天地わたるブログ

ほがらかに、おおらかに

鷹9月号小川軽舟を読む

2023-08-30 04:39:29 | 俳句



小川軽舟鷹主宰が鷹8月号に「藻畳」 と題して発表した12句について、山野月読と意見交換する。山野が〇、天地が●。

雨を見る眼動かず五月忌(さつきいみ) 
●季語に凝った作品が多いというのが一読した印象です。「五月忌」という季語は山本健吉の歳時記(文藝春秋)は掲載しておらず平凡社のそれには、五月を忌月として諸事を憚ること、とあります。もとは田植えを始める前に田の神の来臨を待つ巫女がかなり長い霖雨忌をしたとのことです。家に籠って穢れを祓い身を清める、といったようなことです。 
○豊穣祈願に「雨」はタイムリーとも、付き過ぎとも言えそうです。「雨を見る」とは書いてありますが、「雨」を通して向こう側(空間的ではなく)に気が行っている感じですかね。 
●付き過ぎというのはまるで季語がわかっていませんが、向こう側に気が行っているという把握は冴えています。潔斎をする巫女が目を動かさないというのは迫るものがあります。 
○「雨」とも関連するような理解をしていました。
●あなたがなじめないようにこの季語は存在するもののほとんど使われていないからです。五月忌を季語として掲載している平凡社の歳時記にも例句はありません。

藻畳やはつはつに花かかげたる 
●「藻畳」という季語、考えてしまいました。小生のもっているどの歳時記にもこれを収録していません。たぶんに作者の創作が入っているように思います。たとえば「霧」を調べると「霧襖」という季語に遭遇し、霧の深さを思います。同様に、「藻」に対して「畳」が付くと藻が密集して広がっている感じが出ます。作者はそれを意図しているでしょう。 
○なるほど、解説を聞いて「藻畳」のイメージは掴めました。「藻」に覆われた田(ですかね?)のひとところに微かに「花」が頭を覗かせている情景ですか。「かかげたる」という把握が明るくていい感じです。 
●田じゃないですよ。沼か川ですよ。まるでわかっていないなあ。「はつはつ」は漢字では「端端」で、かすかにあらわれるさま、ということ。睡蓮みたいにはっきりした大きな花じゃなくてかそけき花です。 
○田でそんなことがあるかなあと思いながら、前の句に引きずられていました。
●要するにこの句は「藻の花」という季語を展開したものです。季語を展開した場合だいたい水増しになってしまいますがこの句は立ち姿が凛としていて読んで気持ちがいいです。

虹立ちて傘を引きずりゆく子かな 
○先程まで降っていた雨があがって、そうなれば、この「子」にとって「傘」は無用の長物というわけですね。中七の描写が、この「子」をリアルに切り取ってます。 
●「傘を引きずりゆく子」、おもしろいですよ。虹の句でこういう展開の句、見たことがありません。やりようで俳句の抽斗はいっぱいあるということを見せてくれました。
    
吹き抜けし風に影あり衣紋竹 
●風に影なんてあるんですかねえ。情緒過多じゃないですか。 
○「衣紋竹」には丈の長い服(ワンピースとか)が掛かっており、「吹き抜けし風」に微かに揺らされることで、その服の影も揺れているのを、「風に影あり」と捉えたのでは? きっと「風に影」と捉える程に、服の影は淡いのでしょう。 
●いい読みですねえ。こういうふうに読む人がいると、情緒過多という評は撤回しなくちゃいけませんね。   

借金を返す借金雲の峰 
○「雲の峰」を「雪だるま」としたくなるように、措辞です。利子すら返しきれずに、どんどん増えていくばかりの「借金」のよう。にも拘らず、この句が詠める能天気さがいい。 
●自分のことじゃないですよね。 銀行から借りた金を返すために街金から借りるという構図が浮かびました。「雲の峰」は絶妙。どんどんふくれます。明るい季語をもってきて暗い事象を描くというのは見事です。やっぱり自分のことじゃないですね。そういう愚かな人を笑っている感じの「雲の峰」です。
○確かに作者のイメージとは隔たりがありますが、当事者なら句としてなお面白いと思いました。

じりじりと油蟬鳴く古土塀 
●一読しただけで暑苦しいですね。「じりじり」はありきたりのオノマトペですが内容が内容ですから悪くない。 
○もちろん悪くはないのですが、いかにもの感じの句ですから、敢えてこの句を提示するからには何か見所があるのではと思うのですが、さて?「油蝉」に「古土塀」とくると、色味的にも暑そうだけど。 
●この句はラグビーでいうとスクラムにボールを入れて出さずに押し込んでいく感じ。バックスへ展開しないので派手さがないですが力強いです。   

麻たけて姉(ねえ)やは嫁に行きにけり 
●「麻」は夏の季語ですが、「麻たけて」と使った句をほとんど見ません。「麻の花」あるいは「麻刈りて」とするより「麻たけて」がこの場合効くのは歴然としています。 
○「麻」は成長か早いと聞いたことがあります。それを下敷きに考えると、ついこの前まで一緒に遊んでいた「姉や」がもう「嫁」に行ってしまうんだなあ的な感覚でしょうか。 
●そうです。中七下五の俗な言い回しを季語が引き立てています。   

火取虫火に近づけば影巨(おほ) 
○「影巨き」というのは、少なくとも虫そのものよりも大きいのでしょう。影の大きさは投影される面までの距離によると思いますが、どこに投影されたのですかね。そう考えると、場所情報が少し欲しくなり、「火に近づけば」は不可欠な要素ではない気がしてきます。 
●「火に近づけば」がなかったらどうしようもないでしょ。焚火でもいいです。そこへ 火取虫が来ました。めらめる燃える火が影を大きく揺らしています。月読さんの読み、今日は変ですね。句に参画していない気がします。
○いつもどおり真剣に楽しんでますよ。「火取虫」以外であれば、「火に近づけば」がないと話にならないのですが、「火取虫」に「影」とくれば、そのくらいは読み手の想像に期待してもいいんじゃないかなと思ったのですが。

鵜篝や鉄漿(かね)の黒さに水流れ 
●蛇笏賞を受賞して作者の句の傾向が変わりつつあるのを感じます。自分の生活じたいから取材して親近感ある句をたくさん書いてきた作者ですが、そういった自分の周辺から題材を取るのではなくて、歴史的なものを改めて見直し自分なりの世界を開拓しようとう意思を感じます。それが「鵜篝」であり「鉄漿」だと思うのです。 
○この「鉄漿」は、「鵜篝」の器具(篝籠というのかな)の色であり、夜の川面もまたこの色という把握。 
●夜の川は黒くて凄みがあります。流れがあるので光沢があります。それを「鉄漿(かね)の黒さに水流れ」と表現されるとうっとりします。御歯黒の液体のあの黒さがなまなましく働いています。稀少季語など市井の人がついていきにくい句に挑戦する中で、この句はわかりやすくて深いという点ですばらしいです。   

暗き顔明るき顔や走馬灯 
○「走馬灯」から発せられる光の動きに応じて、そこに集った者たちの顔もまた明暗移ろう様。この「暗き」「明るき」は、即物的な明暗と捉えないと面白くないですね。 
●複数の人走馬灯を囲んで見ています。 いろいろな模様が動くなかで明かりの強弱が発生しそれが顔に映ります。その明暗見るのが妥当です。けれど、その人たちの幸不幸といったものを読み取れるようにも書かれています。
○そうか、「走馬灯」ゆえ、亡くなった親族と関連付けた思いからの明暗を読んでは面白くないと思ったのですが、そうしたこととは無関係の幸不幸ならいいですねえ。

垂迹の峰みどりなる氷室かな 
●垂迹は「すいじゃく」と読みます。仏教用語で、仏や菩薩が人々を救うため、仮に日本の神の姿をとって現れること。本地垂迹説などという言葉もあります。 
○御神体なる「峰」でしょうか。小屋的なものではなく、洞窟形式の「氷室」をイメージ。 
●今回、稀少季語が多く想像で書いであろう句が多いです。この句、作者は実際に見て書いたのかと考え、これも想像による所産ではないかと思いました。実際にどういう山が「垂迹の峰」か調べてみて、熊野権現あたりを思いました。「峰入」を行うあたりです。しかしあそこに氷室があるかどうか。いま氷室なんて簡単に見つけられませんから。今月作者は稀少季語が繰り出すファンタジーの世界を楽しんでいると思います。   

かさかさと翅触れ蜻蛉つるみけり 
●「かさかさ」はオノマトペとして平凡なのですが肩の凝らない仕立てはいいです。 
○「かさかさ」というオノマトペは、聴覚的な把握ですが、加えて、音の軽さ、(点的ではなく)面的な接触、乾燥性などを喚起しますね。 
●今回、稀少季語の世界を想像力を駆使しての作品を数多く披露しましたから、こういった身近なものを詠んでバランスをとったというふうに思います。










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多摩川晩夏

2023-08-28 05:24:13 | 身辺雑記



きのう曇っていて朝涼しい。プールへ行くのに飽きたので歩こうと思い、多摩川を見る気になった。自転車を野球場のところに止めて河川敷に入る。

爽やかや自転車よりも川速く
先日と同じコンクリートで護岸されたところを歩く。ここは水の流れがよく見える。

晩夏なり水垢ぬめる水溜まり
水垢は何でできているか知らぬが妙なものである。ずっと先の稲城大橋まで歩く気になった。


今唯一見る花、ハルシャギク





野分晴川の真中は波高し
水の動きはいつ見てもおもしろい。本流は盛り上がり波が高い。

醜草や地に枯れ伏して骨光り
晩夏、初秋に枯れる草は多い。やわらかな草はべっとり茶色になっている。向日葵のように太い茎をもつ草は倒れていつまでも形がある。草は有機質だが無機質の光を放つ。








蜻蛉に泥干上がりし河原あり
ごろごろした石を踏んで歩くと俗世界から離れて落ち着く。蜻蛉はどこから来るのか。

風に乗る飛蝗や翅のきらきらと
河原の草叢から一斉に飛蝗が飛び立つ。彼らは稲子と違い足で蹴って飛ぶというより翅を使って飛ぶ。田んぼより多い飛蝗に驚く。


稲城大橋下の水たまりで遊ぶ一家


秋暑し泡立つ川のなまぐさく
人間は使ったあとのもろもろが川に流れる。洗剤のたぐいも流れるので匂う。むかしこの水を泳いだのだが今はしない。今でもそこで水遊びする人たちがいる。

籔に入る酔狂者に秋の蛇
川端を歩いて行って戻りを違う道にしようとして難渋した。背丈を超す木だが草だかわからない籔に入ってしまった。いつか来たことのあるところだが道はない。




かつてある河原人が住んでいた庵。今は廃墟。



草汁の染みしズボンや秋暑し
籔を抜けると草の色が衣服についている。木の色もついていてとにかく汚れている。また妻が文句言うこと必定。

秋日和向う岸まで波満ちて
ここは一番静かなところ。むこうに多摩の清掃センターがある。


かつて小生が泳いだところ。岸では大勢がバーべキューをする。

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МVPは誰か

2023-08-27 06:19:14 | スポーツ

5回、坂本が四球を選び、拍手する岡田監督(撮影・吉澤敬太/デイリースポーツ)

阪神が強い。8月26日巨人に勝ってマジックナンバー24とした。優勝は間違いないだろう。阪神ファンは、競艇で最初の旗をトップで回った舟が一番になるのをうきうきしながら眺める心境に似て毎日の戦いを見ているだろう。

ところで阪神が優勝したときМVPは誰か。突出した選手が見当たらないのである。三冠王を取った去年の村上のような選手がいない。打者にも投手にも。打者も投手も一番がいない。打率、打点、本塁打の一番がいなければ、勝星、勝率、奪三振の一番もいない。しかし出てくる選手全員が何かやってくれそう。事実やってくれる。
打線はつながるし投手は大きく乱れない。先発が乱れても中継ぎ、押さえがきちんと仕事をする。「全員野球」という言葉があるがまさにそれであり、個人競技ではないなあと痛感する。監督の采配も的中するし選手を甘やかさない。
プロ野球はドラフト制。要するにくじ引きで選手を各チームに配分しているからそうそう大きな戦力の不均衡はないはずである。それが現在、以下のような差がついている。
  1位:阪神69勝41敗4分 0.63 
  4位:巨人56勝56敗1分 0.5
  6位:中日41勝69敗3分 0.37(8月26日現在)
巨人は勝率5割だからまだいいようなものの、中日はひどい。ここまでひどいと中日ファンを越えてプロ野球ファンに失礼ではないか。
片方が3割7分しか勝てないものをはなから見たくないのである。阪神ファンだって弱い巨人を見たくないと思う。そこそこ強い巨人に阪神が競り勝つのを見るほうが興奮するだろう。
ドラフトで基礎戦力が均衡化しているのなら問題は球団の育成とか監督の采配とかいったところにやってくる。
中日もひとつ何かが変われば急変する可能性がある。今のままではスタッフは総入れ替えするしかない。そう思うと阪神の岡田監督の技量は称えられていい。とぼけたあの風貌が神々しく見える。男はとぼけているような風貌で仕事をしっかりこなせばいい。

阪神のМVPは誰なのか。これはどんぐりの背比べであり選ぶ人を迷わせるだろう。


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戸田漕艇場散策

2023-08-25 18:13:05 | 身辺雑記



今日、戸田漕艇場でエイトの競漕があるというので出かけた。西国分寺駅から武蔵野線で7駅行き、埼京線に乗り換えて3駅目の戸田公園で下車。45分で着く。

飛び火せしごとく夏雲全天に
武蔵野線は関東平野を走る。空を広く感じ気持ちがいい。戸田公園からいいかげんに歩いたら競艇場の真ん中へ来てしまった。競艇場は2000mあるからどちらへ行っても1000 m歩かねばならぬ。途中に入口がない。この暑さの中これは失敗した。駅から20分も歩いて汗だく。10時に着くと閑散としている。










水かけて洗ふ一艇夏の果
入り口近くに東大漕艇部があり、裸の男子がごろごろしている。女子はきちんとユニフォームを着てボートの手当をしている。
中にえらく愛想のいい娘さんがいて小生を父のように見て話しかけてくる。いまこのボートに乗って漕いだばかりだという。つまりエイトの競漕は終わってしまっていて「残念、見せてあげたかった」と。
しかし、エイトのボートに関することは実際に見ていろいろわかった。
誤解していた最大のことは、ボートに舵がきちんと付いていること。これをコックスが手で動かしいる。したがってコックスは舵手と訳して正解なのだ。やはり実見しないと物事はしかとわからないということを確かめることができた。

ボートの上に黒く付いているのが舵。これをコックスが操る。



しづしづと運ぶ一艇夏の果
ボートを運ぶとき厳かな気がする。出て行くときも帰るときも。担ぐ全員が一気に帽子をかぶるようにして裏返すのがおもしろい。

溽暑なりおどろおどろしあをみどろ
漕艇場は溜まり水ゆえあおみどろみたいなものがえらく繁茂する。きれいとは思えないが生命力を感じる。

漕艇場のすぐ横、道路を越えて荒川の大きな土手がある。ここの石段は一段ずつがえらく高い。前回来たとき80歳半ばの句友が音を上げたことを思い出す。

石段を登れば自由雲の峰
石段と空を見上げるといい気分になる。空の広さをもっとも感じる場所である。

漕艇部のもの大川も大空も
荒川の水は漕艇場のものよりすがすがしい。風が波を立てて気持ちいい。ここにもボート練習する学生がいる。たまたま東京都立大学の青年たちと遭遇した。男子4人に女子1人。大川には大空があるのを実感する。



漕ぎ終へて水に飛び込む夏休
岸に上げるとき5人川に入る。上げてしまってからまた5人が川に入り、水かけっこなどして体を冷やしている。

素足八本げぢげぢのごと艇運ぶ




艇庫は開いているところが多かった。整然と舟が積まれている中でサンダルが雑然とある。サンダルは身近なものでありかなりの数があちこちにある。女子部員がまとめて籠にいれて運んでいる。
ちぎれたるサンダルもある艇庫かな

ぴかぴかの艇庫の床に足掻く蟬

艇庫の戸ひらき人居ぬ晩夏かな
床がリノリウムが光沢があるり埃が少ない。きれいだ。戸がひらいているが作業する人をほとんど見ない。風通しをしているのか。



舟着場というとおおげさだが、ボートを付けるところの近くに自転車とリヤカーがあり目に付く。リヤカーを何に使うかと思ってしばらくして見ると雑草がいっぱい入っていた。保全係の人がいて草むしりなどていねいにしている。
リヤカーの夏草の中藻の花も

新涼や櫂の雫を風が吹く
秋といっても真夏の暑さ。けれど櫂の水を見ていると涼感がある。

競艇と漕艇戸田は紛らは
帰りは駅へスムーズに歩いた。駅に「競艇行き」バス停があった。これに乗ればよかったかと思いじっくり見て、ああこれはギャンブルのエンジン付きに舟遊びに行くバスでありことがわかった。漕艇だって競うのだから競艇といって間違いではないなあ……。
戸田のボートは紛らわしい。
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湘子は8月下旬どう詠んだか

2023-08-24 06:24:12 | 俳句



藤田湘子が60歳のとき(1986年)上梓した句集『去來の花』。「一日十句」を継続していた時期にして発表句にすべて日にちが記されている。それをよすがに湘子の8月下旬の作品を鑑賞する。

8月21日
はつきりと鬘とわかりソーダ水
誰かと共にソーダ水を飲んでいる。その人の頭に鬘であることがはっきり見えた、というのだろうか。ここにソーダ水を置いたというのは前の人の鬘を愉快に思っているのか。隠しても見えてるぜ、ということか。
露けさに口約束をさせられし
口約束をさせられてそれがむなしい、という句意だろう。が、「露けさに」が理由のごとく置かれている文体に注目する。
むしむしとして雨降らず地蔵盆
地蔵盆は京都で8月23・24日の地蔵菩薩の縁日に行う会式。この日、児童が石地蔵に花を供える風習がある。「むしむしとして雨降らず」は言い得て妙である。

8月22日
取るに取らざる芋蟲を爪弾き
「取るに取らざる」と見栄を張った作者がおかしい。たんに気持ち悪いだけではないのか。この野郎と思って慌てて爪弾きしたのである。
いづかたの巣へ行く蜂ぞ秋の風
上五中七、ていねいに言葉を使っていて好感を持つ。蜂に対する敬意のような気持ちがある。

8月23日
露の玉うごきかまきり考へる
蟷螂の存在そのものがいつも何か考えている感じ。そこに「露の玉うごき」が加わるとよけいそう思う。二物をそっと置いてよい情趣を出している。
世阿弥忌の女優とバアの止り木に
世阿弥忌は陰暦8月8日。この女優は舞台女優か。世阿弥忌の過ごし方として乙である。

8月24日
萩に思ふ歌舞伎役者ののどぼとけ
不思議な句である。萩を見ていて喉仏を思うのか。他人がどう読むかまったく考えていない。「俺はそう思ったんだよ」という濁声が聞こえてくる。
渾身の闇をつくりぬ露葎
「渾身の闇」は不思議な言葉だが押してくるものがある。「渾身」の主語は「葎」である。露の降りた夜の雑草の上の闇を深く感じている作者がいる。

8月25日
秋めくと天にとゞかず海の虹
秋の虹は夏のそれと比べて勢いがないと言っている。「天にとゞかず」が効いて見える句である。
梨食へば多摩は月夜の起伏かな
「柿くへば鐘が鳴るなり法隆寺 子規」と似た上五からの流れ。子規の心の華やぎに対して湘子は沈潜した心で多摩丘陵を見ている。「多摩は月夜の起伏かな」はそれでいてふくよかな味わい。

8月26日
黒はわが今生の色秋の風
「今生」というと生死を思い、この黒は喪服かといったん思ったが違うと思い直した。なにかの儀式、それも自分が脚光を浴びるはずの場へ出て行くのではないか。秋風はさびしくなく爽やかである。
雲秋意波止の男に女寄る
湘子は男女ものが得意で「熱燗や男の膝に女の手」を記憶するが、これは映画の一シーンのような切り取り方。「雲秋意」は格調がある。凡百にはなかなかできない置き方。

8月27日
雲見るにまぶたはたらく草の花
「雲見るにまぶたはたらく」は繊細。この繊細さが湘子の味わい。「草の花」をそっと置く。
スカートの汚點(しみ)螽蟖(ぎす)の野に気づきたる
おもしろい。女性と秋の野を歩いている、デートである。汚點に女性が気づいた。その表情が気に入ったのであろう。汚點など書きながらこの女性への関心が並々ならぬものがって、おもしろい。
虚と実と胡桃へだつる鏡かな
鏡の前にある胡桃である。胸中の物が虚というのはやや常識的だがよく見える句である。

8月28日
合流の前も二つの紅葉川
「合流の前は」でないと意味が通じないのではないか。そう書けば理屈っぽくなるので「合流の前も」と書いたのか。やはり変なのだが「二つの紅葉川」は悪くない。
夜学生家郷の藪のくらさ言ふ
前の句は精度が欠けるがこの句は完璧。夜学生が故郷の暗さを言ったということに味があるのだが、さらに押し進めて「藪のくらさ」まで踏み込んで奥行のある逸品。

8月29日
街路樹の蟬を手捕りぬ家長にて
「家長にて」が場違いなほど仰々しい。毛虫を焼いたというのなら「家長にて」はわかるのだが。手で捕って子供にやったのか。子煩悩の家長である。
蓑蟲の枝今が去り今が去り
蓑虫は揺れているのか。揺れているから「今が去り今が去り」と繰り返す衝動に駆られたのか。はかなさを全身で感じている。

8月30日
着きし荷の鶏頭見えて霧の宿
宿に着いた荷から鶏頭が飛び出ている。これは新鮮であったろう。「霧の宿」が効いている。

8月31日
燈火親し佃煮は壜出てよろこぶ
不思議な句である。佃煮なんか光の下で喜ぶのかなあ。小生は付いていけない。
空罎の音夏終る峡の音
空罎(あきびん)は石か砂に落ちたのか。たとえばバーベキューをしていて飲んだコーラの壜とか。「峡の音」とは「空罎の音」を含んで川の音と感じる。二番目の音は重層しているとみた。
空蟬を門にちりばめ湯治宿
風流な心意気のある宿の主。秋の静かな湯治を思う。
指こぼる澤蟹あかし秋の風
皮膚の色と比べて蟹の色が引き立つ。その硬さも。秋の風はほどよい情趣。
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