![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/31/e5/435babbab3c8713639bfaad459c7f398.jpg)
駒木根淳子さんから句集『夜の森』(角川書店/本体価格2700円)をいただいた。
略歴をみるとぼくより1歳年下の1952年生れで上智大学史学科に在席していたという。
ぼくは上智大学独文科にいたわけだから3年は同じキャンパスにいたはずだが面識はなかった。それが俳句甲子園神奈川大会で審査員として遭遇したのであった。
気に入った句を挙げる。
樹樹たかく空なほたかく冬が来る
糶あとの河岸に秋風椅子に人
乾くたび道白くなる彼岸花
夕顔や軍鶏の眦尖りたる
せせらぎは鱗のひかり蕗のたう
踏切を十歩で渡るつばくらめ
引き摺りて漁網を運ぶ夕霞
短日や肉屋の秤すぐ拭かれ
返信を書くのが面倒ゆえ駒木根さんに電話してざっと感想を述べた。
「樹樹たかく」を褒めると「ああ地味な句ですね」と返答がきて作者と読者との差を痛感した。
ぼくはこの句を地味とは思っていない。
たとえばメタセコイアや落葉松が葉を落とす初冬、木じたいを高く感じるし隙間ができて空も高く広々と感じる。その辺の機微を朗々ととらえていて気持の張りと華がある。
「糶あとの河岸」の広々とした空間を吹く秋風をビビッドに感じるし、ほかの句も感覚的なところがいい。
六枚に散つて終りぬチューリップ
涅槃図の近づきすぎて見えぬもの
季語そのものへ切り込んだ一物俳句の切れもいい。
しかし本人はこのくらいでは満足できないようで、本の帯の自選15句にはかなり違う傾向の句を選んでいる。
そのなかでぼくが気に入らないのが次の句。
夜は秋の眠る故郷に眠れぬ母
「眠れぬ母」はわかるが「眠る故郷」とはどういうことか。廃れたとかいうことだろうか。ならばそう書く方がいい。感覚から遠ざかり頭の中で言葉をこねている。
冬あかね戦後生れに災後来る
「災後」は広辞苑にないが、災害に遭遇した後、被災した後、といった意味らしい。「災害が来る」ならまだしも「災後来る」はあまりにも観念的。フィギュアスケートの選手がバック転をするような違和感がある。
ついでにもう少し悪口をいいたいのが次の句、
腐海てふ干潟に戦車着く頃か
腐海とは、ウクライナ本土とクリミア半島の間に横たわるアゾフ海の西岸に広がる干潟のこととか。
駒木根さんは福島県いわき市生れということもあり、東日本大震災に深い衝撃を受けこれに取材した句を書かざるえない心境になったのであろう。
それが「災後来る」であったり、また戦争や紛争といった社会的事象にもなみなみならぬ興味をお持ちでそういう批評意識に見るべきものはあるのだが、それはストレートに俳句という形式に入って来られるのか。そういう問題を感じた。
論考するというセンスは感覚から遠ざかる。論考が侵入してくると俳句は色褪せる。
「腐海」という物珍しさを扱うとどうしても「てふ」ということをいいたくなる。けれど俳句において「てふ」も、そのおおもとの「といふ」も論考の言葉、解説用語であり理屈っぽい。
ぼくは俳句から「てふ」を一掃したいと思っている。俳句にとって理屈は敵であるとまで思っている。
風死せり応急施設てふ住所
なる句もあるが、これは「てふ住所」などと逃げないでもっと施設を描写したほうが句はリアルになり質は上るはずである。この程度でおさめたらもったいない素材である。
世の中に対してものをいいたいという傾向の中ではこの句がいい。
テトロンの日の丸うすし鳥帰る
批評意識を抑えめにして皮肉をまじえたユーモアに展開したところに妙味がありこの句集の最高傑作とみる。
かなり悪口に字数を費やしたようなので今度は褒めよう。
牛車より豚舎にぎやか青嵐
探梅やすずめのやうに日を浴びて
笹子鳴く駅に男を待たせたる
春逝くや息子に莫迦と言ひ遺し
駒木根さんという方は明るくて覇気がありユーモアの持ち主なのである。
たしかに豚舎はうるさい。この比較の的確さに笑いが込み上げたし、男を待たせる茶目っ気もいい。笹子を鳴かせたユーモアセンスは秀逸。「すずめのやうに日を浴びて」はあっけらかんとしていて好ましい。
莫迦といわれた息子は作者の配偶者らしい。そうとう年の行った息子に莫迦などという親子関係の明るさはすばらしい。死を哀しい痛ましいと詠まなかったセンスが優れている。
茄子の花寡黙な男なら信ず
笑ってしまった。
ぼくのことをいわれたような気がした。俳句甲子園の審査をして駒木根さんはぼくが寡黙でないことを知っていたはずである。そんな人に句集を送ったら何をいわれるかも想像できたであろう。
それでも送ってくださったことに敬意を表したい。
なお、句集の表題になった「夜の森」は次の句から出ている。
見る人もなき夜の森のさくらかな
被爆の地の桜のことである。瞑したい。