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天地わたるブログ

ほがらかに、おおらかに

殺人者が弁護士になれるのか

2024-11-14 04:13:16 | 文芸



中山七里の小説『追憶の夜想曲』(ついおくのノクターン)についてである。
上の帯文で紹介しているように、本書の主要人物は、弁護士・御子柴礼司と検事・岬恭平。二人の一騎打ちといっていい。
剛腕ながらも依頼人に高級報酬を要求する悪辣弁護士・御子柴礼司は、夫殺しの容疑で懲役16年の判決を受けた主婦の弁護を突如、希望する。それを担当していた弁護士を半ば脅迫してその任に就く。
東京地方検察庁の次席である岬恭平はこれを知って驚きと不審の念と不安に包まれる。かつて有罪で起訴した案件を執行猶予に持ち込まれ完敗した不倶戴天の敵であるからだ。
岬は部下に任せておけなくて自分が法廷に立って闘うことを選ぶ。
岬の参戦により闘争は検事側有利に進むが中盤から御子柴の反撃が始まり、終盤でとんでもない展開になる。御子柴は自分の少年期過去、犯罪履歴を明らかにする戦術に打って出るのである。
ここで、「殺人者が弁護士になれるのか」という疑問が沸騰した。作者のことだからその法的可能性を調べたうえでの筋立てであろうが一般常識ではついていきにくい感覚である。
それを度外視すれば終盤の展開は読者を何度も裏切るスリルに満ちている。
しかし、「殺人者が弁護士になれるのか」といった思いがついてまわる。

◆以下ウィキペディア(Wikipedia)から・・・・・・・・・・・・・・・・・・
『追憶の夜想曲』(ついおくのノクターン)は、中山七里の推理小説。『贖罪の奏鳴曲』の続編として、『メフィスト』(講談社)にて2012年vol.2から2013年vol.2まで[1]全4回連載され、講談社より2013年11月21日に単行本、2016年3月15日に講談社文庫が発売された。
今までも続編らしきものはあったが、著者の中山は今作こそがデビュー4年目にして「初めての続編」「正統な続編」であると位置づけている。小説家は1作1作にキャラクターの魅力もテーマも全てを投入しているため次を書いても味が薄まるという考えから、以前から”続編”を書くことには抵抗があった。『贖罪の奏鳴曲』に関しても書き終えた時点では続編の構想は無かったが、編集部から「是非続編を!」とリクエストされたことと、自分でも『贖罪の奏鳴曲』に関しては未完で、シリーズではなくきちんとその後を書かなければいけないという思いがあったため、執筆を決めた[。前作の最初のプロットでは御子柴は死んだことになっていたが、後味が悪かったため実際に刊行する際に生死はぼかしており、続編を決めた時に中山は「あぁ、殺さなくてよかった。」と安堵したという。
タイトルや作中に登場するショパンのノクターンはトラウマや思い出を想起させる意味合いで選ばれ、作中では被告人の亜希子と御子柴が共通して背負っている原罪が描かれている。また、家族や親子というのが本作の裏テーマであったため、御子柴の敵役には今まで描いてきたキャラクターの中で最も親子関係がうまくいっておらず、息子・岬洋介との関係に悩む岬恭平に白羽の矢が立てられた。また、内容がドロドロなため、ブラック・ジャックがモデルである御子柴礼司に対し、ピノコを出す感覚でアクセントとして純真無垢な女の子である津田倫子を登場させた。


ピノコとブラック・ジャックというのがわかりやすい。
ところで、弁護士・御子柴礼司ものはこれで終わりになるのだろうか。
ふつうの考えだと弁護士の過去が公に報道されてしまってもう無理かと思うのだが、世の中には悪いことをしてその後始末をしたい金持ちの輩がひしめく。
彼らにとって弁護士の過去などどうでもいい。自分の罪をすこしでも軽くしてくれるなら悪徳弁護士を必要とする。したがって続編がないとも言えない。
もし作者が続編を書くとなるといったいどんなプロットになるのかという興味はある。至難であると思うが。
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雲の階段

2024-08-24 06:08:20 | 文芸




小生のブログを見た旧友が俳句をやっていることを喜ぶとともに驚いたみたいだ。「むかしは詩を書いていましたよ」といってそれを送ってきた。
たしかに詩のようなものである。1987年3月に書いたらしい。36歳であり俳句を始める直前である。これを見て半分は自分であり半分は他人のような気がした。モチーフは登山のようである。夏から秋に移る不確かな行合いの空を仰ぎ、この時期にあったテキストのような気がする。
「がらんどう」「雲の階段」という2編である。

。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。
がらんどう

山にひとり行き暮れて
水は飲みほした
からっぽの水筒を風にさらすと
ボーボー
からっぽの水筒に息を吹き込むと
ボーボー
がらんどうが鳴る
ぼくの体もがらんどう 


。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。
雲の階段

ぼくが山を登っていると
雨がふりはじめた
道はぬかるみ
靴の中はぐっしょりになった
草は脚にまとわりつき
無数の実をつけた
もの言わぬ生命の叫び
生命の餞別だろうか?

道はだんだん急になった
ぼくは脚ばかり見るようになった
ザックは重く
体はこごんで
脚の運びだけを見ていた
いつしか
草の実も靴の泥も
きれいさっぱり
流されていた

急に足もとが明るくなった
白い石!
花崗岩のつづく道だ
花崗岩は年月を経たしゃれこうべ
生命の色が抜けきって
折り重なっていた

白い頭蓋の
ひとつひとつは
ぼくの ひと足ひと足を押し上げ
天へ送ってくれるようだった
ぼくはしだいに
自分の力で脚を動かしている
気がしなくなった

靄は木の間をめぐり
葉の色をむなしくしていた
ナナカマドがただ一つの色気
生の残り火を燃やしていた
乳首のような赤い実を
一粒つまんでかんでみると
生ぐささが口いっぱいに広がった
ペッペッ! もう生は面倒だ
額から落ちる雨滴で
口を漱いだ

ぼくの意識は白くなっていった
考える力が失せていった
はて
ぼくの踏んでいるのは石だろうか?
なんだか硬くない
足は軽く
体はふわふわ
雲は湧きたち
どこまでが山で
どこから空がはじまるのか
わからない

ぼくはもう
雲の上を歩いていたのかもしれない
雲の階段……
体がなくなってしまうような
こんなふわふわした感じで
天まで登っていくのだろうか?

そこまでは覚えていた
次の瞬間
雷が轟き閃光が走ったようだ

今ぼくは草原にいる
頬にあたる空気がやや重い
草は赤や黄に色づき
露が光っている
きっと雲の階段から 落っこちたのだろう
まだ天まで登っていけないようだ
体が疼いている……



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徳島の名士・松尾初夏

2023-09-06 05:17:46 | 文芸

8月13日付徳島新聞の1面。阿波踊りと一緒とはめでたい。


徳島の句友、松尾初夏からきのう郵便が来た。だいたい内容がわかって明けてみると、やはり徳島新聞がらみ。「青天のヘキレキ、初応募でGetしました」と初夏が有頂天なのは、随筆大賞受賞であった。
8月13日付徳島新聞の1面に「とくしま随筆大賞 松尾さん最優秀」と大きく報じられていた。その作品の題は「夜はこれから」。71点の応募作品の中で一番だったとか。選考委員が、
「夜はこれから」は、真夜中のムカデ退治を迫力満点に描いた小説風の作品。テンポがよく情景描写が抜群にうまい。ユーモアがあって楽しく、文章力を感じた。書き出しも結びの一文も効果的だ。
と絶賛した。
「夜はこれから」の一部を紹介する。

「人間・田中角栄」を読み終えると日付が変わろうとしていた。掃き出し窓の網戸から流れ込む夜気はつめたく、かすかに秋の匂いがする。澄みきった虫の音が耳に心地よい。
……………………………………………………
黒い胴体はわたしの親指ほどの幅があり、全長は中指くらいだ。胴体をみっしり取り囲み、蠢きつづけているののは漢字の表記そのもの。なるほど百本はありそうだ。見るからにおぞましい。
……………………………………………………
最初の一撃が勝負のかなめ。今だ! 渾身の一撃の直前、それは電光石火のごとくに難を逃れ、今度はふすまの枠に縦一文字にしがみついたではないか。アドレナリンは沸騰し、全身が熱くなる。息もつかせぬ再攻撃は見事に命中。仁王立ちしているわたしの足元にぺろりと剥がれるように落下した。
……………………………………………………
はたしてムカデは一匹だけだったのか。もしや仲間がいるのではあるまいか。一部始終を息をひそめて目撃していたかもしれない。
……………………………………………………
仕切り直しの丑三つ時である。

選考委員が言うように臨場感満点で楽しい。初夏は徳島新聞の文化欄でえらく活躍している。前回、新聞が来たときは短歌で最優秀賞を取ったのであった。川柳も何か取ったような気がする。徳島新聞を自分の庭花を咲かせるように楽しんでいる。徳島新聞の文化欄のヒロインであり、あっぱれである。同年代の友の病気などマイナスの話題が多いなか、同い年で朗らかな初夏はすばらしい。9月17日の授賞式には作品を自ら朗読するという。
ただし、俳句だけ賞を得ていない。それは初夏の持ち味のおもしろさが俳句の場合、たぶん行き過ぎるのだろうと思われる。俳句はいくぶん言葉を抑える、気負いを鎮めるほうがいいのである。
初夏よ、ムカデ(百足)とこれだけ付き合ったのだから、それを俳句に詠むこと。百足を一物仕立ての俳句にできるはずである。それをぜひ句会で見たい。これが書けるようになったあかつきには俳句で徳島新聞をまたにぎわすことができるだろう。期待している。

初夏の写真映りのよさに驚いた。72歳とは思えぬ若さ。

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川柳は頭の体操

2023-07-19 06:08:02 | 文芸



島田駱舟さんから彼の主宰する「銀河」7月号が届いた。そこにおもしろい題詠があった。すなわち、「好きでもあり嫌いでもある」で句を書けというのである。以下、好みの句を紹介する。

和泉あかり選
平然と好きだと言えた舌の先 池田文子
川柳は好きだが好きでない選者 阿部闘苦朗
お小遣いに付いてきましたお説教 久々公美子
横文字は嫌でも歌ふビートルズ 洲戸行々子
饅頭は怖い美味しい嫌だ好き 佐藤孔亮
パイナップル酢豚の中に入れないで 稲盛あこ
誰にでも優しいキミと居る不安 中川めぐむ
離婚した夫に似てる孫の顔 五十嵐幸夢
憧れのスターさっさと嫁貰う 北川キミ代
唯一の趣味を仕事にして悩む 森吉留里惠
天国も地獄も行ける憎い酒 野村克己

いろいろな発想があって楽しく、おもしろい。俳句ではできない言葉の世界である。
さて小生の句で「好きでもあり嫌いでもある」は何かと考えて、一句浮かんだ。
四万六千日勝気な妻のあとに付く わたる
半世紀前結婚したとき勝気とは思わなかった。それが今や口論などしようものなら打ち負かされる。昔は付いて来たが今は小生が付いて行く。
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西村賢太氏を悼む

2022-02-06 06:23:37 | 文芸

© KYODONEWS 芥川賞に決まり笑顔の西村賢太さん=2011年1月、東京・丸の内の東京会館


共同通信社は2月5 日15:48、芥川賞作家の西村賢太氏の訃をネット発信した。以下の通り。
**************************************
破滅型の私小説で知られる芥川賞作家の西村賢太(にしむら・けんた)さんが5日朝、東京都内の病院で死去した。54歳。東京都出身。
 中学卒業後、アルバイトで生計を立てながら小説を執筆。2007年に「暗渠の宿」で野間文芸新人賞、11年に「苦役列車」で芥川賞を受けた。受賞決定後の記者会見での破天荒な発言が注目され、同作はベストセラーに。他の著書に「小銭をかぞえる」「どうで死ぬ身の一踊り」など。
 大正時代に活動した作家藤沢清造に心酔し、小説集出版に尽力した。
 関係者によると、4日夜、タクシー乗車中に意識を失って病院に搬送されていた。
**************************************
西村さんの作品を全部読んだわけではないがとにかく一人笑った。抱腹絶倒し、しばらくして哀しくなった。「おもしうてやがてかなしき鵜舟哉」である。
特に女と関係を持ちたい心理は身につまされた。男の性への願望……自分を美化せずによくぞ赤裸々に書けるものだと感嘆し、誠実さにひれ伏す思いであった。自分を俎板の上に置いて別の自分がそれを切り刻むというむつかしいことに取り組む胆力に拍手した。
彼が芥川賞を受賞してときめいていたとき、小生はある同級生の女性から彼女が書こうとしている自叙伝の相談を受けた。そのとき彼女に西村賢太を読んでヒントにしたら、とアドバイスした。
彼女は西村賢太の一冊を読み切らず小生に「とてもこんなものは読めません」と苦情を言ってきた。そのとき彼女に愕然とした。西村賢太に感動しない者が自叙伝を書けるのか。何のために書くのか。自分を飾りたてて誇りたいのか、と説いたくなった。そうはしなかったが。そこまで踏み込む相手とは思わなかった。
「西村賢太、教えてくれてありがとうございます。ここまで裸になれるなんて凄いです。私にはとても無理」という返事が来れば可愛かったが…。
とにかく偽善を徹底的に排除して自分を覗くということに凄みを感じた。偽善の対極に偽悪、露悪というのがあり、西村さんは偽善を排除するあまり、偽悪、露悪に陥っているのではないかという懸念さえ感じた。自分を反対側に持って行かずにありのままに書くということの難しさを痛感したのである。
ありのまま、と言ったが、ありのままが言語作品において存在するのか。ありのままに書こうとしてもなんらかの虚が交じるのが作品ではなかろうか。西村さんもそのへんで意識をびりびりさせていたのではないか。ありのままに見せている自分を感じていただろう。繰り出すすべての言葉を意識するのがプロの作家である。意識するということに虚を楽しむセンスがある。
西村さんは虚実の皮膜を感じさせてくれた稀な作家であった。いや、文士といったほうがいいか。たぐいまれな個性を悼む。
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