天地わたるブログ

ほがらかに、おおらかに

龍淵に潜む原子炉火を見せず

2015-11-29 11:18:04 | 俳句

新橋駅前のSL。石炭の火をみている時代はまだ平穏であった

きのう鷹中央例会で小川軽舟選に入った小生の句である。
一般選でも5点入り評判がよかった。
原子炉は火があるのかと思ったとき一気にできたのだが、作ってからあれも燃えているから火と呼んでもいいんじゃないかと迷いはじめた。
主宰は火はないというふうに素直に考え、「火を見せずといても稼働しているのでありかえってそらおそろしい」と評価してくれた。
点を入れてくれた方々も原子炉に火はないと信じたのだろう。

「龍淵に潜む」という季語が好きである。水や稲作を司る架空の動物だが故郷の土蔵の白壁には龍の絵がよく描かれておりそれががうねって壁から飛び出す想像をよくしたものだ。
俳句特有の架空動物季語であり出典は『説文解字』だという。
後漢の西暦100年に許慎という人が作ったとされる最古の部首別漢字字典『説文解字』の中に、龍は「春分にして天に昇り、秋分にして淵に潜む」とあるそうだ。
それが日本で季語となった。
けれどぼくの持っている5冊の歳時記の中でこれを掲載しているのは1冊のみ。
それは講談社のものであるが「龍淵に潜む」のわずかな解説はあるが例句はひとつもない。
例句がなくてイメージ喚起力のある季語にはチャレンジしたくなる。

「龍淵に潜む原子炉火を見せず」で不気味さを出すことに成功したかもしれないが、原子炉のなかで火は発生していないのか、プロの見解を聞きたくなった。
あるいは原子炉のなかを覗きたくなった。
火というのは表に現れたピカッと光るものなのか。それは原爆である。
火を考えているうちに原子炉と原爆はそう離れていないことを再確認してこわくなった。
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知らなかったでは済まないわよ

2015-11-28 09:01:11 | 身辺雑記

添削していると自分の無知に気づくことが多い。
「觔斗雲」もそうで、わからず辞書を引いた。孫悟空の乗る「きんとんうん」である。ウィキペディアでは「筋斗雲」となっている。
このようなことはしょっちゅうある。
字の読み方もさることながら、この世に登場している新製品にまつわる固有名詞などには後れをとり、ときに恥をかく。
世の中は知らないことばかりである、といつも思う。

今日の新聞を見てびっくりしたのが「オウム菊地被告逆転無罪」(毎日新聞)である。
菊地直子については17年の逃亡生活の末逮捕されるという物語がついてまわる有名人だけに、まさか無罪とは……思った人は多いだろう。
弁護側が主張した「薬品を運んだが、爆弾の原料とは知らず、計画も聞かされていなかった」が裁判官を納得させた形となった。
この報道について朝飯時、妻と話すと言下に「知らなかったでは済まないわよ」といきり立った。
「まあまあ菊池被告も、知らなかったとはいえ罪のない多くの人々に…」と言っているからといっても妻はおさまらない。
「私はあなたの浮気だってすぐわかる。そういうことはわかるはずなのよ」と、知らなかったということそのものに疑問を持っている。
たしかに妻の言い分ももっともである。
知らなかったで済まされるのか、ということも世の中にはたくさんある。

法律を知らなかった、というのもそのひとつ。
いつかハンガリーを旅していて地下鉄のチケットをいくつかの乗り継ぎをして咎められたことがある。罰金を支払うはめになったが、これはその国のことを知らな過ぎたのである。
知っていなければならないことである。

いっぽうノーベル物理学賞を受賞した梶田隆章氏の素粒子ニュートリノは質量を持つという説は何度聞いてもよくわからない。
梶田氏やこの世界に深く踏み込んだ方々には「知った」「わかった」という実感があるのだろうが浅学の身はついていけない。
数式も含めて言葉だと思うのだが言葉のレベルを高めないかぎり知ることは遠い。
けれど宇宙に地球の科学をはるかに超えた知的生命体がいたとして彼らがいまの地球の知識を知ってどう感じるかは闇である。
なにやってるのかな、この星の生命たちは? と思いつつフンコロガシの糞を見るような感慨を抱くのかもしれぬ。

世の中は知らないことばかりである。
知らないでいいこともたくさんある。配偶者の浮気もそのひとつ。
しかし知らなかったで済まされないこともまたある。
知る、知らないの間の闇をどうとらえるか。どう超えるか、考えることは多々ある。
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ぼくの読んだ今年ナンバーワン

2015-11-26 16:57:59 | 


それは木内昇『櫛挽道守(くしひきちもり)』である。
2013年12月10日集英社発刊。集英社WEB文芸レンザブローへ2009年7月17日~2013年7月12日まで連載したものである。

今年はまだ一ヶ月あるがこれを超える作品にはお目にかからないだろうと確信する。この確信は本書において主人公である登瀬が自分の父吾助以上の櫛製作技術を持つ者は神州にいないだろうと信じ込むのに似る。なぜ京も江戸も知らずほかの櫛も知らないのにそんなことがいえるかと人に揶揄されても登瀬の信念は揺るがない。
それほど父の櫛作りに魅了されて父の跡を継ぎたいと修練を重ねるのが本書のひとつの幹を成す。
そのために登瀬は結婚して子をなすということに興味を持たない。
父の働くわきの板ノ間があればよく、そこで技を磨き父のレベルの櫛を作れるようになりたいと職人人生のみを欲する。したがって村では外れ者。
これに反して母の松枝と妹の喜和の生き方がある。二人は結婚を前提に女の生き方を考えるが中身はまるで違う。
登場人物は櫛職人一家とつきあいのあるわずかの人間たちとの交流を描くが、どの人物も鮮やか。
板ノ間だけの世界が嫌で外へ出て遊んでいるうちに不慮の死を遂げる長男直助。
どの人間も自分の「居る場所」を必死に探っているという見方がこの時代だけでなく現代にも直結する。

舞台は信州木曽の藪原という山村、時代は幕末。尊王攘夷と公武合体といった大きな二つの政治勢力がぶつかるころ。
中山道を幕府へ降嫁する皇女和宮の大行列が通るころ。
物語は外から入る情報や人物と抜き差しがたくからむ。

結婚に興味を持たずひたすら修練を積む登瀬に弟子入りしてくる実幸は登瀬の最大のライバルとなる。
吾助は彼に櫛作りに天賦の才があることを見抜く。
それが登瀬のやっかみと焦燥感のもととなる。が、二人は結婚する。
しかし夫婦としての感情はなかなか和すことがない。
夫婦の関係はどうなるのか。
静かな山中のできごとであるが物語は緊張感をもって展開する。死んだ直助の作品が登瀬に夫を受け入れるヒントを与える。
著者のひとつひとつの駒の動かし方は実に巧妙で木曽の風土を描くことも、人物を描くことも時代の空気を伝えることもなにもかもいきいきしている。

最後、もう衰弱して寝込んでいる吾助が夫婦が鋸を引く音を音色はちがうが両方ともいいと感じる。そこに精神的平安が訪れる。
最後どうなるのかそうとうハラハラさせて予想のつかない結末に持っていく展開力も冴える。
木内昇は凄い書き手である。
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時雨の老人ホーム

2015-11-25 17:59:28 | 身辺雑記


傘をさして老人ホームに9:45に着いた。
前回10時2分に来たら二人が心配そうな顔で「お越しにならないかと思った」といったのではやめに来た。
食堂はまだ朝食の終らない人が4人いて牛のようにゆっくり咀嚼を楽しんでいる。
5分前になっても誰も現れないので施設長から指示されていたように、来るはずの入居者の部屋をノックして歩く。

戸を叩き人呼びまはる時雨かな

来るはずの人は2人。
文子さんは出るところであったが和子さんは具合が悪くて伏せっている。
「2人では句会はできませんね」
ということになって俳句よもやま話となる。
ぼくも文子さんも樋口一葉に関する俳句を書いてきていたのでしばし一葉の住んでいた本郷かいわいの話になる。
こういうとき俳句をしていると間を持たせることができる。
60歳から俳句をはじめて30年やっている文子さんの師系などうかがったり、ぼくが藤田湘子の弟子であることなど、話は尽きない。

そうこうしていたら今日はデイサービスへ行っていたはずの利子さんが見えた。
冬の雨予期せぬ人の来りけり

身内の不幸があったりで予定が狂ったらしい。
遅れたが俳句をやっているかもしれないと足が向いたようだ。しかし利子さんは一ヶ月前に見たときよりずっとはつらつとしている。俳句を続けられるかもしれない。
和子さんは今月いっぱいでここから出ていくそうだ。そうすると文子さんは句会をできなくなってしまう。
だから予期せぬ利子さんを大歓迎。
「この人は目のつけどころがいいんですよ」とおだてていい気にさせている。
ぼくも初心の利子さんを日常的にベテランの文子さんに面倒をみてもらいたい。
あいかわらず1行で俳句を書けず2行になるのは彼女の美意識であると思った。そうしないと気持ちが悪いようだ。

利子さんがデイサービスに行く水曜日を避けてこの食堂が空く時間を施設長と話しあって設定し直すことがぼくの仕事となった。
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清張は単純かつ濃厚

2015-11-24 05:58:09 | 映画
きのうは冬らしく寒く、午後1時、ふとんに入ってテレビをつけた。
2時からラグビーの早稲田対慶応戦があるのでそれまでのつなぎにムービープラスの洋画「スターシップ・トゥルーパーズ」をつけた。
巨大バッタみたいな生物(バク)相手に地球連合軍が戦争するという他愛のないSF映画だったが見はじめたらチャンネルをラグビーに回せなくなった。
こんな心理あり得ない……自分がわからなくなった。



「スターシップ・トゥルーパーズ1」のデニス・リチャーズ

スターシップ・トゥルーパーズは続編2、3があり、すべて見てしまったら6時半になっていた。
3でおもしろかったのは捕獲したバッタの頭脳というのか芋虫状のうんこのようなものが人間を知らず知らずのうちに洗脳してしまうところ。
司令官がバク教に侵されていて敵に植民星を売りわたしていたこと。
虫が人間に寄生して成長すると食い破って現れるというのはエイリアンの模倣でありこのへんがB級たるゆえん。

夜もテレビドラマを見た。
チャンネル銀河でずっと松本清張作品をやっている。
ゆうべは「張込み」(2011年)。
主演は若村麻由美(横川さわ子役)。
バスツアーで知り合った過去のある男女が家庭をもつが、女の過去の男が強盗殺人を犯して警察に追われる。
刑事が男からの連絡が来るはずだと張り込む。案の定、男が現れて女に電話してくる。
松本清張作品はトリックといった仕掛けはほとんどなく人間の中身を抉りだすことで深みを出す。そしてそれが濃厚で押してくる。
女が平和な3年の家庭生活を振り切って男に会いに行くとき、潜んでいた化け物が人間を食い破る昼間の映画のシーンを思い出してしまった。
男と女は裸になってからむのではないがまさに濡れ場であった。
濡れ場は体が濡れなくても気持ちが濡れることなのだと気づいた。
事が済むとどうして過去の男に走ってしまったかわからないという無常感を若村麻由美がよく出していて美しかった。

「張込み」は別の女優が演じたものも見たことがある。
女優の才能を見るのに、感情の量を計るのにこの「張込み」を演じさせるのがいちばんわかりやすい気がする。
松本清張は人間を食い破るエイリアンをずっとテーマにしている。おおかたの人はエイリアンを飼い殺しにしながら生きている、というのが清張さんの見方であろう。


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