太秦の牛祭
小川軽舟鷹主宰が鷹12月号に「三尊」と題して発表した12句。これを山野月読と意見交換する。山野が〇、天地が●。
明王の赤き肉身秋暑し
●明王は密教の仏像のようなものですよね。先代の嫌った神社仏閣系と素材によく手を出しましたね。
〇「明王」というと赤とか青とかの色のイメージと怒ったような表情が思われますね。この句では「肉身」としたのがとてもいいです。これで、単に「赤き」肌だけではなく、怒りを表す表情や動きをつくる筋肉までが想像されます。
●そう、「肉身」という語彙が効いています。けれどそう手を出してもらいたくない素材です。小生の好みではありません。
巡礼は洪水引きし花野ゆく
〇「洪水」の後なら、草花はどうなっているかなとか濡れているかなとかも思うのですが、それ以上に、「洪水引きし」という形容がイメージさせる「花野」の広がりに惹かれました。
●どういう巡礼なんだろう、ということも考えました。洪水が引いた後はどうなっているのか。いろいろな興味が膨らみました。
復旧のあてなき橋や竹の春
●多摩川の立川と日野の間の橋を思いました。一部歪んで通行できませんが今どうなったか。
〇「復旧」の緊急性が低いと判断されるような、交通量も多くない小さな橋なんでしょうね。そうした場所なら、竹林も如何にもありそう。
●いや、修理したいのだけれど予算がないということもあって情けないのです。竹林は近くになくてもよくイメージで置いています。
水底まで月光青き渡海かな
●今月の句は宗教がらみが多いですね。これは「補陀落渡海」です。南方に臨む海岸から行者が渡海船に乗り込み沖に出てゆく。船が沖まで曳航し綱を切って見送ることもあったようです。
〇「水底まで」は嘘だろうと思いつつ、いずれ沈みゆくのであろう渡海行者の行末に思いを馳せたのかなとも。
●そう好きなタイプの句ではありません。情念が先行しています。
きつつきよ柩の釘を打ちに来よ
〇「きつつき」「柩」「釘」の脚韻が調べをつくっています。私の幼稚な俳句センスでは、この句は飯島晴子的素材で、これをさらに晴子テイストにすると「きつつきが棺の釘を打ちに来る」かなと。怒られそう(笑)
●飯島晴子は感じませんでした。前の渡海の句もですが作者は何を意図して、何に感動してこの句をなしたのか、ちょっと首をひねります。命令形の句としてできてはいますがなぜこの句を世に送り出したかったかという作者の内面がよくわかりません。徹底的に巧い句を見せてやるぞ、というところまで感じないのです。
乳母の里なる太秦に牛祭
●牛祭は、京都最古の寺、広隆寺の神事です。この句は「乳母の里なる」のウ音を効かせた枕詞みたいな導入が効いています。
〇確かに枕詞的に効いてますね。
●この句は巧いし、ほんのりとした味わいがあっていいです。
広陵寺阿弥陀三尊
毬割れて栗三尊のふつくらと
●作者は前の句で太秦を詠んでいますからほかの寺も見ていますね。それが「三尊」であり、寺の近くで栗も見たのでしょう。
〇広陵寺には国宝の阿弥陀三尊があるので、これのことではないですかね。とはいえ、この句の「三尊」は、この三尊像にかけて、「毬割れて栗」が三つ出てきたと言っているのでは?
●国宝の阿弥陀三尊のことでしょう。それにかけています。毬の中から三つ出てきたという解釈に賛成です。「栗三尊」は巧い造語だと思いました。
〇「毬」の中に三つ並んだ「栗」を「栗三尊」と詠んだからこその「ふつくらと」の味わい。
陶工の筆の走りや火焚鳥
●火焚鳥を作者は「ひたきどり」と読ませたいのでしょうね。尉鶲(じょうびたき)のことでこれは、たんに鶲(ひたき)とも呼ばれます。
〇「陶工の筆の走り」というのが私には意外な新鮮な展開でした、そう言えば「陶工」も筆を使うなあと。「火焚鳥」は、「陶工」に身近な火あしらいたかったのでは。
●いや、近くに火があるのではなく、外の木々に火焚鳥がいた、と解釈しました。
〇もちろん「火焚鳥」は外にいるのですが、句にこれを取り込むときに「尉鶲」の用字でもよかったのに、そうとはせず「火焚鳥」とした背景として、「陶工」につきものの「火」をあしらったのだろうなと思ったのです。「火」を導入することで、「筆の走り」の勢いも感じさせますし。
真葛原統べゐし葛根掘り起こす
●その根を掘るという目的がないかぎり葛が繁茂しているところに入りたくないです。
〇この「統べゐし」の主語は「掘り起こす」作中主体ですか。つまり、自ら育てた「葛」だと。
●掘り起こすのは人ですよ。作者でもいいです。葛根は漢方薬やらいろいろな用途があります、けれどどうやって採取しているか小生を含めほとんどの人が知りません。米がスーパーに並ぶのを想像するより葛根が製品となるのを想像するのは困難です。この句を読んで葛根採取の大変さを想像しました。
〇「統べゐし」の主語は、「掘り起こす」作中主体=人かなと思う一方で、上五の「真葛原」が主語とも読めるかなと思いました。
●それは変でしょう。
ぎんなんに鼻の慣れたるフリマかな
●はじめフリマをプリマと読み違え、バレリーナとぎんなんの取り合わせは新鮮と思いました。フリマはフリーマーケットのことですか。がくっと来ました。
〇「プリマ」は面白いですね。仮にこの2句が句会に出されたら○が付くのは「フリマ」ではなく「プリマ」の方ということですね(笑)。
●うーん、「プリマ」のほうがよかった(笑)。
〇銀杏並木の下で行われている「フリマ」で、そこら中に落ちた「ぎんなん」が「フリマ」客に踏まれ潰れて、あの独特の匂いに満ちているのでしょうし、そうなるほどに賑わってもいる「フリマ」会場。
ソムリエの語彙あふれけり星月夜
〇洒落たフランス料理屋で「ソムリエ」にワインを選んでもらっているのでしょうか。それはそうとして、確かに「ソムリエ」の言葉には魅力がありますが、私にはそれは「語彙」の豊富さではなく、「語彙」遣いの自在さに思えます。
●立花隆さんがソムリエの語彙力について書いたものを呼んで驚嘆しました。彼によるとソムリエは優れた言葉による表現力がないとなれないそうです。われわれの句評の何十倍も言葉を尽くすと聞き、恥ずかしくなりました。この句を肝に銘じて読みました。
蚯蚓鳴き物流倉庫巨大化す
●この季語で倉庫の味気無さが出ています。
〇「物流倉庫」が増設・拡張されて「巨大化」したとか、昔に比べて「物流倉庫」というものが「巨大化」したとか、物理的事実を言っているのでしょうか? それとも、その日その時にふと「巨大化」したような感覚に捉えられたということてしょうか。
●目の前の倉庫が今大きくなっている、とは読みませんでした。
〇私は、物理的事実の後者、つまり、「物流倉庫」というものも昔に比べて大きくなったなあということかなと思いました。その場合、「蚯蚓鳴き」は一種のタイムマシン的な役割を果たしているのだと思います。