、たとえば訃報もたえず到来する。違うことかもしれないが「禍福は糾える縄のごとし」なる格言を思う。
寒雁のこゑ宮城野の涯(はたて)まで
おのように書かれると宮城野の広さとさみしさを感じる。
泣かぬ子が泣く子離るゝお講凪
元気な子は泣く子に関わりたくない。子らをきちんと見ている。お講凪とは11月の親鸞忌(御講)の行なわれるころにおだやかな日が続くこと。

11月30日
人妻の冬待つ爪のさくらいろ
さてこの女性は誰か。「さくらいろ」と書いているのは好意の表れか。
ひよどりや富士を要の夕景色
目の前に富士が聳えている。絵にしれば真ん中に富士という構図。「富士を要」が物を言う。やかましい鳥を配して絵に活力を与えている。

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葛の中で喘ぐ

2023-11-27 07:06:01 | アート



真葛原統べゐし葛根掘り起こす 軽舟

昨日、「鷹12月号小川軽舟を読む」を当ブログに掲載した。そこで相方の月読が上記の句について、
「<統べゐし>の主語は、<掘り起こす>作中主体=人かなと思う一方で、上五の「真葛原」が主語とも読めるかなと思いました。」と支離滅裂のことを言うので、小生は「それは変でしょう」と素っ気なく突き放した。
<統べゐし>の主語は<葛根>であり、それを作者または作業の人が掘り起こす、という内容である。
その後がメールで月読が質問してきた。
「統べゐし」の主語は「葛根」と言う可能性はないですか。つまり、地の下から「真葛原」を支配している「葛根」を掘り起こすということになりますが。
これに、「その通り」と答えた。月読は合評が終わってからやっとこの句の構造がわかったとみえる。

この句は、秋の季語「葛を掘る」を作者が分解しつつこれに作者の独自の視点を加味して味付けし一物系の句としている。その風味は小生の好みに叶ったものであり、葛の本質に至っている。
一面に葛の葉と蔓が広がる中からお宝の根を探してそれを掘るのを想像してえらく大変と思うだろう。小生は胡桃拾いで藪の中を這いずり回ってきたから想像が及ぶが、月読らそういう体験がない一般の人はこの句を小生ほど身にしみてわかり、共感できないのではないか。
葛といえば吉野葛であるが、さて葛を意識して栽培しているのであろうか。それとも荒蕪地に繁茂しているものから採取するのか。
仮に栽培しているとしても根を探し当てるとき地上の葉っぱや蔓はきわめて邪魔。よってそれらを片付けながら根の場所を見つけてそこを掘るしかない。葉や蔓を一気に整理してしまうとどこに根があるのか地上から突き止めにくいであろう。
さて突き止めた根がどれほどの大きさか。




この写真を発見した。葛の根の太さに感動したが待てよ、と思った。こんなに太いものは稀ではないのか。下仁田の奥地のコンニャク農家でコンニャク畑を見せてもらったとき、畑は土に砂礫が混じり痩せていた。しかしコンニャクは腐葉土を嫌いそういう砂礫地を好む。種芋は3年を経ないと収穫できる大きさにならない。
葛の根も同様でそう簡単に太らないのではないか。多摩川の隅で菊芋を採ったとき細かったことを思い出す。栄養のないところに繁茂する根っこは時間をかけないと太くならないのである。
吉野葛は有名であるが日本で使う葛のほとんど中国からの輸入ではなかろうか。葛採取に小生のような好事家が関与するとは思えない。それを採取して換金しようというプロの意欲がないと葛には手を出せない。あまりに採取、それから後の作業が面倒で。とにかく採取の現場に立ち会居いたいと思う。
鷹主宰の1句は小生にさまざまなことを考えさせた。ゆえに佳句なのである。


製品となった吉野葛

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鷹12月号小川軽舟を読む

2023-11-26 06:11:15 | 俳句

太秦の牛祭

小川軽舟鷹主宰が鷹12月号に「三尊」と題して発表した12句。これを山野月読と意見交換する。山野が〇、天地が●。

明王の赤き肉身秋暑し 
●明王は密教の仏像のようなものですよね。先代の嫌った神社仏閣系と素材によく手を出しましたね。 
〇「明王」というと赤とか青とかの色のイメージと怒ったような表情が思われますね。この句では「肉身」としたのがとてもいいです。これで、単に「赤き」肌だけではなく、怒りを表す表情や動きをつくる筋肉までが想像されます。 
●そう、「肉身」という語彙が効いています。けれどそう手を出してもらいたくない素材です。小生の好みではありません。

巡礼は洪水引きし花野ゆく 
〇「洪水」の後なら、草花はどうなっているかなとか濡れているかなとかも思うのですが、それ以上に、「洪水引きし」という形容がイメージさせる「花野」の広がりに惹かれました。
●どういう巡礼なんだろう、ということも考えました。洪水が引いた後はどうなっているのか。いろいろな興味が膨らみました。

復旧のあてなき橋や竹の春 
●多摩川の立川と日野の間の橋を思いました。一部歪んで通行できませんが今どうなったか。 
〇「復旧」の緊急性が低いと判断されるような、交通量も多くない小さな橋なんでしょうね。そうした場所なら、竹林も如何にもありそう。 
●いや、修理したいのだけれど予算がないということもあって情けないのです。竹林は近くになくてもよくイメージで置いています。

水底まで月光青き渡海かな 
●今月の句は宗教がらみが多いですね。これは「補陀落渡海」です。南方に臨む海岸から行者が渡海船に乗り込み沖に出てゆく。船が沖まで曳航し綱を切って見送ることもあったようです。 
〇「水底まで」は嘘だろうと思いつつ、いずれ沈みゆくのであろう渡海行者の行末に思いを馳せたのかなとも。 
●そう好きなタイプの句ではありません。情念が先行しています。

きつつきよ柩の釘を打ちに来よ
〇「きつつき」「柩」「釘」の脚韻が調べをつくっています。私の幼稚な俳句センスでは、この句は飯島晴子的素材で、これをさらに晴子テイストにすると「きつつきが棺の釘を打ちに来る」かなと。怒られそう(笑) 
●飯島晴子は感じませんでした。前の渡海の句もですが作者は何を意図して、何に感動してこの句をなしたのか、ちょっと首をひねります。命令形の句としてできてはいますがなぜこの句を世に送り出したかったかという作者の内面がよくわかりません。徹底的に巧い句を見せてやるぞ、というところまで感じないのです。

乳母の里なる太秦に牛祭 
●牛祭は、京都最古の寺、広隆寺の神事です。この句は「乳母の里なる」のウ音を効かせた枕詞みたいな導入が効いています。 
〇確かに枕詞的に効いてますね。 
●この句は巧いし、ほんのりとした味わいがあっていいです。 


 広陵寺阿弥陀三尊

毬割れて栗三尊のふつくらと 
●作者は前の句で太秦を詠んでいますからほかの寺も見ていますね。それが「三尊」であり、寺の近くで栗も見たのでしょう。 
〇広陵寺には国宝の阿弥陀三尊があるので、これのことではないですかね。とはいえ、この句の「三尊」は、この三尊像にかけて、「毬割れて栗」が三つ出てきたと言っているのでは? 
●国宝の阿弥陀三尊のことでしょう。それにかけています。毬の中から三つ出てきたという解釈に賛成です。「栗三尊」は巧い造語だと思いました。
〇「毬」の中に三つ並んだ「栗」を「栗三尊」と詠んだからこその「ふつくらと」の味わい。

陶工の筆の走りや火焚鳥 
●火焚鳥を作者は「ひたきどり」と読ませたいのでしょうね。尉鶲(じょうびたき)のことでこれは、たんに鶲(ひたき)とも呼ばれます。
〇「陶工の筆の走り」というのが私には意外な新鮮な展開でした、そう言えば「陶工」も筆を使うなあと。「火焚鳥」は、「陶工」に身近な火あしらいたかったのでは。 
●いや、近くに火があるのではなく、外の木々に火焚鳥がいた、と解釈しました。
〇もちろん「火焚鳥」は外にいるのですが、句にこれを取り込むときに「尉鶲」の用字でもよかったのに、そうとはせず「火焚鳥」とした背景として、「陶工」につきものの「火」をあしらったのだろうなと思ったのです。「火」を導入することで、「筆の走り」の勢いも感じさせますし。

真葛原統べゐし葛根掘り起こす
●その根を掘るという目的がないかぎり葛が繁茂しているところに入りたくないです。
〇この「統べゐし」の主語は「掘り起こす」作中主体ですか。つまり、自ら育てた「葛」だと。
●掘り起こすのは人ですよ。作者でもいいです。葛根は漢方薬やらいろいろな用途があります、けれどどうやって採取しているか小生を含めほとんどの人が知りません。米がスーパーに並ぶのを想像するより葛根が製品となるのを想像するのは困難です。この句を読んで葛根採取の大変さを想像しました。 
〇「統べゐし」の主語は、「掘り起こす」作中主体=人かなと思う一方で、上五の「真葛原」が主語とも読めるかなと思いました。
●それは変でしょう。

ぎんなんに鼻の慣れたるフリマかな 
●はじめフリマをプリマと読み違え、バレリーナとぎんなんの取り合わせは新鮮と思いました。フリマはフリーマーケットのことですか。がくっと来ました。 
〇「プリマ」は面白いですね。仮にこの2句が句会に出されたら○が付くのは「フリマ」ではなく「プリマ」の方ということですね(笑)。 
●うーん、「プリマ」のほうがよかった(笑)。 
〇銀杏並木の下で行われている「フリマ」で、そこら中に落ちた「ぎんなん」が「フリマ」客に踏まれ潰れて、あの独特の匂いに満ちているのでしょうし、そうなるほどに賑わってもいる「フリマ」会場。

ソムリエの語彙あふれけり星月夜 
〇洒落たフランス料理屋で「ソムリエ」にワインを選んでもらっているのでしょうか。それはそうとして、確かに「ソムリエ」の言葉には魅力がありますが、私にはそれは「語彙」の豊富さではなく、「語彙」遣いの自在さに思えます。 
●立花隆さんがソムリエの語彙力について書いたものを呼んで驚嘆しました。彼によるとソムリエは優れた言葉による表現力がないとなれないそうです。われわれの句評の何十倍も言葉を尽くすと聞き、恥ずかしくなりました。この句を肝に銘じて読みました。

蚯蚓鳴き物流倉庫巨大化す 
●この季語で倉庫の味気無さが出ています。 
〇「物流倉庫」が増設・拡張されて「巨大化」したとか、昔に比べて「物流倉庫」というものが「巨大化」したとか、物理的事実を言っているのでしょうか? それとも、その日その時にふと「巨大化」したような感覚に捉えられたということてしょうか。 
●目の前の倉庫が今大きくなっている、とは読みませんでした。 
〇私は、物理的事実の後者、つまり、「物流倉庫」というものも昔に比べて大きくなったなあということかなと思いました。その場合、「蚯蚓鳴き」は一種のタイムマシン的な役割を果たしているのだと思います。

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句会では問答をしたい

2023-11-24 11:01:59 | 俳句



きのうひこばえネットの句会を終えた。
そこでさる1句について評価できないことを連綿と述べた。それは「恋人との話に木の実割り込みぬ」というような句であった。3人ほどが採ったが小生は嫌った。「割り込むという擬人化がよくない。季語は木の実降るとしてフレーズにからめないほうが上質になる」とアドバイスすると作者は「恋人との長き話へ木の実降る、ですか」と聞いてくる。全然わかっていないことを告げ「恋人と長き話や木の実降る」というのが小生のアドバイスの内容であると説明した。
それに対して「わかりました」との返答を得たが、ほんとうにわかったのか。彼はわかっていなかった、あるいは、小生の意向にずっと納得していないので「話へ」と木の実をからませることを諦めなかった、と小生は思う。彼は擬人化にずっとこだわったのであり小生はこのケースでの擬人化を徹底的に嫌ったのである。ならば「わかりました」などと言わなくてよく、小生への反対を貫けばいい。合評句会であるから当該者二人に第三者が加わってどちらかを支持してもいいし別の意見を述べてもいい。
たかが俳句の1句であるがここで世界観の違いがぶつかったのである。簡単にわからずに意見を戦わせるほうが得るものは反対者、賛成者に大きい。ともかく意見を表明する人が多いほうがいい。

10月は次の句で盛り上がった。
雨の匂ひときどき木犀の匂ひ 内田創太
(О)雨の中ときどき風にのって木犀の匂いが漂ってきます。俳句の作りは単純ですが読み手をさっと攫って雨の匂いも木犀の匂いも嗅がせてしまう。大胆な句だと思います。天地先生の評が聞きたいです。
(М)雨だと金木犀に匂いも弱まって、ときどき匂うという表現も分かります。
 (S)「俳句は一行詩」を実感しました。
と、3人がこれを採った。小生は読んですぐ軟弱の句だと思った。
特選で採ったОが小生の意見を聞きたいというので以下の文面を用意した。

「雨の匂ひ」などというリアリティの乏しいものを真正面において詠むのは無理。
草の匂ひ水の匂ひや魂迎石田あき子
この句は、水の匂ひという希薄なものより草の匂ひという確かに匂うもののほうを先行させています。俳句は実体のあるものを先に出すことでそうでないものを引き出すというのがいいと思います。このような工夫が必要です。
藤の花雨の匂ひの客迎ふ角川春樹
客は雨を来て雨に濡れている。ゆえに「雨の匂ひ」が浮いていない。季語がそれを支えています。
抱き上げて雨の匂ひの孕み猫 藺草慶子
 雨に濡れた猫でしょう。実感のある雨の匂い。どの句もリアリティな希薄な匂いを物で補強することで詠んでいます。これらを参考に。
とОに答えた。
これに足して0は
「内田さんの句がいいなあと思うのは変わりませんが、改めて俳句って奥が深いと知らされました」とのこと。これでいい。特選で採ったからには小生が何を言おうと初心を貫くのが潔い。ただ、「わかりました」ではなくて議論を深めたいと常に思っている。

問答をすると親交が深まる。
東日本大震災の翌年のことだったか、余震という字の句を見た。余震が東日本大震災と結びつかずにわからないと言ったら普段おとなしい善五郎さんが小生に噛み付いた。地震学会では1年たっても余震というのだと。これに別の一人が賛同して小生は劣勢になった。俳句は学問ではない。余震といえばせいぜい2、3週間の時間のことを普通思う。そのうえに俳句がある、俳句は学問ではない。小生は持論を譲らなかった。しかし地震学を知って勉強になったし、あのときの善五郎さんの舌鋒の鋭さには感激した。ただ人の意見を唯々諾々と聞くだけではなかった。それが良かった。
句会では常に問答をしたいと思っている。

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